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夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義]

2025年04月30日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義]

§6

Der Gedanken sind dreierlei:
 1) Die  Kategorien (※1)
 2) die  Refle­xionsbestimmungen;  (※2)
 3) die  Begriffe. (※3)
Die Lehre von den beiden erstem macht die  objektive   Logik in der Metaphysik aus; die Lehre von den Begriffen die eigentliche oder  subjektive  Logik. (※4)

第六節

思考には三つ種類がある。すなわち、
1)カテゴリー
2)反省規定
3)概念

である。
はじめの二つは、形而上学における客観的 論理学を構成し、概念の学説が本来の論理学、すなわち主観的 論理学である。

※1
カテゴリー(Kategorien)
カテゴリーとは、物事を認識する際のもっとも基本的な思考の枠組みのこと、もしくは、もっとも根本的な論理形式のことです。思考が世界を理解するための最初の段階で用いられます。
たとえば、「ある」とか「ない」「成る」などは、カテゴリーとして挙げられる典型例です。こうしたカテゴリーは、たんなる人間の観念物ではなく、客観的な事物そのものの論理構造を明らかにするものです。


※2
反省規定(Refle­xionsbestimmungen)
反省規定とは、対象を認識する際に、自らの思考が対象をどのように区別するか、あるいはどのように関係づけるかを行うことです。「反省規定」の段階では、思考は自己と他者を区別したり、あるいは関係づけたり、時計が故障したのはなぜか、彼はなぜ暴力をふるったのか、など因果関係を推理したりします。また、人間についても、男女のそれぞれの同一性やその区別、また親と子の関係についても、愛情や対立といった関係において、「カテゴリー」よりもさらに高次の思考を、この反省規定の段階で行います。

※3
 概念 (Begriffe)

概念とは、ヘーゲル哲学においてもっとも高次の思考形式です。はじめの客観的論理学を構成する1)カテゴリー や 2)反省規定 を統合する形で形成されます。したがって、概念は主観的であると同時に客観的でもあります。それゆえに概念は対象を包括的かつ動的に捉えます。

概念は単なる抽象的な思考の産物ではなく、概念は現実そのものを構成する要素であり、概念は、主観的な思考の枠組みに留まるものではなく、対象そのものの本質的な構造として捉えられます。

たとえば、リンゴや蝶などの動植物などの生命体を例にあげるならば、リンゴは「種子→芽生え→樹木→実→種子」と自らを生成変化させていきます。また「蝶」は「卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵」と、自らを内在的に変化させていきます。こうした「リンゴ」や「蝶」の生成過程は、「概念」の自己運動そのものです。自然界における生命の生成・発展は、「概念」の具体的な実現形態にほかなりません。

※4
このようにヘーゲルの「概念」は、単なる思考の形式ではなく、現実そのものを構成する原理であり、自己展開する運動体でもあります。​

植物や動物の「概念」には、単に「植物とは何か」「動物とは何か」という定義だけではなく、その内部に芽生えから花開き、実を結ぶまでの自己展開や、蝶の一生が、卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵という変態の過程も、「概念」の発展と対応しています。

​概念にはこうした法則性が含まれており、それを通じて植物や動物が実際に何であるかが現実的に明らかにされるものです。とくに「概念」の自己展開性や事物の現実構成原理としての「概念」の意義について正しく理解することは大切です。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義](マルクス批判)

2025年04月29日 | ヘーゲル『哲学入門』


ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義](マルクス批判)

§6

Der Gedanken sind dreierlei:
 1) Die  Kategorien (※1)
 2) die  Refle­xionsbestimmungen;  (※2)
 3) die  Begriffe. (※3)
Die Lehre von den beiden erstem macht die  objektive   Logik in der Metaphysik aus; die Lehre von den Begriffen die eigentliche oder  subjektive  Logik. (※4)

