こばなし

日々のよしなしごと

「『おめでとう!』って、パレスチナの国旗を振るよ」

2009年01月09日 | ニュース
1947年11月29日、国連総会は、
パレスチナの土地の半分以上をユダヤ国家、
残りをアラブ国家にするという国連決議181号、
いわゆる「パレスチナ分割決議」を可決した。

アラブ連盟はそれに反発し、
1948年2月、
ユダヤ人国家の建国の阻止を決議した。

1948年3月、
アメリカは国連で分割案の支持を撤回する。


そして、1948年4月9日…。

金曜日の早朝、5時前、
100人以上の武装した者たちがやって来て、
そのパレスチナ人の住む村、
デイル・ヤシーン(Deir Yasin)を取り囲んだ。

武装団は村人に対し、
即刻、村を明け渡すように命令した。

村人たちはそれを拒否し、
村の男たちは、銃を持ち出し、村を守ろうとした。

やがて、武装集団と村との間で、
激しい銃撃戦が繰り広げられた。

だが、すぐに村は、武装集団に屈服した。

武装集団は、村の中に押し入ると、
報復のため、
村人を家から引きずり出し、壁に並べ、
銃や手榴弾を浴びせて殺していった。

その数は100人以上にものぼり、
その半数は、
妊婦を含む女性や子どもたちであった。

この武装集団は、
いくつかのユダヤ人の裏組織で、
その1つの組織「イルグン (Irgun)」のリーダーは、
後に建国されるイスラエルの首相、
メナヘム・ベギンだ。


その後、ユダヤの武装組織は、
パレスチナの村々に対し、
「もし、家を離れなければ、
デイル・ヤシーンのようになる」とふれ回り、
そして、その通り実行した。


1948年5月14日、
ユダヤ人は「イスラエル」の独立を宣言し、
それに反発するアラブ諸国との戦争に勝ち、
国連の「パレスチナ分割決議」よりもさらに多い領土を、
「勝手に」獲得する。

この間に、
2000人以上のパレスチナ人が虐殺され、
70万人以上が住む土地を追われ、難民となった。

国連が最初に本格的に取り組む難民、
パレスチナ難民の始まりだ。

当初、国際社会は、
パレスチナの難民たちに、
すぐに自分たちの土地に戻れるようにすると約束し、
国連は、彼らを支援するため、
「暫定的な組織として」
国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)を設立した。

それから60年、
UNRWAは、何度もその期限を延長し続け、
パレスチナ難民は、
4世代、440万人以上にもなっている。



1990年代後半、
ノルウェーの仲介などにより、
イスラエルとパレスチナは、
合意により土地を分割し、
そして2000年には、
「パレスチナ」国家成立…一歩手前まで行った。

あらゆる物を奪われてきたパレスチナの人たちが、
「イスラエル」を認め、
残りの土地で「パレスチナ」を建国する決心をした。

パレスチナの人たちにとって、
これ以上、譲ることがあるだろうか!

あと残るは、
「イスラエル」と「パレスチナ」が、
どちらも「首都」として求めている「エルサレム」を
どうするかという問題だけだった。

「エルサレム」は、
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地だ。

国際社会、パレスチナ、
そして、ほとんどイスラエルも、
「エルサレム」を分割して統治…という流れになってきた。
そしてそれは、現実的な解決策にみえた。

なぜなら、現在エルサレムは、
ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒などが、
それぞれうまく住み分けて暮らしているからだ。

だが、そんな大事な最終段階の、
2000年9月28日、
当時、イスラエルの野党リクード党首シャロンが、
武装兵を連れて、
パレスチナ・イスラム教の聖地に押し入った。

ぎりぎりの譲歩をしてきたパレスチナの人々は、
耐えきれずに怒りの声を上げた。

特に、若者、子どもたちは、
怒りを抑えられず、
イスラエルに立ち向かっていった。

…と言っても、その武器は、
ただの「石ころ」だ。

子どもたちは、「石ころ」を投げて、
イスラエルに立ち向かっていった。
(第二次インティファーダ)

