なんとなくな日々

SL残日録(個人的なメモ帳)

2006年06月01日 23時59分37秒 | 本・雑誌
「李陵」中島敦 読了 (現代日本の名作より。画像は別) ☆☆☆☆☆

漢の武帝の時代、匈奴の大軍と戦ってとらわれの身となった悲劇の勇将・李陵を中心に、執念の歴史家・司馬遷、不屈の使節・蘇武の運命的な生き方を描いている。
書き出しは、次のように匈奴との戦いを予感させる場面から始まる。
「漢(かん)の武帝(ぶてい)の天漢(てんかん)二年秋九月、騎都尉(きとい)・李陵(りりょう)は歩卒五千を率い、辺塞遮虜(へんさいしゃりょしょう)を発して北へ向かった。阿爾泰(アルタイ)山脈の東南端が戈壁沙漠(ゴビさばく)に没せんとする辺の磽(こうかく)たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風(さくふう)は戎衣(じゅうい)を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北(ばくほく)・浚稽山(しゅんけいざん)の麓(ふもと)に至って軍はようやく止営した。

すでに敵匈奴(きょうど)の勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿(うまごやし)も枯れ、楡(にれ)や柳(かわやなぎ)の葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍(きんぼう)を除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と磧(かわら)と、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野(こうや)に水を求める羚羊(かもしか)ぐらいのものである。

突兀(とっこつ)と秋空を劃(くぎ)る遠山の上を高く雁(かり)の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同誰(だれ)一人として甘い懐郷の情などに唆(そそ)られるものはない。それほどに、彼らの位置は危険極(きわ)まるものだったのである。~」

中国史上の重要人物たちが不条理ともいえる運命に翻弄されながらも生きる意味を問い続けた内容のスケールの大きさと、中島敦の最高傑作といわれるその完成度の高い文体に感服。
「李陵」の題は、作者が33歳で亡くなった後、親交の深かった深田久弥が「できるだけ私の主観をいれない、淡白な題」で命名し遺稿として1943(昭和18年)7月『文学界』に発表されたらしい。

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