とろける。

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明るく元気な人を求める求人を見て、極端ではない自己開示を目指そうと思った。

2017-12-20 10:57:34 | 考えていること
気になる求人の求める人物像に「明るく元気な人」と書かれていて、ひっかかった。
私は自分に対して「明るい」とか「元気」というイメージをあまり持っていない。
どちらかと言えば落ち込みやすく、だるいことが多い。

だが、求人の文字通りに「明るい」「元気」を自分にあてはめて、これは自分にはできないと考えるべきなのだろうか。

まずは翻訳しよう。職場で必要とされている明るさとはなにか。
例えば、いつも「そんなのむり」とか「〇〇さんは〇〇ができていいよねー」とか後ろ向きなことを言っている人がいたら、周りの人もひきづられたり、やりづらくなるだろう。前向きでいてほしいというのは分かる。
また、お客さんと接する仕事だったら、笑顔で挨拶ができて、お客さんにウェルカムの気持ちが伝わったほうがいいというのも分かる。

それであれば、別にそれは落ち込むなとか疲れたって言うなってことではないかもしれない。また、いつでも元気で一度も体調を崩さないということでもないかもしれない。

私は文字通りに解釈したくなってしまうので、「明るい」「元気」を求められるのであれば、いつでも笑顔で前向きで心身が不調になることは一度たりともなくできないことなんてない完璧な人を想像してしまう。そしてそんなことを求めるなんていやだと思う。
だが、1か0なはずはない。どういう意味で言われているのだろうかと翻訳をすれば、考えようがある。

求人に応募する場合や、職場で働くときはすべてを自己開示する必要はない。とはいえ、ある程度自己開示してそれでもやっていけそうだと感じたところにいるのが良いと思う。
聞かれてもいないのに「生きること自体がいやになることがある」といったことを面接のときにわざわざ言う必要はない。
私がこういうことを言いたくなるのは、自己開示がをすることがすべてを受けとめてほしいということに結び付きやすいからだろう。先日読んだ『その後の不自由』という本に、依存症のひとが「ニコイチ」の関係(「相手と自分がぴったり重なりあって「二個で一つ」といった関係」)を望んでしまいやすいということが書かれていた。そういうひとたちは複数の人とうまい距離感を取るのが難しくて、自分のことを「全部教えるか、まったく教えないか」になってしまいがちだという。私にもその傾向がある。
全部知ってほしいと願ってしまってもうまくいかないけど、自己開示をまったくせずに相手に合わせ続けると、しんどくなって爆発して関係をダメにしてしまう。「あれもこれも全部受けとめてほしい」とはならない自己開示をうまくできるようになっていきたいと思った。