第六節

思考には三つ種類がある。すなわち、
1)カテゴリー
2)反省規定
3)概念

である。
はじめの二つは、形而上学における客観的 論理学を構成し、概念の学説が本来の論理学、すなわち主観的 論理学である。

※1
カテゴリー(Kategorien)
カテゴリーとは、物事を認識する際のもっとも基本的な思考の枠組みのこと、もしくは、もっとも根本的な論理形式のことです。思考が世界を理解するための最初の段階で用いられます。
たとえば、「ある」とか「ない」「成る」などは、カテゴリーとして挙げられる典型例です。こうしたカテゴリーは、たんなる人間の観念物ではなく、客観的な事物そのものの論理構造を明らかにするものです。


※2
反省規定(Refle­xionsbestimmungen)
反省規定とは、対象を認識する際に、自らの思考が対象をどのように区別するか、あるいはどのように関係づけるかを行うことです。「反省規定」の段階では、思考は自己と他者を区別したり、あるいは関係づけたり、時計が故障したのはなぜか、彼はなぜ暴力をふるったのか、など因果関係を推理したりします。また、人間についても、男女のそれぞれの同一性やその区別、また親と子の関係についても、愛情や対立といった関係において、「カテゴリー」よりもさらに高次の思考を、この反省規定の段階で行います。

※3
 概念 (Begriffe)

概念とは、ヘーゲル哲学においてもっとも高次の思考形式です。はじめの客観的論理学を構成する1)カテゴリー や 2)反省規定 を統合する形で形成されます。したがって、概念は主観的であると同時に客観的でもあります。それゆえに概念は対象を包括的かつ動的に捉えます。

概念は単なる抽象的な思考の産物ではなく、概念は現実そのものを構成する要素であり、概念は、主観的な思考の枠組みに留まるものではなく、対象そのものの本質的な構造として捉えられます。

たとえば、リンゴや蝶などの動植物などの生命体を例にあげるならば、リンゴは「種子→芽生え→樹木→実→種子」と自らを生成変化させていきます。また「蝶」は「卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵」と、自らを内在的に変化させていきます。こうした「リンゴ」や「蝶」の生成過程は、「概念」の自己運動そのものです。自然界における生命の生成・発展は、「概念」の具体的な実現形態にほかなりません。

※4
このようにヘーゲルの「概念」は、単なる思考の形式ではなく、現実そのものを構成する原理であり、自己展開する運動体でもあります。​

植物や動物の「概念」には、単に「植物とは何か」「動物とは何か」という定義だけではなく、その内部に芽生えから花開き、実を結ぶまでの自己展開や、蝶の一生が、卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵という変態の過程も、「概念」の発展と対応しています。

​概念にはこうした法則性が含まれており、それを通じて植物や動物が実際に何であるかが現実的に明らかにされるものです。とくに「概念」の自己展開性や事物の現実構成原理としての「概念」の意義について正しく理解することは大切です。

唯物論者で経験論者のマルクスは、①「概念」が対象の内側に働いており、「概念に即して存在している」ことが対象の真の現実性(Wirklichkeit)であるということを理解せず、②「概念」は主観によって抽象された観念に過ぎないと誤解しました。また、③「概念」の運動は、常に自己否定とその止揚を通じて発展するという内在的な自己発展の論理を理解せず、社会の発展についても、マルクスは「階級闘争史観」から発展の論理を一面的に悟性的に理解して、概念の理性的な内在的な発展を否定しました。

 

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令和日本国憲法草案3

2025年04月26日 | 国家論


令和日本国憲法草案3

憲法草案の第3条(国民の義務と権利)の項に、「国民は、人間としての尊厳を侵してはならない。」の一文を付け加えました。

 

【令和日本国憲法草案3】

【前文】

日本国民は、悠久の歴史と文化に根ざす共同体の一員として、天皇を国家統合の実体的存在と仰ぎつつ、国民一人一人の自由と尊厳、伝統と創造の調和を重んじ、自由で責任ある民主国家として、内に道義と秩序を保ち、外に独立と平和を全うする国家を建設することを宣言する。


【第1章 天皇】

第1条(国体の継承)

