夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二十一〔特殊な意志について〕

2020年02月11日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二十一〔特殊な意志について〕

§21

Dem reinen Willen ist es nicht um irgend eine Besonderheit zu tun. Insofern dies der Fall beim Willen ist, insofern ist er Will­kür, denn diese hat ein beschränktes Interesse und nimmt ihre Bestimmungen her aus natürlichen Trieben und Neigungen.

二十一〔特殊な意志について〕

純粋な(普遍的な)意志にとっては、何らかの特殊なことには関わりを持たない。意志の場合においては、それが何か特殊なことであるかぎり、意志はそのかぎりにおいては恣意である。というのも、恣意とは限界のあるものに関係をもつからであり、自然の衝動や性向から自らのあり方を決めるからである。

 Ein solcher Inhalt ist ein gegebener und nicht absolut durch den Willen gesetzt. (※1 )Der Grundsatz des Willens ist also, dass seine Freiheit zu Stande komme und erhalten werde. Außerdem will er zwar noch mancherlei Bestimmungen. 

そうした内容は与えられたものであり、意志によって絶対的に決定されるものでない。したがって意志の原理とは、意志の自由が確立され、そして保持されていることである。むろん意志はその他にもなお多くの決断を欲している。

Er hat noch vielerlei bestimmte Zwecke, Einrichtungen, Zustände u. s. w., aber diese sind nicht Zwecke des Willens an und für sich, (※2 )sondern sie sind Zwecke, weil sie Mittel  und  Bedingungen  sind zur Realisierung der Freiheit des Willens, welche Einrichtungen und Ge­setze notwendig macht zur Beschränkung der Willkür, der Nei­gungen und des bloßen Beliebens, überhaupt der Triebe und Begierden, die sich bloß auf Naturzwecke beziehen; 

意志はさらになお多くの定められた目的、組織、状況などを求めている。しかし、これらは意志そのもの本来の目的ではない。そうではなくて、それらは意志の自由を実現するための手段 であり、条件 であるという意味においての「目的」であるにすぎない。どのような組織や法律も、恣意や性向、そして単なる好みにすぎないものなど、一般的にはただ自然の目的のみにかかわる衝動や欲望を制限するために必要とされる。

z. B. die Erziehung  hat den Zweck, den Menschen zu einem selbständi­gen Wesen zu machen, d. h. zu einem Wesen von freiem Willen.(※3) Zu dieser Absicht werden den Kindern vielerlei Einschränkun­gen ihrer Lust auferlegt. Sie müssen gehorchen lernen, damit ihr einzelner oder eigener Wille, ferner die Abhängigkeit von sinnlichen Neigungen und Begierden, aufgehoben und ihr Wille also befreit werde.

たとえば、教育 は、人間を一人の自立した存在へと、言いかえれば、自由な意志をもつ人間へと作り上げるという目的をもっている。この目的のために、子供たちには彼らの欲望に多くの制限が課せられる。子供たちは服従することを学ばなければならない。そのことによって、個人的な、あるいは自身の意志は棄てさせられ、さらには身体的な性癖や欲望への依存が抑制され、かくして子供の意志は自由に解き放たれる。

 


(※1)
「意志によって絶対的に設定された内容」とは外から与えられるものではないから、自由なものである。それに対して、生まれついた身体の欲望にもとづく意志などは、有限な内容をもち特殊な目的にかかわるから、それは意志は意志でも「恣意、気まぐれ Willkür」である。

(※2)
意志の目的とするところにも様々な内容と段階がある。もしそれが意志そのもの本来の目的でなければ、その目的は「意志の自由を実現するための」手段にすぎない。さまざまな制度や法律は、人間の生まれついての衝動や欲望、恣意や気まぐれを制限するために必要とされる。

(※3)
erziehen 育て上げる、仕込む、教育する
Erziehung 養育、躾しつけ、育児、教育

日本語では、ふつうには「教育」と訳されるけれど、ドイツ語の erziehen  には、「中から外へ引き出す」という意味がある。「教育」よりも「養育」の方が訳語としては的確でふさわしい。

「教育の目的は、人間を一人の自立した存在に、自由な意志をもつ人間を創ることである」という、ここに明らかにされているヘーゲルの教育観、その教育の目的と本質的な方法論についての定義は、どちらかといえば古典的で現代的ではないようにみえる。

しかし、教育や自由についてのこの考えは、ゲーテやシラーなどを生んだドイツ古典文化の黄金期を背景とするもので、また日本の伝統的な教育と相通じるものがあり、普遍的かつ本質的であって、現代日本の流行の教育論や自由観よりも高く深い。もし、これらが正しく理解され活用されるならば、現代日本の教育においてもなおその意義は大きいにちがいない。

 

※20200213追記

少し気になったので、老婆心ながら追記しておきたい。たしかに、ヘーゲルはこの二十一節で「教育は、人間を一人の自立した存在へと、言いかえれば、自由な意志をもつ人間へと作り上げるという目的をもっている。この目的のために、子供たちには彼らの欲望に多くの制限が課せられる。子供たちは服従することを学ばなければならない。」と述べている。

教育や自由についてのこの考えは本質的で根本的で間違っているとは思わないけれども、ただ、学校やクラブ活動などにおける教育の現場に、今なお儒教的な封建的伝統の残された我が国のような教育の環境においては、とくに「子供たちは服従することを学ばなければならない。」とのべている個所については、その真意は誤解され、曲解されるかもしれないと思い、一言しておくべきかと思った。

たしかに、子供たちは「服従することを学ばなければならない」けれども、上の論考にも「正しく理解され活用されるならば」と書いたように、そこでは、まず子供たちの「人格の独立性が尊重され」ていること、ついで、その服従には「一切の強制がない」こと、が前提とされるべきだろう。

子供たちが「服従することを学ぶ」としても、子供たちの人格の独立と自由は尊重され、理由や根拠が説明されて、その服従には「強制」は一切あるべきではない。

 

 


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