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オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

信濃国・古城の旅 関ヶ原で東軍に味方した真田信幸の松代城

2015年05月16日 | 長野
今回は当ブログ初の高速バス日帰り弾丸ツアーで、松代城へ行きました。高速バスも普通の大手バス会社のバスではなく、近年話題のウィーラー・エクスプレスのバスです。新宿西口を朝7時10分発、松代11時着、帰りは15時25分松代発、新宿西口19時20分着。松代滞在4時間あまりの強行軍です。

ウィーラー・エクスプレスのバス。関越道三芳PAにて。

松代に到着。松代は以前は松代町でしたが、隣の長野と合併し、今は長野市となっています。長野電鉄旧屋代線の旧松代駅。屋代線は2012年4月に廃止され、松代駅は駅舎は残っていますが廃屋のようになっています。

駅舎内

線路跡。終点の屋代駅の方向。逆は今も存続している長野線の須坂駅です。昨年私は長野線の長野・湯田中間には乗りました。一度屋代線も乗りたかった。

プラットホーム

改札口

駅前の「汽車ポッポ」の碑


真田家の重臣、小山田家の屋敷

松代観光案内所・物産館

池田満寿夫美術館。池田満寿夫は長野市の出身です。

小布施の菓子店・竹風堂の松代店。池田満寿夫美術館は竹風堂の運営です。

竹風堂の敷地内の松代城三の堀

城跡の側から見た竹風堂と池田満寿夫美術館

松代城の太鼓門

松代城の絵図面。武田流築城の特徴である三日月堀が目立ちます。三日月堀は静岡の諏訪原城や山梨の新府城にもありましたが、松代城ほど規模は大きくはなかった。残っていないのは誠に残念。

現在の松代城の案内図。松代城はもとは武田信玄が上杉と対抗し善光寺平をおさえるために作った海津城です。武田・上杉が激戦を繰り広げた川中島は松代の北、上杉が布陣した妻女山は西に位置しています。真田家は上田城が本城でしたが、関ヶ原の合戦で東軍に味方した真田信幸(信之)が上田城から松代城へ移り以降松代藩として幕末まで続きました。

二の丸南門跡




太鼓門と太鼓門前橋

太鼓門前橋の堀

太鼓門の狭間


太鼓門


太鼓門の枡形門


本丸跡

東不明門


東不明門の堀


北不明門

海津城跡の碑


北西隅櫓の石垣

北西隅櫓跡

北不明門の外側の二の丸

北西隅櫓の西方の土塁と堀




北不明門。不明門とは裏門、勝手門のことです。

狭間


北不明門の枡形門


北不明門の外部





北西側の土塁




西側の堀


再び太鼓門です。一周しました。














松本城周辺を歩き、日本ラジオ博物館を見学、真空管ラジオに感激

2015年04月10日 | 長野
松本城の見学を終えて周辺を歩きました。


松本神社



重要文化財の旧開智学校。明治6年(1873年)に建築された日本最古の小学校の一つ。





1階の教室

2階の講堂

旧司祭館。明治22年(1889年)にフランス人神父によって建築。


司祭館内部



現在の開智小学校

大手門にある四柱神社


大手門の千歳(せんさい)橋


女鳥羽川

女鳥羽川沿いにある日本ラジオ博物館。ふらっと気軽に入って大感激でした。

昭和期の真空管ラジオのコレクションです。これらはすべて館長が一個人で収集した物です。館長はまだ50代の方だそうで、そういう若い方が真空管に興味を持ち、普通にお仕事をしながら収集活動をし博物館を運営しているのには驚きました。尊敬します。館長は平日は東京で仕事をし週末に松本に来られるそうです。


真空管ラジオのコレクション


これは1963年製の東芝トランジスタラジオ。私がよく覚えている東芝「ヤングセブン」です。前田武彦がディスクジョッキーを務めるラジオ番組「東芝ヤング・ヤング・ヤング」に因んで生産された機種です。確かこれはFMを聞けませんでした。私はソニー製の小型FM・AMラジオを持っていたのが自慢でした。我々は深夜放送全盛期の世代でした。

1965年製のソニー「ソリッド・ステート11」(写真中央)、写真左はステレオ・アダプター。この2台セットでFMステレオ放送を楽しめます。私はソニーの小型AM・FMラジオを持っていたので、ソリッドステートは欲しくてたまらなかったが我慢をしました。右はナショナル・パナソニックのラジオ。