日本国は、万世一系の天皇を戴く国家である。天皇は日本国の元首であり、国家統合の中核的権威として尊崇される。
第2条(統治機能と象徴機能の調和)
天皇は、国の儀礼と象徴的行為を司るとともに、国家的危機においては議会と内閣の要請により特別に国家再統合の宣言を行うことができる。

【第2章 国民と共同体】

第3条(国民の義務と権利)
国民は、人間としての尊厳を侵してはならない。また、国民は自由と権利を有するとともに、国家と共同体への奉仕、教育、納税、防衛の義務を負う。
第4条(家族・地域共同体の尊重)
国と地方自治体は、家族、地域社会、伝統文化を保護・支援する責務を負う。

【第3章 安全保障】

第5条(自衛の権利)
日本国は、国際平和を希求するが、独立国家として、侵略を防ぎ、国民を保護するための自衛権を保持する。
第6条(防衛軍の設置)
国会の承認により、日本国防軍を設置する。国防軍は専守防衛を基本としつつ、有事には国際法に基づき行動する。
第7条(非常事態条項)
国家の存亡に関わる緊急事態に際し、内閣は国会の承認のもとで一時的に法令を制定・停止する権限を持つ。

【第4章 統治機構】

第8条(三権の調和)
立法、行政、司法は分立しつつ、天皇の権威の下、国家目標の実現のために協働する。
第9条(憲法裁判所)
憲法秩序を守るため、憲法裁判所を設置し、違憲立法・行政措置を審査する。

【第5章 教育・文化】

第10条(国民精神の涵養)
国家は、公共の精神、道徳、歴史、文化への敬意を育成する教育を推進する。
第11条(大学・学術の独立)
学問の自由は保障されるが、国家・民族への責任を伴うものとする。

【第6章 憲法の護持と改正】

第12条(護憲義務)
すべての公務員は、本憲法の精神を尊重し、これを擁護する義務を負う。
第13条(改正の手続)
本憲法の改正は、国会の三分の二以上の賛成および国民投票の過半数によってなされる。
第14条(施行法の制定)本憲法に規定された国家機構、国民の権利義務、司法制度その他の統治機能の実施に関して必要な事項は、憲法施行法として別に法律で定める。これらの施行法は、本憲法の精神と条文に適合するものでなければならない。

 

 

 

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2025(令和7)年04月24日(木)晴れ。 #「令和日本国憲法草案」について2

2025年04月25日 | 国家論

 

2025(令和7)年04月24日(木)晴れ。#「令和日本国憲法草案」について2

 

昨日ブログに公開した「令和日本国憲法草案」は基本的には、明治の大日本帝国憲法下の日本を「テーゼ」、そして、戦後の現行日本国憲法下の日本を「アンチテーゼ」として捉え、いわば、正(テーゼ)ー→ 反(アンチテーゼ)ー→ 合(ジンテーゼ)という認識論、発展論を踏まえて合(ジンテーゼ)として「令和日本国憲法草案」は構想されたものです。

ですから、戦後80年と一世紀にも及ばんとする現行日本国憲法下の日本で生まれ、そのもとで教育され生きてきた大多数の日本国民には、一見したところ懐古趣味がすぎると思われるかもしれません。

とはいえ、敗戦後のGHQ の統治下に制定された現行日本国憲法には、日本国の国家概念が、理念と言ってもいいかもしれませんが、十分に明確にはなっていないと思います。それが、政治家たちや日本国民自身のアデンティティー形成や日本国民の自己確立に深刻な影響をおよぼし、愛国心の歪みや無国籍人的性格の日本人の蔓延やスパイへの売国的もしくは融和的な態度として現象していると思います。また、それらが保守的な多くの一般日本国民の危機意識の根源にあるのではないでしょうか。

そうした現象について、枝葉末節のモグラ叩き的な対応ではなくて、根本的な原因である現行憲法の欠陥への批判と、その改正にまで遡って根本からの改革は可能だろうか、私なりにその方策を模索したものでもあります。もちろん、その根本に共通した問題意識がない場合は、おそらく議論にはならないだろうと思います。