そんなパレスチナの子どもたちに対して、
イスラエルは、完全武装した兵士と、
装甲車で応戦した。


その後、シャロンはイスラエルの首相となり、
パレスチナの独立など、
まるで無かったかのように消え去った。



今、イスラエルは、
パレスチナ人の土地の周りを、
高い壁で囲い、
パレスチナ人を、
経済的に、肉体的に、
そして、精神的に追いつめている。


そして、2008年の暮れ、
世界がクリスマスだ、新年だと言っている間に、
パレスチナのガザ地域を封鎖、
空や地上から攻撃を開始した。

イスラエルは、ガザ地区から、
ジャーナリストなどを完全に閉め出し、
食糧品や医療物資の持ち込みも妨害し、
逃げ場のない高い塀に閉じこめられた人々を、
殺している。

攻撃は、毎日続いていて、
1月6日現在で、パレスチナ人数千人が負傷し、
500人以上が死亡している。

イスラエルが、地上部隊の投入を開始した、
1月4日、日曜日からの1日だけでも、
26人の子どもたちが殺された。

BBCやCNNなど、世界のメディアは、
今、リアルタイムで、イスラエルの攻撃を伝えている。

ガザの中からインターネットで、
状況を伝える人々もいる。


今、わたしたちが目にしているのは、
ナチスドイツがユダヤ人を隔離したゲットーであり、
ナチスがユダヤ人を殺したホロコースト、そのものだ。


今、世界は…
…わたしたちは、リアルタイムで、
虐殺、ジェノサイドを、目の当たりにしている。



アメリカ・ブッシュ政権は、
この事態について、
停戦を破ったパレスチナ組織ハマスに、
全責任があると言った。

でも、本当にそうなのか?

あらゆる物を奪われてきたパレスチナ人に、
これ以上、何を要求できるのだろうか?

間違いなく、すべての責任は、
まず、第一にイスラエル。

そして二番目に、
「すぐに解決する」と、
パレスチナ人たちに約束しておきながら、
60年間放置し続けてきた、
国際社会にある。



2000年、「独立」の一歩手前、
わたしがパレスチナを訪れたとき、
パレスチナの人たちは、
完全には納得していなかったものの、
それでも「パレスチナ」という国が出来ることに、
みんな希望を持っていた。

わたしは彼らに、
パレスチナが独立した日に、
「わたしも一緒に、
『おめでとう!』って、パレスチナの国旗を振るよ」
…そう、約束し、笑いあった。

だが、その約束は、
未だに果たせていない。


そして今、殺されている人たちにとっては、
そんな未来も、どんな希望も、
もう、なんの意味などない。



関連リンク
Deir Yassin Remembered

1948年4月10日付けでデイル・ヤシーン村の虐殺を伝えるニューヨークタイムズの記事
200 ARABS KILLED, STRONGHOLD TAKEN

国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)

奪われたパレスチナの700もの村々



写真:8年前の第二次インティファーダの時に、
イスラエル軍の攻撃に巻き込まれた12歳の男の子と、お父さん

男の子をかばいながら、
お父さんは「撃たないでくれ」と叫んでいる。
この後、少年は殺され、お父さんは重傷を負う。



今、この刻も、子どもたちが殺されている。




この記事はmixi内
世界の肖像コミュより転載しています。










何もできないかもしれないけど
見ないふり
知らないふりだけはいやだ

たくさんのパレスチナ人が殺されて
たくさんの村が
跡形もなく破壊された
もう二度とパレスチナ人が戻れないように

家も国すらも失うって
いったいどういう感じだろう


遠い遠い国のできごとなんかじゃないよ

日本で軍事政権や
独裁政権が発足しない保証なんて
どこにもないよ


わたしはちゃんと
戦えるかな
自分でもわからない
正しいことってなんだろう



子どもが殺されていく世界なんて
おかしいんだ

子どもたちが
安心して
眠られて
笑えて
生きられる世界を
つくらなきゃいけない

それだけは
確かだ

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