オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

墨東の旅 江戸東京博物館、横網町公園の慰霊堂・復興記念館

2016年06月02日 | 東京
両国界隈、江戸東京博物館、横網町公園を歩きました。

かつてはターミナル駅だった両国駅。テナントに入っていた居酒屋はなの舞は移転しました。

両国国技館

江戸東京博物館


「真田丸」展を開催中。私はシルバーデーに見ましたが、古文書、屏風絵などを中心とした展示でした。

真田の赤備え

博物館の裏手の徳川家康像。都内に家康像は珍しいのでは。皇居周辺にはないですよね。台座の亀は趣味が悪い。どんな意味があるのでしょう。

横網町公園。横網町公園は明治期に陸軍被服廠があった場所です。関東大震災の時、被服廠跡地に大勢の人が避難し、そこに火炎が襲いかかり多数の人が焼死しました。




東京都慰霊堂。関東大震災の犠牲者を慰霊するために建設されました。伊東忠太の設計です。

幽冥鐘。震災犠牲者慰霊のために中国仏教徒から寄贈されました。

震災遭難児童弔魂像

東京空襲追悼碑




東京都復興記念館。やはり伊藤忠太の設計です。大震災の資料等を展示するために建設されましたが、太平洋戦争の戦災被害の資料も合わせて展示しています。

4体の妖怪の彫刻

屋外ギャラリー。震災の火災で熔解した金属製品の塊を展示しています。



商船学校の魚雷の塊





熔解した自動車のフレーム

エンジン部





両国橋の鉄製看板

P.S.
横網町公園の東京都慰霊堂は関東大震災の震災慰霊と東京大空襲の戦災慰霊が同居し多少の違和感を感じました。もともとは震災慰霊堂だったものが戦後、東京都慰霊堂と名前を変えました。震災の被害地と空襲の被害地が大きく言えばほぼ一致すること、戦災慰霊施設の建設が遅れたことなどから、同じ慰霊堂で双方を慰霊するという現在の状態になったようです。
戦災被害者の団体は「自然災害と戦争被害を一緒にするのはどうなのか」「独立した戦災慰霊堂をつくるべきだ」という声はありますが、後日読んだ岩波新書「空爆の歴史」によると、公園及び慰霊堂は東京都の施設であり、外郭団体が管理しているため、外郭団体の都合、意思がカギとなっていると推測しています。要は、震災と戦災を分離すると、団体の権限というか業務領域が縮小するので分離は反対ということらしいです。
現在慰霊堂の奥側に空襲被害者の遺骨が安置されていますが、施設を分離するとなると、空襲被害者の遺骨は移設されることになります。都の団体はその移設に反対という姿勢のようです。なにやら靖国神社の分祀問題と似ている面もあります。
横網町公園一帯は空襲の直撃は免れ、慰霊堂と記念館は無事でした。近くに同愛病院があるので米軍は横網町を爆撃対象から除外したらしいと記念館の人が話していました。同病院は関東大震災の時のアメリカの義援金によって設立された病院です。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