この「令和日本国憲法草案」はまだきわめて粗い試案に過ぎませんが、この改正草案の意図するその根本については洞察していただきたいと思います。

こうした憲法改正論議を通してさらに、自分とは何であるのか、日本人とは何であるのか、歴史と伝統の上に立つ日本国とはどのようなものであるのかなど、みずからの自己意識と国家意識をさらに深めていければいいと思います。

 

 

 

 
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「令和日本国憲法草案」について2

2025年04月24日 | 国家論

 

「令和日本国憲法草案」について2

 

※まず、「令和日本国憲法草案」に目を通してみてください。

 

【令和日本国憲法草案2】 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/76WnJq

その上で、感想、ご批判などをコメント欄にでもいただければさいわいです、


明治憲法以来、日本は成文憲法を中心に法秩序を築いてきました。条文の体系化、法典整備、形式的正統性の尊重は、確かに近代国家の形成において有効に機能しました。しかし、この成文という形式性は、ときに現実の文化・歴史・伝統との乖離を生み、制度の柔軟性と有機性を損なう要因ともなりました。
こうした背景から、先に、提示した「令和日本国憲法草案」は、成文法的な体系を維持しつつも、英国型の不文憲法に見られる運用性の柔軟さや伝統との親和性、さらには伝統的な生活根拠との結合を模索しようとしたものです。


英国における法秩序は、「憲法典」を持ってはいませんが、判例や慣習、制度的伝統などによって支えられています。その柔軟性は、例えば王室と議会、判例と政治慣行、政党制度と慣例などとの調和に顕著であり、書かれたルールに縛られない通融性のある「国家の連続性」と「文化の適応力」を維持してきました。
「令和日本国憲法草案」は、日本においてもこのような「不文的な法制度の柔軟性」を部分的に導入することにより、伝統文化と現代の制度とのあいだの離反や距離を少しでも埋めようという目的をもっています。


「令和日本国憲法草案」の大きな特徴は、成文憲法としての理念的な骨格と、その理念を具体的に展開する「憲法施行法」の制度的な設計との二層構造です。これは、憲法においては抽象的な理念の定式化にとどめ、その具体的な運用や社会制度の設計に関しては、時代・慣習・文化に即した法律によって柔軟に対応する余地をもたせようとしたものです。
この点において、「憲法=理念」「憲法施行法=制度・慣行」という区分は、まさに英米法的な「コモンローと慣習 common law and convention」の思想を日本的に翻案しようとしたものです。


現行日本国憲法の抽象的な「個人主義」は、しばしば伝統的な家族制度や地域共同体との緊張をはらみがちです。「令和日本国憲法草案」は、個人の自由を否定することなく、その自由の前提としての「共同体的基盤」の価値を再発見し、それを制度的に保護し、あるいは再構成しようとするものです。
たとえば、家族に関する規定においては、個人の尊厳と親族的な連帯との調和が求められ、地域においては「市民社会」としての公共性の回復が意図されています。これはいわばヘーゲル的な「人倫(Sittlichkeit)」の回復へと通じるものです。


日本の近代化の過程において、宗教や伝統的慣習は「私的領域」に閉じ込められ、制度的な保護の対象外とされてきました。しかし、精神的で伝統的な共同性は国家の統合原理の一部でもあります。「令和日本国憲法草案」は、これらを「文化的な公共財」として明確に保護し、制度的な承認の枠組みを与えようとするものです。
そのためには、「国家宗教」ではなく、「民族的文化的遺産」としての宗教・儀礼・慣習を、国家が支援する新たな法的な枠組みが求められます。これは「信教の自由」ともちろん矛盾するものではありません。むしろ文化の多様性とその尊厳の尊重を目的とするものです。


「令和日本国憲法草案」の本質は、「理念としての国家(Staat als Idee)」の回復にあります。理念国家とは、もちろん単なる制度の集合体ではなく、文化・伝統・宗教・人倫を制度的に媒介しながら、国民の自己意識を形成するその実体でもあります。ここにおいて、成文憲法の硬直性を超えていくために、不文的な慣習や文化的な実践を「理念国家の現実的な契機」として認識し、それを制度化していくものです。


