とろける。

感じたことや、思いついたことを書いています。

2021年の新年に寄せて

2021-01-01 07:41:23 | 考えていること
新年おめでとうございます。
最近思ったことのメモみたいなものになりますが、久しぶりに投稿してみようと思います。


生きづらさの少ない世の中になってほしいということに長く関心があったけど、どんな社会がいいと思うのかについての考えが落ち着いてきた。最近は、また違うことに関心が向かっているのかもしれない。というか安心して好奇心を羽ばたかせられる社会でいてほしい。

どんな社会がよいと思うのかまとめ
・安心して自由に発言できる(共謀罪のような法律面と社会の空気の両方の側面から)
・多数派や権力を持つ人の常識を押しつけられない
・生まれや育ちの不平等を減らす方向に進んでいる
・働けなくても生活に困らない。住むところ食べる物がある
・不当に拘束されない(難民を含む)

こちらはピンポイントですが、雇用について思うこと。
働かなくても生活できる社会だったらブラックな職場を辞められない人が減るんじゃないかな。あと、会社も従業員をいつでも解雇できるなら、自ら辞めたくなるような嫌がらせをしなくなる。ベーシックインカム的な制度ができたり、雇用についての法律も変わったらいいな。


人間とは全然違う生き物についてもっと知ってみたいと思った。トビムシとかミミズとかタコとか……。解剖とかは苦手でできないし見られないんだけど、素人でも世界の研究にわずかにでも参加できる何かがあったらやってみたいな。
あと、土壌、微生物、分解、排泄物、下水処理あたりについてもっと知ってみたいと思った。安易に間違ったエコなものに飛びつかずにすむように、掘り下げられたらいいな。

昨年読んで最も印象に残った本はポール・ブルームさんの『反共感論』です。たくさんの人に届いてほしい、一緒によい社会をつくっていきたい。
http://www.hakuyo-sha.co.jp/psychology/against-empathy/

芸能人を自分たちとは別の生き物だと思うのはもうやめよう

2020-10-03 18:33:56 | 考えていること
最近聞こえてくる芸能人の方のニュースに心がざわざわする。

自殺、犯罪、結婚……。

最近のニュースでは結婚相手が「一般人」だと報道されていて、違和感があった。
芸能人は一般人ではないの?一般人って何?
それはなんだか、一般人である私たちとは別の生き物だと言っているように聞こえて居心地が悪かった。
そしてそれは「私たちとは違うから何を言ってもいい」という感覚に繋がっているような気がする。

自分には何の影響もないのに芸能人や有名な方に何か問題があったときに、言いたい放題批判をするのをネットや現実世界で見かけることもある。
その声はその人にも届いて必要以上にその人を傷つける。

芸能人のやっている仕事は、例えば食料や必需品を作ったり、人のお世話をする仕事と比べて目立つ。憧れられることも多い。
「やりたい仕事についてちやほやされているんだから、何を言われてもしょうがない。」そんなのはおかしいと思う。それは、自分と他人の人生を慈しめない人の発する呪いの言葉だ。

人間の種類に線を引いてああだこうだ言うのはもうやめたいし、やめてほしい。



身内の子だけじゃなく面倒を見ていきたいと思った

2018-08-19 20:38:48 | 考えていること
今年は大企業に勤めているので、9連休という長い夏休みでした。
最後の3日間は、友人と友人の子ども2歳と旅行に行ったり、私たちの家に泊めたりしました。

外でその子の面倒を見ていると、私がその子の親の親戚や姉妹だと思われたりすることがあり、以前別の友人の子どもの面倒を見ていたときもそう言われたことがありました。

やっぱり、子どもの面倒は血縁者が見るものと思っている人がけっこう多いのかなと思いました。

最近の私は全体的にやや子どもにモテるようになってきたみたいで、昨日行った古材や古道具を売っているお店では初めて会った兄妹になつかれて、ちょっと疲れたけど面白く、楽しかったです。

身内の子どもだけとか、知人の子だけ、地域の子だけ、同じ国の子だけじゃなくて、たまたま機会があれば誰の子でも面倒をみたらいい気がします。

理想を言えば生きている人全員がしあわせでいてほしいと思うので、できる範囲で人に親切にしていきたいと改めて思いました。

ココロはどうしたら自由になると思いますか

2018-08-03 19:19:31 | 考えていること
お題箱に「ココロはどうしたら自由になると思いますか。」というお題をいただきました。
厳密に考えると、ココロって何?自由って何?という問いに答えていかないといけない気がしますが、ココロが自由になるためにどうしたらよいか私が思い浮かんだことをゆるい感じで話してみようと思います。

その最初の一歩は「感じた違和感をなかったことにしない」ことかと思います。
生きて他の人と関わっていると、ときどき「えっ、そんなことする?」「そんなこと言う?」と思う行動に出くわし、驚いたり、いやだなと思ったり、傷ついたりしませんか。

