「第1」を読んで、面白い! 実に面白い。
序章のような「第1」。
鷗外訳の他の作品に触れて、さまざまな説明も面白い。
たとえば、ここに、鴎外の全集があります。
勿論、よそから借りて来たものである。
(『女の決闘』より引用)
鷗外全集が手元にあることを、何度も強調。
鴎外は、ちっとも、むずかしいことは無い。
いつでも、やさしく書いて在る。
(『女の決闘』より引用)
諸君は、いま私と一緒に、鴎外全集を読むのであるが、
(『女の決闘』より引用)
飜訳篇、第十六巻を、ひらいてみましょう。
いい短篇小説が、たくさん在ります。
(『女の決闘』より引用)
みんなそれぞれ面白いのです。
みんな、書き出しが、うまい。
書き出しの巧いというのは、その作者の「親切」であります。
(『女の決闘』より引用)
この第十六巻から、巧い書き出しを拾ってみましょう。
(『女の決闘』より引用)
「埋木」「父」「黄金杯」「一人者の死」「いつの日か君帰ります」「玉を懐いて罪あり」「労働」「地震」 八編の書き出しを抜粋。
鷗外さんの作品をいかに読み込んでいたか。
鷗外全集を熟読されていたのでしょう。
この第十六巻一冊でも、以上のような、さまざまの傑作あり、
宝石箱のようなものであって、
まだ読まぬ人は、大急ぎで本屋に駈けつけ買うがよい、
一度読んだ人は、二度読むがよい、
二度読んだ人は、三度読むがよい、
買うのがいやなら、借りるがよい、
(『女の決闘』より引用)
と大いに絶賛。
以上のような前置きをして『女の決闘』を解説しはじめる。
太宰さんが執拗に「ここに、鴎外の全集があります。よそから借りて来たもの」と繰り返しているが、
上記に「まだ読まぬ人は、大急ぎで本屋に駈けつけ買うがよい」とあるように、
もしかしたら、鴎外全集を持っていたのかもしれない、と疑いたくなる。
持っていたか借りたかは別として、鷗外作品を愛読していたのは間違いありません。