上段はAIWAの初期のラジカセ。下段はBCLラジオ。

ビクターの「ニッパーくん」

ブラウン管テレビ

ビクターのアンサンブル・ステレオ。当時はステレオといえばこんな形でした。パイオニア、山水、トリオがステレオ専業御三家、コロンビアとビクターが音響総合メーカーのビッグ2でした。アイワ、アカイ、ラックス、オンキョー、TEACなどいろんな専業メーカーがありました。今残っているのはパイオニアとJWCケンウッド(ビクターとケンウッドが合併。ケンウッドはトリオが社名変更したもの)、オンキョー、TEACくらいでしょうか。

テレビ実験放送時のテレビ。丸型のブラウン管です。




2階では企画展「ラジオのデザイン」展を開催中でした。
2階ではトランジスタラジオでAMラジオ放送を流し、1階では真空管ラジオで音を出していて、双方を聴き比べることができます。真空管のほうが音が柔らかくて太い感じがして聞いていて心地いいですね。


松本といえば開運堂の銘菓「老松」。今回は老松ではなく、「松本の城」とどら焼、桜餅をお土産に買いました。














信濃国・古城の旅 五層六階の天守が現存する国宝・松本城

2015年04月09日 | 長野
青春18きっぷ、今期最終回の旅で松本城を訪ねました。

昨年夏以来の松本駅です。駅前ロータリーが広いので私の好感度は高い駅の一つです。

松本城の大手門跡付近の女鳥羽川

大名小路井戸。松本は扇状地にあるため地下水が豊富で、市内に自噴井戸、湧水が点在しています。

外濠

国宝・松本城の碑

案内板




二の丸跡から見る天守

埋め橋(うずめばし)と天守

二の丸の桜

濠の水面に映る逆さ天守

黒門

券売所

黒門の二の門内側

黒門の狭間。小さい正方形の狭間が鉄砲狭間、縦長の狭間が矢狭間


黒門の枡形

石垣

本丸跡





左手前に突き出ているのが月見櫓。防御用というより月見のため、娯楽・遊興の場所として付け加えられた櫓です。


天守の北側に付加された乾小天守



天守入口


天守内部



鉄砲蔵の火縄銃の展示。東京・港区の故赤羽通重が収集した百数十丁の火縄銃が寄贈され「赤羽コレクション」として展示されています。


本物の天守ですから、階段は急でもちろん木製です。




天守からの眺望

天守の天井

天守最上階


国宝の指定書

月見櫓の内部。窓は大きく開き開放的です。


月見櫓からの眺め

天守の石垣

月見櫓の赤色の回縁(めぐりえん。写真手前)と巽付櫓の石落とし(写真奥)

中央に天守、右側に乾小天守、左側に月見櫓と巽付櫓。横綱の土俵入りのようです。


加藤清正駒つなぎの桜



太鼓門

太鼓門の枡形



黒門の高麗門

三の丸跡の松本市役所。屋上の塔屋は展望台になっていて市民に開放されいます。

市役所展望台から見る天守と太鼓門、外濠

展望台

太鼓門から見る市役所

二の丸御殿跡


二の丸跡から見る天守

本丸北側の北不明門
































信濃国・古城の旅 武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の上原城

2015年03月18日 | 長野
先日訪ねた新府城に続いて中央線沿線の古城、武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の山城、上原城を訪ねました。青春18きっぷを利用しての鉄旅です。

乗り継ぎの都合で小淵沢で時間調整。小淵沢は初めての下車です。

駅中の立ち食いそばはなかなかの水準でした。


茅野駅で下車。茅野駅は茅野市民館、茅野市美術館に直結、モダンな建物です。

駅前広場のC12型蒸気機関車

上原城への途中、ヤマタカ味噌の本社工場。聞き覚えのある信州味噌のブランドです。手前にたくさんの石が置かれています。味噌は桶に入れてその上に石を積み上げ熟成します。味噌工場ならではの風景ですね。

ここから上原城までは約2km、上原城は永明寺山の山腹に位置しています。

千鹿頭神社

上原城への道は永明寺山遊歩道として整備されています。

所々に石垣があります。

山の斜面はきのこ山となっていて立入禁止です。


永明寺山遊歩道の1km地点

崖下は墓地です。

国有林払下げ記念碑。明治時代に地元村は国有林の払い下げを受けて砂防工事を行いました。払い下げの資金は地元の財閥・片倉家によって融資されたそうです。片倉家は片倉工業および富岡製糸場のオーナーです。片倉家が作った片倉館が下諏訪温泉にあり、是非一度立ち寄りたいと思っています。伊達藩の支藩・白石藩の片倉家ももとは諏訪出身で、財閥の片倉家とは同じルーツのようです。