もちろんその場でその方とやりとりをして解決できればいいのですが、私はその場でははっきりと何がいやなのか分からずに対応ができず、あとで怒りにかられたりします。
そして、少し時間が経ってから、やっぱりそれはいやだったな、こんなふうにいやだったなというのが整理されて「今度そういうことがあったらこのように対応しよう」とか「自分はこういうことはしないようにしよう」というふうに落ち着いてきて、自分の生きる方針が見えてきます。
漠然と怒りにかられたり、仕方ないと抑え込むのではなく、何がどういやだったのか分かりたい。

どんな対応をしても分かり合えないだろうという人と話をしても消耗するので、直接自分がいやだと思う行動をとった人に働きかけることはしなくてもいいと思いますが、「そういうことが起きても仕方ない」「そういうことをされても仕方ない」とは思わないようにしていきたいと思います。
「世の中そういうもんだ」という考えには極力沿わないようにしています。すぐじゃなくてもそのうち変わるかもしれないし。あきらめ悪くいたいと思います。

ここまでが、違和感についての話でした。
ちょっとかっこつけて、違和感の芽を摘み取らないようにしようなんて言ったりします。

あとは、世界を知ろうとすることでしょうか。
実家にいた子供の頃は、親と学校の人くらいしか知らなくて、とても窮屈だったと思います。
実家を出て、知らない人たちの中に入ったらだいぶ楽になりました。
本を読んで、これまでの関わりの中では誰も語ってくれなかったけれどとても共感することばに出会ったり、時代や地域が変わると文化がすごく違うことを知ったりしました。身近な社会の常識が絶対だなんてことはないんだと本当に思いました。

いろいろな場所や考え、生きかたがあることを知ると、ここだけじゃないということが分かり、選択肢が増えます。選択肢が増えることは、自由になることに近いのではないかなと思います。


そして、感じたことを書いたり、話したりすることで、自分の考えや気持ちをより理解できるような気がします。
自分のことを知ると、どうしたいかが分かって進む方向が見えてくるんじゃないかなと思います。

自由で居続けるために、一度決めたことや他人の言う通りにするのではなく、こういったことを地道に繰り返して、自分の考えを更新していくのがよいのかなと思います。

(何だか書いていてちょっと恥ずかしくなってきました。
読んでくれた方の感想や考えがあったらぜひ聞いてみたいです。)

一生の愛は誓わないよ

2018-07-07 09:55:19 | 考えていること
やってなかった結婚式をやることになって、でも一生の愛を誓いあうやつはなんとかしてやらないことにしたいよねとだんなちゃんと話す夢を見た。

一生の愛を誓いたくないっていうのは実際以前に話している。
気持ちは変化するものだし、誓ったから気持ちが離れても無理やり一緒にいるってのは幸せじゃないし、未来を縛るのは嫌なんだ。そして、嘘になる可能性のあることをできるだけ言いたくない。

こういう考えがだいたい一緒なのは、趣味が合うとかよりも私たちにとって大切なことかもしれない。もちろん、考えが違ってもそれはそれでいい。思ったこと感じたことを素直に話せることが、だんなちゃんと私が仲良しでいられる理由なのかな。

どう働くか、何をするかをいつも悩んでいる

2018-02-11 10:29:19 | 考えていること
仕事をしょっちゅう変えるので、これから何の仕事をしようとしょっちゅう悩む。
やりたい仕事をぱっと見けてそれに向けて進めばいいんだけど、最近はそれが何なのかさっぱり分からず身動きがとれない。

そしてどんな働き方をしたいのかも迷ってしまう。
こつこつとやれそうなことをこなす仕事、大変だけど手ごたえのある面白い仕事。
このふたつはきっぱり別れているのではなくてグラデーションなんだろうけど、試しに分けて考えてみる。

前者のイメージは派遣の事務とか飲食のアルバイトとか、立場からして工夫や意見を求められていない仕事とか、もうだいたい工程の決まっている工場とか。
後者は、何か新しい事業の立ち上げとか、何かを改善する仕事とか。
自分の後者に対するイメージはとぼしいな。
言われたことをやる仕事と考えて自主的に動く仕事という感じなのかな。

つらいことは嫌だからこつこと型の生きかたに憧れたりもするんだけど、工夫や意見を求められない仕事はだいたい退屈していやになってる。
でもつらいことハードなことはいやだからわりと前者を選びがち。
前者の仕事を選びがちだけど、後者を選べきなのかもしれない。
前者の仕事をしつつ趣味や友人関係を充実させるのもあんまり得意じゃないし。
勝手だけど、基本こつこつだけど工夫や意見も取り入れられる職場が理想かもしれない。けど、なかなか見分けられないんだよな。

