オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

印刷博物館「武士と印刷」展、徳川慶喜・松平容保終焉の地

2016年12月10日 | 東京



トッパン小石川ビルの印刷博物館で「武士と印刷」展を開催中、興味があって見に来ました。
凸版印刷は大日本印刷と並ぶ巨大印刷会社です。両社は日本1位・2位で世界でもトップクラスといっても過言ではない。凸版というと本社は秋葉原で、都内では小石川と板橋に主要な事業所があります。
昔、私の知人がタクシーに乗って「板橋の凸版印刷へ」と告げたところ、飯田橋の凸版、つまり小石川(大曲)の凸版に着いたという笑い話があります。「いたばし」と「いいだばし」、似ているといえば似ています。「こまごめ」と「まごめ」もよく似ている。
2000年にその小石川(大曲)のビルを建て直しトッパン小石川ビルが完成しました。新しいビルには印刷博物館とトッパンホールを併設しています。私は博物館にはポスター展を見にきた記憶があります。


「武士と印刷」展の第1部は武士を描いた印刷物、武者絵、錦絵、浮世絵など、第2部では武士による印刷物を展示しています。私が興味があったのは第2部です。江戸時代の印刷といえば浮世絵、版画などが思い浮かびますが、それらは活版印刷ではない。版木に文字を彫って印刷します。それに対してグーテンベルグの活版印刷は活字を使用します。
活版印刷はルネサンスの時代13世紀半ばにグーテンベルグが発明したと言われていますが、中国ではもっと早く11世紀には活版印刷(活字組版印刷)が始まり、13世紀に朝鮮に伝わって、日本にも13世紀末には伝わりました。
今回の展覧会では徳川家康による印刷物と活字が展示されています。室町時代にも寺社で印刷は行われていましたが、歴史上の人物で印刷を手掛けたのは家康が最初のようです。このころの活字は木製と金属製が混在していたようで、今回は銅製活字が展示されていました。
木製活字と金属製活字はそれほど時代の差はないようです。木製活字ができれば、鋳型をつくり金属活字をつくるはさほど困難ではない。
家康が活版印刷を行ったのに徳川光圀の「大日本史」はなんと一つの版木による印刷です。江戸時代の浮世絵、瓦版も木版印刷です。技術的には退化しました。
家康が手掛けた活版印刷が、孫の光圀に継承されず、江戸時代を通じて活用されなかった理由は日本語、漢字の字数の多さです。英文、アルファベットならば26文字ですが、日本語では漢字にひらがな、カタカナ。漢字だけの文章でも漢字の数は数千字です。さらに縦書きなので、文字のつながり具合、美しさも要求される。活字印刷は手間がかかり、メリットが少なく、美しくないというのが当時の評価だったようです。
そういう運命だった活版印刷も明治になり文明開化の時代になると、一気に復活し、大量印刷の時代へと進むのです。
印刷の歴史で徳川家康が登場するのはまったく意外でした。家康が活版印刷の創始者であることを歴史の教科書でもとり上げていいのではと私は思いました。

「武士と印刷」展を見たあと、安土城のVRも見ました。上野の東京国立博物館ミュージアムシアターで安土城のVRを見ましたが、それも凸版印刷の制作です。印刷博物館では別のバージョンを上映しています。
この印刷博物館は65歳以上は入場無料、VRシアターも無料で見ることができます。




ワールドブックデザイン展。本の装幀・デザインの展覧会です。


トッパン小石川ビル。続いてトッパンの北側の小日向周辺を散策しました。


国際仏教学大学院大学の門。15代将軍・徳川慶喜終焉の地です。慶喜は江戸城を出て、上野寛永寺、水戸、静岡を経て1897年に東京に戻って巣鴨に住み、1901年にここ小石川に移り、1913年にこの地で没しました。


慶喜邸跡には慶喜が大事にしたイチョウの木があります。どの木がそれなのかわかりませんが、それほどの大木はありません。

慶喜邸の北端は地下鉄丸の内線の線路が通っています。

今井坂(新坂)の説明

旧第六天町の説明

慶喜終焉の地の説明


慶喜邸のすぐ隣は会津松平容保の屋敷跡です。今は住宅供給公社の住宅が建っています。
容保は会津戦争後一時陸奥斗南藩で知事を務めましたが、その後、日光東照宮の宮司を務め、1893年に小石川で没しました。慶喜が小石川に住んだのは1901年ですから、容保の没後です。


少し歩いて小日向の切支丹屋敷跡にきました。江戸時代、キリシタンから海外情報を収集するため拘禁した屋敷がありました。





切支丹坂


地下鉄車両基地の下を通るトンネル


小日向台から切支丹坂、茗荷谷を経て春日通りへ上がる庚申坂













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