日本は、明治以来の法典主義を経て、とくに戦後憲法下において今日では国家理念の抽象化と伝統的な民族的な宗教・儀礼・慣習などの制度との乖離がいっそう深刻化しています。「令和日本国憲法草案」は、成文憲法の枠内において不文法的な運用を可能にし、柔軟かつ理念的な国家の再編を目指すものです。
この構想は、単なる制度改革にとどまらず、「文化の自己再生」と「国家の自己意識の再編」をも伴った根源的な国家哲学の刷新を含んでいます。それはまさに、ヘーゲルが『法の哲学』において語った「現実的な理念としての国家」の、 21世紀日本における現代的な再構成の試みでもあります。

 

「令和日本国憲法草案」について1 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/sauO8A

 

 

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こころあらむ 人に見せばや    能因法師

2025年04月11日 | 芸術・文化

 

こころあらむ 人に見せばや 津の国の 難波わたりの 春のけしきを
       能因法師   

春の理念、精神の風景としての難波 ── ヘーゲル哲学の立場による和歌の註解


津の国、難波は、もちろん地理的に実在する場所です。しかし和歌においてそれは単なる地名ではなく、象徴的な空間として表現されています。摂津という国にある難波という場所が春という季節を迎え、そこに自然の生成と再生が象徴的に現れています。ヘーゲルの自然哲学においては、春とは「理念が自然界において再び生成しようとする運動」であり、冬の死をのり超えて生命がふたたび躍動を始める時期でもあります。

この景色を前にして能因法師は、それをただ自己のうちに留めるのではなく、誰か他の者へと伝えようとしています。「見せばや」と言うことで、この理念の外化=美の他者への媒介を試みています。自然の風景はこのとき、もはや単なる物理的な対象ではなく、精神的な実在としての「春の理念」と化しています。風景は精神の自画像となり、能因法師の抒情は単なる感傷ではなく、「理念の他者への提示」という哲学的な運動と原理的には同じ展開をしています。

「こころあらむ人に見せばや」とは、自然を誰に見せるか、対象を選別する行為です。これは単なる好悪の選別ではなく、能因法師がここで探し求めているのは、春の「気色」を、すなわち感覚的な現象の背後にある美の理念を、おなじ心のうちに感じ取ることのできる精神的な兄弟です。「こころある」とは「風情を解する」とか、「趣を感じ取る感性をもつ」ということですが、ヘーゲル美学においては「理性(Vernunft)」をもつ者のことです。

この歌は、精神が自然に出会い、それを自己の理念として再把握しようとする過程を詠ったものです。この難波の春の風景は、能因にとっては理念の顕現であり、それに感応できる者だけが「こころある人」です。

能因法師のこの一首は、単なる春の叙景歌ではありません。それは、自己の内面と外界との一致を美として、すなわち理念としての風景を提示することであり、また精神の他者への呼びかけを含んだ深い哲学的な詩でもあります。

能因法師のこの和歌は、自然の描写を通じて、精神が他者と理念を共有しようとする運動を詩の形式で表現したものといえます。ヘーゲルは「芸術とは理念を感性的に現在させることである」と言いましたが、この歌はまさしくその定義にかなう作品です。

 

こころあらむ 人に見せばや  能因法師 - 作雨作晴 https://is.gd/1QNsU9

2025(令和7)年04月10日(木)曇り、のち小雨。#能因法師 - 作雨作晴 https://is.gd/3SxZ23

 

 

 

 
 

2025(令和7)年04月10日(木)曇り、のち小雨。#能因法師 - 作雨作晴 https://is.gd/3SxZ23

 

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言論の自由と権力の倫理 ― 日本保守党の飯山陽氏提訴で考えること 

2025年04月06日 | 教育・文化

 

