夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第五十、第五十一、第五十二節[家族について]

2022年05月30日 | ヘーゲル『哲学入門』

§50

Diese Gesinnung besteht näher darin, dass jedes Glied der Fami­lie seine Wesen nicht in seiner eigenen Person hat, sondern dass nur das Ganze der Familie ihre Persönlichkeit ausmacht.

第五十節

この(家族愛の)心情は、さらに詳しくいうと、家族の成員は自分たちの本質を、自分たちに固有の人格のうちにもつものではなく、むしろ、彼らの人格性を造り上げるのは、ただ家族の全体のみであるということに基づいている。

§51

Die Verbindung von Personen zweierlei Geschlechts, welche Ehe ist, ist wesentlich weder bloß natürliche, tierische Vereinigung, noch bloßer Zivilvertrag, sondern eine moralische Vereinigung der Gesinnung in gegenseitiger Liebe und Zutrauen, die sie zu Einer Person macht.

第五十一節

婚姻という男女両性の人格の結びつきは、本質的には単なる自然的な、動物的な一体化でもなければ、また市民的な契約 でもなくて、むしろ相互の愛と信頼による心情の一つの道徳的な一体化であり、それらは一個の人格をつくるものである。(※1)

§52

Die Pflicht der Eltern gegen die Kinder  ist: für ihre Erhaltung und Erziehung zu sorgen; die der Kinder, zu gehorchen, bis sie selbstständig werden, und sie ihr ganzes Leben zu ehren; die der Geschwister überhaupt, nach Liebe und vorzüglicher Billig­keit gegen einander zu handeln.

第五十二節

子供たちに対するの義務  は、子供たちの 養育 教育 に気を配ることである。子供らの義務 は 自分たちが独り立ちできるようになるまで、親に服従することであり、そしてまた両親をその全生涯にわたって尊敬することである。兄弟姉妹の義務 は一般に、お互いどうしが、愛とすぐれた公正さをもって行為することである。(※2)

 

 

※1
市民社会の段階で分裂した家族は、次の「国家」の段階において、ふたたび相互の愛と信頼による家族的な心情の道徳的な一体化が回復される。

※2
第五十二節において家族への義務の記述を終えて、つぎに「Ⅲ 国家への義務」へと進むが、ヘーゲルの「法の哲学」の体系から言えば、「家族」と「国家」の間には「市民社会」が存在するから、「市民社会に対する義務」が述べられなければならないはずである。しかし、その項目はかかげられてはいない。

ただ「市民社会に対する義務」についてはすでに実質的には「Ⅰ 自己に対する義務」の中において、「職業の義務」として論じられている。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十九節[家族への義務]

2022年05月24日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

II. Familienpflicht

§49

Indem der Mensch gebildet ist, hat er die Möglichkeit zu han­deln. Insofern er wirklich handelt, ist er notwendig in Verhältnis mit anderen Menschen. Das erste notwendige Verhältnis, worin das Individuum zu Anderen tritt, ist das Familienverhältnis.     (※1)Es hat zwar auch eine rechtliche Seite, aber sie ist der Seite der moralischen Gesinnung, der Liebe und des Zutrauens, untergeordnet.

Ⅱ. 家族への義務

第四十九節[家族愛について]

人間は教養を積むことによって、行為する能力を手に入れる。人間が実際に行動するかぎり、必然的に他者との関係に入る。個人が他者とかかわる最初にして必然的な関係は、家族関係 である。家族関係はなるほどたしかに法的な側面ももつが、しかし、それは道徳的な心情の側面に、愛と信頼の側面に従属している。

Erläuterung.

説明.

Die Familie macht wesentlich nur Eine Substanz, nur Eine Person aus. Die Familienglieder sind nicht Personen gegen einander. Sie treten in ein solches Verhältnis erst, inso­fern durch ein Unglück das moralische Band sich aufgelöst hat. Bei den Alten hieß die Gesinnung der Familienliebe, das Han­deln in ihrem Sinn, pietas.

家族は本質的にただ一つの実体のみから、一つの人格のみからなる。家族の成員はそれぞれお互いに対立しあう人格 ではない。不幸にも道徳的な絆が失われたばあいにはじめて、家族の成員は、法的な関係のような相互の人格が対立する関係に入る。古代の人は、家族愛の心情とそうした感情からの行為を、pietas(孝行)と呼んでいた。

Die Pietät(※2) hat mit der Frömmigkeit, die auch mit diesem Wort bezeichnet wird, gemeinschaftlich, dass sie ein absolutes  Band voraussetzen, die an und für sich seiende Einheit in einer geistigen Substanz, ein Band, das nicht durch besondere Willkür oder Zufall geknüpft ist.(※3)

