夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

新憲法の制定──国家の概念②

2005年10月30日 | 国家論

 

新憲法の制定が政治的な日程に上りだした。政党や学者から、さまざまに憲法の草案も上程されようとしている。

今日の日本国が抱えるさまざまな問題は、国家と民族のあり方を根本的に規定する日本国憲法の不備不全からきているものが多いと考えられる。家族の崩壊、他国による国家主権の侵害、国民全般の倫理的、道徳的な腐敗、またその結果としての国民の資質の低下、行政の縦割り化や不統一、地方政治と中央政治の分裂と不統一など。ここではその因果関係をいちいち論証できない。

しかし、現代日本国が、まともな国家としての体をなしていないと言うことはできるのではないか。日本国民が拉致されるなどと言う信じられないことがおきていることなど、その端的な一つの例である。郵政民営化法案の参議院否決による無駄な総選挙や落選議員の比例復活など、まだ他にも、無理無駄非効率は多い。日本国を一つの有機体と考えたとき、美しい人体をしているとはとうてい言えない。つまり、わが国はまだまともな国家概念にしたがって作られてはいないということである。

まともな国家とは何か。憲法制定の前に、この問題がまず徹底的に議論されなければならないと思う。国家の概念がまず明らかにされなければならない。この根底の不十分な憲法は、現行日本国憲法のように欠陥憲法にならざるを得ない。これほど国民に不幸をもたらすものはない。これでは国際社会から尊敬される「品格ある国家」などできないと思う。

現在の自民党の憲法調査会からも草案が発表されたそうである。具体的にどのようなものであるのかまだよくわからない。調べてみたいとは思っている。しかし、一見したところ、その憲法論議が非常に表面的なところで行われているように感じる。憲法制定の個別的な条項の議論の前に行われるべきはずの、国家と民族の関係や歴史と伝統、国際社会の中での、国際政治経済外交の中での、日本の地理的な、また歴史的に置かれている位置とその使命の哲学的な検証など、ほとんど行われているように思えない。一言で言えば、自民党の憲法調査会の研究レポートは質量ともに泣きたくなるくらいに貧弱だと言う印象をもってしまった。これが、わが国の司令塔の、中枢神経の作品なのだろうか。

全体として、一個の有機体として国家を捉える観点がほとんどないようである。国家を一人の人間として例えるなら、その頭脳にあたる統治機構としての三権分立体制の確立を、特に国家の頭脳として首相や内閣を国家の司令部としてどのように確立するのか。現在のように、首相とは別なところで官僚がもう一つの頭を持っている多頭動物メドゥーサのような国家としての体をなしていないお化けのような状況では、国民は混乱するし、国民生活も不効率だ。

また、戦争に備えて、武器となる腕や足に相当する軍隊は、どうすれば頭脳に相当する首相の指揮命令下にしたがって効果的に活動させることができるかなどの問題意識や研究がほとんど見られない。要するにあらゆる意味で、国家概念が、国家についての哲学が不足しているように思われる。

新憲法の制定にあたっては、国家国民の持ちうる最高の知力のすべてを振り絞って制定できる体制を整える必要があると思う。自民党の頭脳は国民の誇るべきものになりえているのだろうか。

 

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信仰と知

2005年10月16日 | 哲学一般

 

信仰と知

 

信仰(信念)と知識(科学)──宗教と科学──の関係は、ヘーゲルにとっても大きな問題だった。カントに代表される啓蒙哲学が、信仰の問題を知識の対象から、物自体として、認識の対象から外し、信仰の問題を認識できないものとしてしまったから。その結果、近代の信仰は、知識を回避し、信仰には単なる抽象の空虚な主観的な無の確信しか残されないことになった。ヘーゲルはこれに不満だった。

なぜ、このようなカントの啓蒙哲学が生まれたか。それは、ルターの宗教改革の必然的な帰結だといえる。なぜなら、ルターの「信仰のみ(sola  fides)」を原理とする信仰は、ただ信仰者の良心による是認のみという主観的な問題に還元されることになったから。その信仰は神を個人の神として、主観的な精神のなかにのみ認められるものにしてしまった。そこでは信仰者の自己の信仰の是非は教会の是認ではなく、理性による確証に求めざるを得なかった。こうしてルターの信仰のみの原理が、カントの主観性の哲学になって現われたのである。近代哲学がプロテスタント国民から生まれる必然性もここにある。


しかし、カントは信仰の理性による把握の不能を彼の主観的観念論によって、不可知論によって認識の可能性を否定してしまっただけだった。
この点を批判したのがヘーゲルである。彼は、本質と現象をそれぞれ媒介なきものとするカントの見方を悟性的として退け、現象の総体のなかに本質が認識されるという弁証法の認識論を主張した。ヘーゲルにとって神は認識できないがゆえに信仰されるのではなく、理性によって認識できるものであり、むしろ、神は理性そのものでもあった。

ヘーゲルはまた、信仰は知識と対立するものではなく、信仰がじつは知識の特殊的な形態に過ぎないと言うのである。ここから、信仰の知の特殊性とはなにかの解明へと、信仰の概念的な認識に向かうことになる。そして、この道こそが宗教を真に克服する唯一の道である。ヘーゲルにとっては、それが哲学することに他ならなかった。ただ哲学は宗教を内容においてではなく、形式においてのみ克服するのである。

 

 

 

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概念とは何か②

2005年10月16日 | 概念論

私たちは特定の音楽家を指して、「彼は音楽家そのものである」とか「彼は真の音楽家である」と言ったりする。ここで言う「そのもの」とか「真の」という言葉で表現されている事柄が「概念」である。そのとき、このように判断する者の頭の中には、「真の音楽家」についての観念が存在する。そして、現実の芥川也寸志や武満徹といった音楽家と、頭の中に存在する彼の「真の音楽家の観念」を比較することによって、「彼は真の音楽家である」とか「彼は偽の画家である」とか判断している。

現実に存在する事物と、頭の中に持っている「概念」とを比較することによって、また、事物がその概念にどれだけ近いかによって、「真理である」とか「優れている」とか「偽物である」とかいった判断を彼は下している。

「概念」とは、このように「何々という事物についての真の観念」のことである。だから、たとえば病気の人間や犯罪を犯す現実の人間は、「人間」という「概念」に一致しないから、そのような人間は真理とは呼べない。このように事物の実在がその概念に一致していることが真理であるとヘーゲルは言う。

これに対して、一般に解されている「概念」とは、多くの事物の中に共通する要素を抽象して得られた観念を言うに過ぎない。たとえば、Aという人間、Bという人間、Cという人間、Dという人間、さらにE ,F ,Gなど現実に存在する一定の共通の性質を備えた個々の具体的な人間から、経験や観察を通して、「言葉を話す」とか「道具を作る」とか「火を使う」などの共通の特徴を抽象して「人間」という「観念」を作り出す。そして、その観念は特定の「人間」という言語と結合させられる。そして、無限の言語活動を通じて、「人間」という言葉から、「人間」という観念を条件反射的に結びつけるようになり、言語という社会的に共通の信号を形成することによって、知識や情報の伝達を可能にしたのである。

だから、一般に理解されている「概念」とヘーゲルの用語法としての「概念」とは、少し異なっている。一般に理解されている「概念」は、正確には「観念」もしくは「表象」と呼ばれるべきものである。

そして、人間は事物が真理であるかどうかは、現実に存在する事物と、頭の中に観念として存在する(実際に概念は観念でもある)「概念」と比較されることによって判断される。したがって、哲学が真理を研究するとき、まず概念とは何かが明かにされなければならない。

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