後者のような自主的に動く必要のある仕事は、なかなか採用されない。
職につくまでのハードルが高くて、その間に「別にそこまでこれをやりたいわけでもないし」って思ってしまう。
また、そういう仕事がしたいと思っていても具体的に何がしたいのか分からない。
なので応募したい仕事もなかなか見つからない。
自分の内側を見ていても出てこないから、いろいろな求人やものに触れてこれはいいかも、これは興味ないなとかしていくしかないのかな。

将来のことに悩んでると思ってたんだけど、将来のことじゃないよなって思った。うぬー。
面倒だし向き合いたくない。向き合いたくないけど、向き合わないと結局これをこれからも繰り返してしまう。

お仕事応募するのって気力がいるよね、いくつか応募したらもう疲れちゃうよ。
探したり、応募書類に書くこと考えたり、質問したいことを考えたり…。
同時に複数応募したことがこれまでないけど、それをしていかないといけない気がする…。

明るく元気な人を求める求人を見て、極端ではない自己開示を目指そうと思った。

2017-12-20 10:57:34 | 考えていること
気になる求人の求める人物像に「明るく元気な人」と書かれていて、ひっかかった。
私は自分に対して「明るい」とか「元気」というイメージをあまり持っていない。
どちらかと言えば落ち込みやすく、だるいことが多い。

だが、求人の文字通りに「明るい」「元気」を自分にあてはめて、これは自分にはできないと考えるべきなのだろうか。

まずは翻訳しよう。職場で必要とされている明るさとはなにか。
例えば、いつも「そんなのむり」とか「〇〇さんは〇〇ができていいよねー」とか後ろ向きなことを言っている人がいたら、周りの人もひきづられたり、やりづらくなるだろう。前向きでいてほしいというのは分かる。
また、お客さんと接する仕事だったら、笑顔で挨拶ができて、お客さんにウェルカムの気持ちが伝わったほうがいいというのも分かる。

それであれば、別にそれは落ち込むなとか疲れたって言うなってことではないかもしれない。また、いつでも元気で一度も体調を崩さないということでもないかもしれない。

私は文字通りに解釈したくなってしまうので、「明るい」「元気」を求められるのであれば、いつでも笑顔で前向きで心身が不調になることは一度たりともなくできないことなんてない完璧な人を想像してしまう。そしてそんなことを求めるなんていやだと思う。
だが、1か0なはずはない。どういう意味で言われているのだろうかと翻訳をすれば、考えようがある。

求人に応募する場合や、職場で働くときはすべてを自己開示する必要はない。とはいえ、ある程度自己開示してそれでもやっていけそうだと感じたところにいるのが良いと思う。
聞かれてもいないのに「生きること自体がいやになることがある」といったことを面接のときにわざわざ言う必要はない。
私がこういうことを言いたくなるのは、自己開示がをすることがすべてを受けとめてほしいということに結び付きやすいからだろう。先日読んだ『その後の不自由』という本に、依存症のひとが「ニコイチ」の関係(「相手と自分がぴったり重なりあって「二個で一つ」といった関係」)を望んでしまいやすいということが書かれていた。そういうひとたちは複数の人とうまい距離感を取るのが難しくて、自分のことを「全部教えるか、まったく教えないか」になってしまいがちだという。私にもその傾向がある。
全部知ってほしいと願ってしまってもうまくいかないけど、自己開示をまったくせずに相手に合わせ続けると、しんどくなって爆発して関係をダメにしてしまう。「あれもこれも全部受けとめてほしい」とはならない自己開示をうまくできるようになっていきたいと思った。

我慢のできる子に育てよう、なの!?

2017-10-27 18:56:03 | 考えていること
先日、道を間違えて入った住宅地で「我慢のできる子に育てよう」みたいな標語の看板が立っていたので、たまげた。

そんなだから長野は未成年の自殺率が高いんだよー!!なんて思う。
子どもたちに幸せになっていってほしいと願うより、他人に合わせて我慢するように育てたいのかなぁ…。

人から大切にされていれば、そのうち人を大切にしたくなるだんじゃないかな。
でも、我慢を強いられたら、我慢させられた恨みが他の人にも向いていくんじゃないかって思う。

我慢する社会は、既に力を持ってる人や多数派の人に合わせる世界なのではないかと思う。
それに合わなかったら、生きづらい。
そんな窮屈な世界はいやだ。

そういう見えづらい力を少しでも取り除いていきたい。
各自が自分の思うままに生きられる世界にしていきたい。

*****************

最近こんな記事を見たので、ああーと思ってしまった。
長野)未成年の自殺死亡率ワースト、県が対策強化

また何の仕事をするか迷ってる

2017-10-23 21:20:20 | 考えていること
今後の仕事をどうしたらいいのか決まらないまま日々が過ぎている。
先々カフェをやりたい気持ちもあって、苦手意識のある調理の仕事を探したりしているけど、それでいいのか不安だ。(調理の技術は日常にも役立ちそうだが)