Die Pietät(ピエタ:敬虔)は、また、このことば(Die Pietät)でも表される信仰心と共通して、絶対的な 絆を前提とした公共性や、一つの精神的な実体を、一つの集団の中に本来的に存在する統一性をもっている。それらは特殊な恣意や偶然によっては結びついたものではない。

 

 

※1
家族関係は本質的には法的な関係ではなくて、愛と心情に基づいて相互に敬愛すべき関係である。そうした道徳的な絆が失われた時に、愛と心情に代わって法的な利害関係に変じる。

※2
Die Pietät   
畏敬、崇敬、孝順などと訳される。
十字架から降ろされたイエスを抱いて嘆き悲しむ聖母マリアの像は「Pieta」と呼ばれる。
ドイツのプロテスタント教において、形式ではなく愛と心情の純粋を重んじる Pietismus(敬虔主義)という宗教運動があった。哲学者カントやヘーゲルたちはそうした家庭環境に生育したといわれる。

※3
すべて個人はその誕生から、家族との関係に入る。母語と呼ばれる言語をはじめ、習慣、生活様式、さらに性格とよばれる資質さえもが、家族の環境の中で養われ規定される。家族(家庭)の決定的な重要性もここにある。
各人にとってその資質や能力は、どのような社会生活を生きるかを規定する基本的な要素といえるが、個人はそれを両親や家庭環境から受け継ぎ、またそれに規定される。
家族・家庭がもつそうした本質的な教育的環境は、いく世代にもわたって継承され伝授されてゆく。それは客観的なもので、それぞれに蓄積された家族・家庭のその差異は一世代や二世代ぐらいでは解消されないほど深刻に個人を規定するものである。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十八節[徳と道徳と義務]

2022年05月11日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

§48

Weil die Tugend zum Teil mit dem natürlichen Charakter zu­sammenhängt, so erscheint sie als eine Moralität von bestimm­ter Art und von größerer Lebendigkeit und Intensität. Sie ist zugleich weniger mit dem Bewusstsein der Pflicht verknüpft, als die eigentliche Moralität.(※1)

第四十八節[徳と道徳と義務]

徳は一面において、人の生まれつきの性格に結びついているから、徳はより確実なたぐいの道徳性であるかのように、よりすぐれて生々とした強烈な道徳性であるかのように見える。徳はまた本来の道徳性よりも義務の意識は弱い。

 

※1
徳(die Tugend)とは生まれついての道徳性であることから、義務を果たしているという意識は強くはない。したがって、それだけ偽善的な傾向もない。
どのような経過でそうした性格が獲得されるのかその由来はとにかく、犠牲的な精神に富む人、国家や社会に対する公共的な義務を積極的に果たす人、性格的に優しい人、思いやりのある人など、また、そうした性格をもたない人、つまり徳のない人など、個人的にもさまざまである。我が国には「不徳の致すところ」という詫び言葉がある。

本節をもって「自己への義務」の記述は終わり、「家族への義務」に移る。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十七節[徳について]

2022年05月09日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

§47

Insofern die Erfüllung der Pflichten mehr als subjektives Eigentum eines Individuums erscheint und mehr seinem natürlichen Charakter angehört, ist sie Tugend.(※1)

第四十七節[徳について]

義務の遂行がよりさらに個人の主体的な属性として現れるかぎり、そして、さらに彼の生まれつきの性格に付属しているものであるかぎりにおいては、義務の遂行はである。

(※1)
Tugend
名詞: 徳, 美徳,  人徳

義務の遂行がその人の自覚的な意識的な行為というよりも、彼の生まれつきの性格や習性としてなされるかぎりは、それはその人の徳とか人徳 (Tugend)として捉えられる。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十六節[他者に対する義務]

2022年05月06日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

§46

Durch die intellektuelle(※1) und moralische Bildung erhält der Mensch die Fähigkeit, die Pflichten gegen Andere zu erfüllen, welche Pflichten reale (※2)genannt werden können, da hingegen die Pflichten, die sich auf die Bildung beziehen, mehr formeller Natur sind.(※3)

§46[他者に対する義務]

人間は知性的な教養と道徳的な教養を通して、他者に対する義務を果たす能力を手に入れる。こうした他人に対する義務は現実的な義務と呼ぶことができる。それに対して、教養に関わる義務は、より形式的な性質のものである。


(※1)
intellektuelle  Bildung  知的な教養
moralische  Bildung 道徳的な教養 

(※2)
 reale  と formelle 内容と形式
「教養に関わる義務」と「他人に対する義務」が、なぜ
「reale  と formelle 内容と形式」として対概念として対比できるのか。
内容と形式は不可分である。

(※3)
「知的な教養」は多くは「実学」と呼ばれる教育によって培われる能力であり、
「道徳的な教養」は道徳や宗教教育を通して得られる、思いやりや協調性といった能力や性格の育成と考えることができる。

 

 

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