言論の自由と権力の倫理 ― 日本保守党の飯山陽氏提訴で考えること 


冬が去り、春を迎えようとする最近になって、日本保守党がイスラム思想研究者・飯山陽氏を相手取って、合計約1000万円の損害賠償を請求する民事訴訟を起こしたことがYOUTUBEなどで知られています。訴因は、飯山氏による日本保守党に対するさまざまな言論上の批判が理由とされています。
一私人が名誉毀損を理由に提訴されることは決して稀ではないですが、この件は明らかに性質の異なる問題です。というのも訴訟の原告は公党である日本保守党であり、被告はイスラム研究者で、一個人で私人という立場にあるからです。ここには、「政党といった公共性の高い存在が、一私人の言論に対して司法を使って応答する」という、民主社会の根本原則が問われるという深刻な構図があるからです。

言論の自由とは、もちろん、ただ何でも好き勝手に発言する権利ではありませんが、言論の自由は、近代市民社会において、公権力から個人の思想や表現活動を守る防波堤として制度としても確立されています。現行の日本国憲法においても、第二十一条で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」 「2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と規定されています。

J.S.ミルが『自由論』のなかで述べたように、たとえ間違っていると思われる意見であっても、それを抑圧するのではなく自由に議論の場に置くことで、真理が明らかになってきます。真理とは与えられるものではなく、多様な意見の議論の中で研鑽され、浮かび上がってくるものです。

政党や政治家が自らに対する批判的な発言を「ただ、たんに自らに不都合である」として合理的な、客観的な根拠も十分な説明もなく、そのまま訴訟で排除しようとする行為は、歴史的にもまがりなりにも成立している「言論の自由」の制度的な意義そのものを否定することになりかねません。

今回の提訴は、近年国際的に問題視される「SLAPP訴訟(Strategic Lawsuit Against Public Participation)」に典型的にみられるものに近いと思われます。SLAPP訴訟とは、公共の問題について意見を述べる個人に対し、法的手段で経済的・心理的圧力をかけ、意見の表明を萎縮させることを目的とした訴訟です。
民主主義社会において最も重要なのは、国民一人ひとりが公共の問題について自由に意見を述べ、議論に参加できる環境です。もし政党が自らに対する批判的意見に対して司法権力を用いて威圧的に応じるのであれば、それは権力者による自由の抑圧にほかなりません。

公党には、民意を代表し、公共政策を立案・遂行するという大きな責任があります。その言動や政策が批判されることは、むしろ健全な民主主義にとって必要不可欠なものです。政党が「名誉を毀損された」という理由で批判を司法を手段として封じようとするのは、自らの説明責任を放棄する行為であり、倫理的にも問題は大きいと思います。
ここには、「政治に携わる者はいかなる批判に耐えるべきか」という問題もあります。政党のような公共的な存在、機関はその普遍性ゆえに、さまざまな個人の個別的な自由な思考、言論と対立する場面が多いですが、そのとき重要なのは「反論」や「説明」であって、決して「抑圧」や「弾圧」であるべきではありません。

このような訴訟は、直接の被告だけでなく、広く社会全体に「発言すれば訴えられるかもしれない」という萎縮効果を与えてしまいます。とくに日本社会では、「空気を読む」とか「波風を立てない」といった文化的傾向が強く、その結果として自己検閲が日常化しやすい土壌もあります。
このような状況で言論を訴訟によって抑えようとする動きによって、市民社会の活力が削がれ、「異論なき社会」や「死に絶えた民主主義」がもたらされることが深刻に懸念されます。私たちの望む社会の平和で安全な秩序が、国民の、無批判な沈黙によってもたらされたものであってはなりません。

民主主義とは、多様な立場や意見がぶつかり合いながらも、互いの存在を認めあい、議論によって合意を形成していこうという考え方です。批判を排除することは、民主主義を自己否定することにほかならないと思います。
飯山陽氏の発言がどれほど厳しいものであったとしても、それに対して政党がとるべき行動は、「論理的に言論で反論すること」であるべきはずです。訴訟という形で沈黙を強制するやり方は、自由や知性にふさわしいとは思えません。

