< 1. 治安維持法、1925年成立 >
今回は、新聞が真実に沈黙し、国論が戦争一色になって行く時代を概観します。
< 2. 満州事変、1931年勃発 >
1930年代以降
1931年に日本の現地派遣部隊が独走し満州事変が勃発した。
一方、国内では、1932年に5・15事件、1936年に2・26事件と相次いで軍事クーデターが起こった。
以前から単独犯による財界や政府要人の暗殺はあったが、ここに至って軍隊蜂起による多数の要人暗殺が行われた。
この背景に、金融恐慌後の1930年代に加速した貧富の差と政治腐敗による国民の絶望があった。
< 3. 当時、日本で所得格差が著しく高まった。ピケティより >
< 4. 2・26事件、1936年 >
これ以降、軍部が銃剣と統制によって日本を牽引し、敗戦まで突き進むことになった。
この軍部独裁には独裁者がいないのですが、これは実に日本らしい社会風土に起因しており、今も根付いている。
端的に言えば、皇国の名の下に誰も責任を取らずに国の運命を決めて来たことにあります。
具合的には軍部首脳が統帥権干犯問題や軍部大臣現役武官制、御前会議を利用して行われた。
まだ多くの新聞は無謀な戦争を非難していたが、ついに政府の圧力に屈服し真実を伝えないばかりか、後には、むしろ国民を戦争へと鼓舞するようになった。
この新聞の変節は他の言論界も同様でした。
< 5. 御前会議と大本営発表 >
こうして国民は軍部主導による虚報と洗脳により、戦争遂行に疑念を持つこと無く、憎しみの連鎖もあって、戦争の拡大に加担して行くことになる。
この虚偽報道に終止符が打たれるのは敗戦まで待たなければならず、国民が戦争の真実を知るのは極東裁判以降になる。
新聞の変節について
この新聞の変節は決して単純なものではなかった。
新聞が真実を伝えなくなる最大の要因は政府の圧力だが、それは非常に巧みであり国民から見えないことが多い。
変節の要因は政治圧力や弾圧、右翼の暴力などの外圧だけではなかった。
自らの変節もあった。
新聞社は読者の嗜好や経営安定に敏感であり、時には政治に関わり過ぎて道を誤ることもあった。
また記者も人の子、愛国心をたぎらせ我を見失うこともある。
これはベトナム戦争時の米軍従軍記者に多く見られた。
記者は真実を伝えようとするのだが、歪んだ価値判断が入ってしまうことになる。
この連載で、そのいくつの事例を明らかにします。
重要なことは、新聞が変節するのは日本だけでなくあらゆる社会に共通すると我々は銘記すべきです。
けっして一度限りのものではなく、幾度も繰り返すと考えるべきです。
この経緯を理解することは重要です。
これは、この連載「社会と情報」の主要なテーマでもあります。
次回、明治維新後の社会で注視すべきポイントを記します。
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