夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 二十〔絶対的自由について〕

2020年01月28日 | ヘーゲル『哲学入門』
 
§20

Der absolut freie Wille unterscheidet sich vom relativ freien (※1 ) oder der Willkür dadurch, dass der absolute nur sich selbst, der relative aber etwas Beschränktes zum Gegenstand hat. Dem relativen Willen, z. B. der Begierde, ist es bloß um den Gegen­stand zu tun. Der absolute unterscheidet sich aber auch vom *Eigensinn*. (※2) Dieser hat mit dem absoluten Willen gemeinschaft­lich, dass es ihm nicht sowohl um die Sache zu tun ist, sondern vielmehr um den Willen als Willen, dass eben sein Wille respektiert werde.

 

二十〔絶対的自由について〕 

 

絶対的に自由な意志は、自分を相対的に自由な意志からは区別しており、また恣意からも区別している。それは絶対的に自由な意志が、自分自身のみを対象とするのに対して、相対的に自由な意志は、しかし、何か限定されたあるものを対象とするからである。相対的な意志にとって、たとえば欲望にとっては、ただ対象のみが問題である。しかしまた、絶対的な意志は*わがまま*からも区別される。たしかに、わがままも絶対的な意志と共通するものをもっており、絶対的な意志もわがままも同じように、対象の事柄が問題であるのではなく、そうではなくむしろ、意志としての意志が問題であって、まさにそれらの意志そのものが尊重されるという点で共通している。

 

Beide sind wohl zu unterscheiden. Der Eigensinnige bleibt bei seinem Willen bloß, weil dies sein Wille ist, ohne einen vernünftigen Grund dafür zu haben, d. h. ohne dass sein Wille etwas Allgemeingültiges ist. — So notwendig (※3)es ist, *Stärke* des Willens zu haben, der bei einem vernünftigen Zweck beharrt, so widrig ist der Eigensinn, weil er das ganz Einzelne und Ausschließende gegen Andere ist. Der wahrhaft freie Wille hat keinen zufälligen Inhalt. Nicht zufällig ist nur er selbst.(※4)

 

これら両者は確かに区別されなければならない。わがまま者が自分の意志にこだわるのは、ただそれが彼の意志であるという理由だけであって、それについて何ら理性的な根拠があるわけでもない。言い換えれば、わがまま者の意志には普遍妥当的なものがない。⎯ 理性的な目的を固く持して意志の*強さ*をもつことはとても大切であるが、わがままは実に疎ましいものである。というのも、わがままは全く個別的なもので、他者に対して排他的なものだからである。真に自由な意志は偶然的な内容を何らもたない。ただ真に自由な意志自体のみが偶然的ではないのである。


(※1)
意志の相対的と絶対的の区別について、前者が意志の対象が問題になるのに対して、後者においては意志の内容そのものが問題にされる。

 

(※2)
恣意やわがまま(Eigensinn)と自由との共通性が認識されるとともに、その上で、恣意と自由が区別されなければならないこと、とくに「わがまま」と「自由」とが明確に区別されることの重要さを明らかにしている。この区別の重要性は国民的にも深く自覚されていく必要があると思われる。

 

(※3)
ここでは notwendig を「大切な」と訳したけれども、いうまでもなく、notwendig は「必然的な」とも訳されるもので、恣意やわがまま(Eigensinn)が、その反対概念である偶然的であるのに対して、真に自由な意志は必然的 notwendigである。

 

(※ 4)
「必然性」の反対概念は「偶然性」であるけれども、この意志の概念において、自由から必然性が導き出される。

 

(※5 )
「自由」の問題については、かって東大名誉教授の奥平康弘氏がまだ存命中でおられたときに、たまたま氏の著書『萬世一系の研究』の中で氏が次のように述べられているのを知った。

「要するに、現行皇室典範によれば、天皇には退位の自由がなく、皇族のうち比較的に高順位にある人も同じように身分離脱の自由が認めらないことになっている。そして、このように自由剥奪的な構造になっていることは、憲法規範のうえでいかがなものかといった疑問を呈する憲法論は、管見に属する限りでは、ほとんどない。天皇に退位の自由はなく、ある種の皇族に身分離脱の自由が無いのは、制度上当然のことであって、憲法上何の問題もない、と一般に考えられている。けれども私は、現実上ありえないとして葬り去られる運命にあるが、憲法理論としては、天皇・皇族には究極の「人権」として「(自由剥奪的な身分からの)脱出の権利」が、保障されねばならない、と考えている。彼らに与えられる「脱出の権利」は、彼らが「ふつうの人間」に立ち戻るための、あるいは「ふつうの人間が享有する、ふつうの人権」を自らも享有するための「切り札としての“人権”」に他ならないと言う立場をとる。本書はもっぱら明治期の皇室典範を扱うのであるが、現在の皇室典範についての、私のそんな問題意識が背景にある。」(ibid.,s.324)

 

奥平康弘氏のこの見解に対しては、奥平氏は「Freedom」と「Liberty」の概念の区別を認識しておらず、また、天皇を自然人としてしか見ることができない、として奥平康弘氏の「自由」と「人権」概念の限界を批判したことがある。
あらためて、ここでヘーゲルが「意志の自由」について述べているのにさいし、国家と国民にとって根本的に重要である「自由の概念」について、とくに皇室と国民の関係における自由の意義について国民的な認識の深まることを期待したい。

 

 

 


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