新憲法の制定が政治的な日程に上りだした。政党や学者から、さまざまに憲法の草案も上程されようとしている。
今日の日本国が抱えるさまざまな問題は、国家と民族のあり方を根本的に規定する日本国憲法の不備不全からきているものが多いと考えられる。家族の崩壊、他国による国家主権の侵害、国民全般の倫理的、道徳的な腐敗、またその結果としての国民の資質の低下、行政の縦割り化や不統一、地方政治と中央政治の分裂と不統一など。ここではその因果関係をいちいち論証できない。
しかし、現代日本国が、まともな国家としての体をなしていないと言うことはできるのではないか。日本国民が拉致されるなどと言う信じられないことがおきていることなど、その端的な一つの例である。郵政民営化法案の参議院否決による無駄な総選挙や落選議員の比例復活など、まだ他にも、無理無駄非効率は多い。日本国を一つの有機体と考えたとき、美しい人体をしているとはとうてい言えない。つまり、わが国はまだまともな国家概念にしたがって作られてはいないということである。
まともな国家とは何か。憲法制定の前に、この問題がまず徹底的に議論されなければならないと思う。国家の概念がまず明らかにされなければならない。この根底の不十分な憲法は、現行日本国憲法のように欠陥憲法にならざるを得ない。これほど国民に不幸をもたらすものはない。これでは国際社会から尊敬される「品格ある国家」などできないと思う。
現在の自民党の憲法調査会からも草案が発表されたそうである。具体的にどのようなものであるのかまだよくわからない。調べてみたいとは思っている。しかし、一見したところ、その憲法論議が非常に表面的なところで行われているように感じる。憲法制定の個別的な条項の議論の前に行われるべきはずの、国家と民族の関係や歴史と伝統、国際社会の中での、国際政治経済外交の中での、日本の地理的な、また歴史的に置かれている位置とその使命の哲学的な検証など、ほとんど行われているように思えない。一言で言えば、自民党の憲法調査会の研究レポートは質量ともに泣きたくなるくらいに貧弱だと言う印象をもってしまった。これが、わが国の司令塔の、中枢神経の作品なのだろうか。
全体として、一個の有機体として国家を捉える観点がほとんどないようである。国家を一人の人間として例えるなら、その頭脳にあたる統治機構としての三権分立体制の確立を、特に国家の頭脳として首相や内閣を国家の司令部としてどのように確立するのか。現在のように、首相とは別なところで官僚がもう一つの頭を持っている多頭動物メドゥーサのような国家としての体をなしていないお化けのような状況では、国民は混乱するし、国民生活も不効率だ。
また、戦争に備えて、武器となる腕や足に相当する軍隊は、どうすれば頭脳に相当する首相の指揮命令下にしたがって効果的に活動させることができるかなどの問題意識や研究がほとんど見られない。要するにあらゆる意味で、国家概念が、国家についての哲学が不足しているように思われる。
新憲法の制定にあたっては、国家国民の持ちうる最高の知力のすべてを振り絞って制定できる体制を整える必要があると思う。自民党の頭脳は国民の誇るべきものになりえているのだろうか。