迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

進化深化の眩惑。

2024-05-15 20:10:00 | 浮世見聞記


河原崎國太郎の女形を樂しみに、池袋の東京建物BriiaHALLの前進座歌舞伎公演を觀に行く。



昨秋に國立劇場が閉館したのを受け、毎年五月の恒例公演をこちらに移したもので、傳統藝能向けではない會場らしくナナメに假設された花道が、いかにも根城を失ひあちこちの劇場を彷徨ふ現今の前進座らしい。



目當ての河原崎國太郎は、今回は「歌舞伎十八番の内 鳴神」の雲の絶間姫──嵐市太郎時代から手掛けてきた“持ち役”をつとめる。

私もその時代から何度も觀てきたが、いつも芝居が生硬で臺詞も一本調子、良いのは姿形ばかりで「これで大丈夫か……?」と首を傾げてより年月は流れ、その間に情のある女形ぶりで大いに魅せるやうになった國太郎の、満を持した馨り漂ふ今回の扮装冩真を目にして、「これはいける……!」と、樂しみに樂しみを重ねて、今日の觀劇日に至る。



あの頃までのどうしやうもない生硬さがすっかり取れて、見違へたやうにたおやかなオンナぶりのなかに、鳴神上人を堕落させるべく怜悧に迫る計算ぶりを、色氣に包んだ台詞のなかに所々覗かせていく芝居は、現實世界においてもさういふテのオンナには氣を付けろとの警告にも映り、にも拘はらず見物のこちらまで眩惑されさうになる魔力ぶりはどうだらう!


(※河原崎長十郎の鳴神上人、五世河原崎国太郎の雲の絶間姫 昭和十二年六月 新橋演舞場)

これまで嵐圭史で何度も觀てきた鳴神上人を、今回は嵐芳三郎が初役でつとめる。

これまでの歌舞伎味に乏しい芝居ぶりから、あまり期待もしてゐなかったのだが、聲と身體を目一杯大きく遣って歌舞伎十八番らしさを出さうとしてゐる努力が結實した、予想外の大出来。

後半の荒事も、大薩摩と下座の好助演もあって大いに盛り上がり、當代の嵐芳三郎を觀て初めていいナ、と思ふ。

もしかしたらこれが、歌舞伎役者“豊島屋”代々の血、と云ふものなのかもしれない。


嵐圭史時代の「鳴神」を觀た記憶として、その頃浮世で普及しはじめた携帯電話──“ガラケー”の着信音が上演中に鳴り響いて閉口憤慨したことがあるが、あれから年月を經て、令和現今ではスマホの着信音が、やはり上演中にあちこちで鳴り響く。

演者は確實に成長してゐるが、見物は確實に成長してゐない。

せっかく磨き上げた芝居を、ああいふのを相手に見せねばならぬ鳴神上人と雲の絶間姫を、私は氣の毒に思ふ。





この公演の前座には、前進座独自の“歌舞伎舞踊”として、立方から地方までの全てを女性で揃へた「雪祭五人三番叟」が付いたが、色氣も愛想も素氣もない器械体操ぶりで、あまり脂粉臭いのも困るが、せめて三番叟物らしい祝儀性くらゐは見せて欲しかった。


中幕には“劇場初御目見得”としての「口上」を、本来ならばこの役者(ヒト)ではないよなァ、と思ふ役者が一人舞薹で述べ、「寺子屋」の松王の臺詞をひとくさり呟いてみせた様は、どうせこの劇團ではもふ上演は出来ない狂言だから、せめてここでちょこっとやってやれ、とヤケになってゐるやうにも見えて、それだけがちょこっと面白かった。





幕間に、喪服じみたキモノ姿をした劇團員のお姉チャン二人が花道に現れて、危うい劇團經營と、後援會の入會を訴へてゐたが、今後の上演予定を見ると、しばらく歌舞伎劇はやらないらしい。

今回せっかく大出来の「鳴神」を見せたのに、ここでまた途切れさせてしまふのは、あまりに勿体ないと思ふ












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