私たちは、飯山陽さんが日本保守党から訴えられるという深刻な事件が生じた今、あらためて「言論には言論で応じる」という民主社会の基本原則を改めて確認し、その価値を守り抜くことが大切だと思います。新しくできた日本保守党には、島田洋一氏や河村たかし氏や小坂英二氏といったすぐれた活動家がいます。しかし、彼らの政治的な主張がどのようなものであれ、飯山陽氏の批判に対して日本保守党が司法という手段によって言論を事実上抑圧するようなことはあってはならないと思います。「言論の自由」の価値を理解しない、「保守」を自称する百田尚樹党首のもとで彼らが活動することになるのは日本の「悲劇」と言えるかもしれません。またそうした手段を取る日本保守党の現状に、内部の日本保守党員のなかから批判の声が上がらないのもおかしいと思います。もし日本保守党が開かれた民主的な政党でないとすれば、民主主義を尊重する日本国民は日本保守党を支持しないだけのことでしょう。

 

 

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「令和日本国憲法草案」について

2025年04月01日 | 国家論

 

「令和日本国憲法草案」について

 

先に私は日本の憲法改正論議に一石を投じるために、「令和日本国憲法草案」を提示しました。あまり多くの人の注目も引かなかったようですが、そこで私が提起した問題は、現代の日本のおける憲法論議に、英国のような不文憲法の可能性はないか、もしないとすれば、次善の方策としてどのような憲法が可能か、また不文憲法に代わる成文憲法の可能性としては、どういうものがあり得るかということです。

現在の日本における憲法論議も、護憲か「現行憲法の改正」かといった二項対立的な議論に集約されてしまって、肝心の憲法が表現すべき国家理念とは何か、といった議論はきわめて不足しているし、その内容においてもきわめて貧弱だと思います。

近代の国家においては、憲法とはただ制度的な規範のみではなく、国家の理念を、その自由や人権、伝統、文化、教育、さらに皇室における共同体的統合といった価値理念を形象化し、定式化したものであるべきです。しかし、現行の日本国憲法は、敗戦後のGHQの統治下において制定されたということもあって、個人の尊厳、民主主義、平和主義といった抽象的な、つまり非歴史的、非伝統的な理念については明確ですが、民族の歴史や固有の伝統文化、慣習などといった個別具体的な歴史的な伝統的な理念的要素は希薄です。

そしてまた、一つの憲法の中にさまざまな制度的な規範規定が盛り込まれているために、憲法の理念についての輪郭も明確でなくなっています。また、憲法の改正が柔軟にできないために、時代の変遷や変化に応じた国会議員の定数削減といった具体的な制度改正も困難になっています。

英国の不文憲法は、理念と制度が慣習的・経験的に融合している典型としてしばしば言及されます。英国は王権と議会の長い対立と均衡を経て、慣習法・判例法・政治倫理が憲法秩序を構成する国家を形成してきました。これに対し、日本は明治憲法成立以降、法典主義と成文憲法を基軸とした国家発展を遂げており、法秩序の安定を慣習や判例に委ねる基盤をもちません。

政治エリートの成熟とか、市民社会の自律、王権と議会の均衡といった英国の歴史的条件は、日本とはまったく異なっています。したがって、日本が英国のような不文憲法国家に転換しうる可能性は極めて低いです。しかし、英国の憲法精神──その柔軟性・伝統尊重・理念と制度の調和など──は今日の日本にとっても重要な示唆を与えるものです。

先に掲げた「令和日本国憲法案」は、成文憲法を基本としながら、英国型の柔軟性・理念尊重・伝統との調和という精神を、日本の成文憲法の枠組みの中で再構成する可能性を追求しようとするものです。そして、憲法においては国家の理念を簡素かつ明確に記述しつつ、制度の具体化についてはその下位法である「憲法施行(執行)法」に委ねるという構造を採用しています。それによって、いわば「成文憲法でありながら不文憲法的精神を宿す」という独自の憲法体制を新しい日本国憲法において追求しようとするものです。

 


【令和日本国憲法草案2】 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/76WnJq

 

 

 

 
 

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