陽の当たらない部分は雪道でした。融けた雪が凍結し滑りやすく非常に歩きにくい。ノーマルタイヤの車だと無理ですね。車も歩行者も私以外はゼロでした。

上原城の入口に着きました。上原城は永明寺山の山腹のコブ状の山・金毘羅山にあります。

上原城跡案内図

上原城址碑




主郭下の帯郭の石仏

井戸

金比羅神社の鳥居。上原城の三の郭です。



金比羅神社は四国・讃岐の金比羅権現が分祀されたものです。


神社の下、諏訪盆地側は断崖絶壁です。

上原城址碑



二の郭の物見石。高さ5m以上の巨石

標高978mの主郭跡。主郭は広くはありません。上原城は小規模な山城で、守備兵はせいぜい100人程度かと思います。金毘羅神社のある諏訪盆地側は断崖で鉄壁ですが、永明寺山の中腹にあるため永明寺山側は守りが弱い印象です。





上原城は室町時代後期に諏訪氏によって築城され、天正11年(1542年)諏訪氏五代目の諏訪頼重の時に武田信玄に攻められ落城しました。諏訪頼重の娘は信玄の側室となり、武田勝頼の母・諏訪御料人として知られています。豊臣秀吉・淀君・秀頼の物語と似ていますね。

上原城を下って城山の麓の頼岳寺へ向いました。



頼岳寺山門


頼岳寺本堂


本堂の裏手に諏訪一族の霊廟があります。

諏訪氏は頼重滅亡後、江戸時代に別の系統の諏訪頼水が高島藩初代藩主となり再興しました。この霊廟の中央に頼水の父・頼忠(頼重の従兄弟)、右に頼水夫人、左に頼水自身が祀られています。


頼岳寺の裏山、城山の麓、板垣平に諏訪氏の居館がありました。

茅野駅に戻りました。茅野市で縄文期の2つの土偶が発掘され注目されています。一つは国宝・土偶の「縄文のビーナス」、もう1つは重要文化財「仮面の女神」。土偶を展示する尖石縄文考古館へは茅野駅からバスで30分ほどです。


帰路に穴山駅で途中下車。以前から中央線でここを通るたびに、穴山駅のホームのこの案内板は気になっていました。穴山といえば武田を裏切って徳川家康と内通した穴山梅雪です。穴山氏の発祥の地だそうです。

駅の正面にある能見城。能見城が穴山氏ゆかりの城です。





かなり期待はずれの本丸跡です。

能見城跡の碑の隣には守屋一族発祥の地の碑。守屋一族について説明はありません。穴山氏とはどういう関係なのか不明です。この碑は守屋一族の末裔が建てたものです。

穴山氏の墓や居館跡もあるようですが、城跡がやや残念なものだったし、時間もないのでパスしました。
穴山氏はともかく、諏訪氏の歴史探訪は有意義でした。































中央アルプス・木曽駒ヶ岳千畳敷を歩く

2014年10月13日 | 長野
紅葉の木曽駒ヶ岳・千畳敷を歩いてきました。今回は鉄道ではなく珍しくもバス旅です。

駒ヶ岳ロープウェーのしのび平駅から一気に標高2650mの千畳敷へと上がります。千畳敷カール周辺は台風18号の通過によって紅葉のピークは過ぎていましたが、天気は快晴、青空、無風、絶好の行楽日和でした。

千畳敷のお花畑探勝路

南アルプスの彼方に富士山が見えます(超望遠レンズで撮影)。

南アルプスの最高峰・北岳(?)

千畳敷から見える宝剣岳。駒ヶ岳は千畳敷からは見えません。駒ヶ岳へは宝剣岳を経由して登ります。

南アルプス方向の眺望

宝剣岳

宝剣岳の山頂

駒ヶ岳神社と宝剣岳

駒ヶ岳ロープウェー

しのび平駅

木曽駒ヶ岳は日本百名山の一つです。同じ百名山の木曽御嶽山は先ごろ噴火をして大勢の犠牲者が出ましたが、木曽駒ヶ岳は火山ではなく、氷河によって削られたカール地形で知られます。
私、本当は駒ヶ岳に登りたいとかねがね狙っていたのですが、3年前に病気をし、今は山頂を目指す自信がありません。山頂へは行けなくても、一度は駒ヶ岳を見たいと思って今回やってきましたが、千畳敷からでは木曽駒の山頂は見えないんですね。ちょっぴり残念です。