そもそも先々カフェをやりたいというのだって、他にやりたいことが思いつかないだけかもしれない。
どんなお店がいいかと想像してみても、それで生計が立つようなものはイメージできないから、趣味のつもりがいいのかもしれない。

これまで、つらそうだから、向いてなさそうだからと近寄らなかった仕事が精神の問題を抱えている人を支援する仕事だ。生きづらさを感じている人でも、何とか少しでも楽しく生きていけたらいいなと思う。世界に味方がいるなんて思えない人が、そんなことなかったと思えたらいい。

思い返せば、以前やったカフェも、その文脈にある。
「生きてていい」というコンセプトだったと思うけど、それは接し方や態度で、「生きてていいよ、ここにいていいよ」と伝えようとするものだったと思う。

結論は出ないけど、そういう考えを土台にしたお店のようなものをやるのもありだし(自分が生活できるかどうかや、それがちゃんと人に届くか、やりかたは考えないといけない。しかもすぐにはできない気がする)、カフェやお店じゃない仕事でもいい。
カフェじゃなくていいんだ!と思うけど、違う方法っていうのが、思いつかないんだよなー。何がいいかなぁ…。

まあそうなりがちだよねと思うけど、これから先もそれでいいとは思わないことがたくさんある

2017-05-17 09:45:38 | 考えていること
経緯や歴史からこのような現状があることを理解はできても、納得はできないことがたくさんある。
これまでそうだったのはもう仕方ないとしても、これからもそうだったらいやだ。
過去の人が我慢したものを、未来の人まで我慢することはない。
なんてことを最近思っている。


最近そう思った例をいくつか書いてみよう。

服装について、男性が女装しているととやかく言われるのが嫌だなと思った。
そもそも、女装とか男装とか、楽しくて言いたい時以外はいらない言葉じゃないかと思う。着たい服を着ればいい。女とか男とか関係ない。
便宜的に、男女で体型の傾向があるから、主に女性向きの服、主に男性向きの服というのが作られて売られているのは分かる。
しかし、スカートやハイヒールを履いて化粧をしている人は、女装をしているのではなくて、単にスカートやハイヒールを履いて化粧をしている人だ。
わざわざ女装と言わなくてもいいのではないか。もしその人が女性の装いをしたいという気持ちで本人が女装と思っているのはかまわないけど他人が女装だとか言う必要はない。

同じようなことを子どものおもちゃ売り場でも思った。先日行ったお店は「男児向け」「女児向け」とおもちゃが別れて置かれていたので、とても驚きショックだった。
そんなことをされたら、車の好きな女の子やかわいい人形の好きな男の子は欲しいものを買いづらいじゃないか!
例えばトミカはトミカであって「男児向けおもちゃ」ではない。
男児とか女児とか分けずに、「のりもの」とか「人形」とか内容でどこに売っているかを示してくれたらいいのにと思う。

立場の強い人がそうでない人を従わせようとするのも嫌だなと思う。
例えば、年上を敬えという文化が嫌だなと思った。
年上であろうと同い年であろうと年下であろうと、敬いたい気持ちになったら敬うし、この人は嫌だなと思ったら敬いたくはない。
「年上を敬え」というのはたぶん年上の人が言うことが多いのだろう。好む好まないにかかわらず、年上を敬う振る舞いをさせられてきてようやく年上になって敬われたいのではないかなんて勘ぐってしまう。
最近は代々取り組んでいる農業や工芸に取り組むことは少ないから、経験を披露する場がなくて敬われる機会が少なく、自分が認められていないように感じたりもするのだろうか。
とは言え、年上を敬え、年上の言うことに従えというのは暴力的なことだと思う。

子どもは親のものみたいな時代もあったかもしれないが、親と子どもは別の人間だし、親と子どもは他人だと思って接したほうがいいと思う。
他人にしないことを子どもにするのはおかしい。

出る杭は打たれても仕方ないとか村八分とかも、そんな伝統があったかもしれないが、なくなってほしい。それは、ただの妬みや嫌がらせだと思う。


多くの人を違う振る舞いをする人や、力を持っている人に従わない人を、強制的に多数派に従わせようとする文化や伝統は、残すべきものじゃない。

伝統行事とか学校とか、一律で、全員を何かに強制参加させるのは、違う価値観の人を殺してしまうと思う。地域のお祭りや宗教も全員参加はおかしいと思う、やりたい人だけでやればいいし、それで今の規模が維持できないなら、その程度のものだと思う。

過去も、現在も、たくさんの非多数派の人が否定的な扱いをされて、それが仕方のないこととされている気がする。
まあそうなりがちだよねと思うこともあるけど、これから先もそれでいいとは思わない。