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夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 )

2025年05月10日 | 哲学一般

 


牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 )

 

以前に、ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

と言う論考の中で、かって東京都立大においてマルクス主義哲学者であった寺沢恒信の指導のもとでヘーゲル哲学研究の研鑽を積んだ許萬元と牧野紀之の二人の弟子が、あくでもマルクス主義の立場からですが、論理学や弁証法の研究において傑出した業績を残していることについて述べました。

寺沢恒信をはじめとするマルクス主義者たちは「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱をヘーゲル哲学研究の出発点としましたから、ヘーゲル論理学の研究分野において、あくまで「唯物論」という立場からそれなりの業績を残しています。


寺沢恒信氏の指導のもとでヘーゲル哲学研究に従事した許萬元と牧野紀之の2人を中心とするこの学派について「寺沢学派」と私は呼びましたが、「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という問題意識からとはいえ、ヘーゲル研究において優れた業績をあげているからです。

牧野紀之氏自身は、六十年安保闘争世代の思潮の影響を受けて、当時は、ソビエト・ロシアや毛沢東の中国が「東風が西風を圧する」という、興隆しつつあった共産主義諸国に夢と共感を抱いたらしく、牧野紀之氏も20歳前後に、共産主義運動に参画するという目的をもって彼の哲学研究の動機としました。


この間の事情については、牧野紀之訳『精神現象学』の「訳者まえがき」の中で牧野氏自身が次のように述べています。

「では三浦氏自身の問題は何だったのでしょうか。氏はこう言っています。「少し分かり易く説明しますとね、僕たちの世代、あるいは次の世代もそうですが、一方では連合軍による占領と、他方で中国革命があって、また米ソの対立図式のなかで社会主義に対する憧れを持っている。しかしスターリニズムの実態がハンガリー事件やチェコ事件などを通じて明らかになると、次第に憧れが失望に変わっていって、既成の社会主義をそのまま受入れることができなくなる。」(四三ページ)


氏の心情を推察してかみ砕きますと、二十世紀の最大の社会問題であった資本主義か社会主義かの問題に最大の関心があり、その対立において社会主義に好感を持っていたということです。それは中国革命の道徳的な高さによって強められたということです。しかしソ連の社会主義(及び革命後の中国の社会主義) の実態を知るに及んでどう考えたらいいか迷うようになったということです。

思うに、この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います。私もここまでは三浦氏と同じです。しかしこの総論をどれだけ具体化して考え進めたか、これがその人の哲学を決定したのだと思います。前衛党の問題、その規律としての民主集中制をどう考えるか、理論と実践の統一をどう考えるか、政治と学問・芸術の関係をどう考えるか、こういった問題にまで具体化して考えたか。それを考える時にヘーゲルを参考にして考えたか、これが決定的だったと思います。」

(※ちなみにここで言う「三浦氏」とは、1995年に、出版社「未知谷」から、牧野紀之氏と同じように、ヘーゲルの『精神現象学』を翻訳、出版した三浦和男氏のことです。)

 

ここで牧野紀之氏 が「この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います」と書いてるように、日本のヘーゲル哲学研究者の99%はマルクス主義者であって、彼らは自らの拠り所であった共産主義に対する夢が敗れた後に、マルクスが自らの思想の拠り所にしたヘーゲル哲学そのものにさかのぼって、「マルクス主義」の検証に取り組もうとしたのだ思います。

悪くいえば、マルクス主義の歴史的な政治的な破産に直面したマルクス主義者たち、この三浦和男氏をはじめ牧野紀之氏自身もそうだと思いますが、そうした破産に直面して、「マルクス主義」を再検証するという口実で、「ヘーゲル哲学研究」の中に逃げ込んだのだと思います。

市民社会の、いわゆる「資本主義社会」の中では、マルクス主義者たちは実際に使い者になりませんでしたから、彼らは「大学」や「アカデミズム」の世界に逃げ込んで、そこで「食い扶持」を見出すことになったともいえます。今日の「大学」「アカデミズム」の世界がほとんど「赤一色」「左翼一色」である理由もここにあるのではないでしょうか。

しかし、牧野紀之氏自身は、自身の初心に忠実に、自らの哲学研究において共産主義そのものを実践しようとしました。だから牧野氏自身はサラリーマンとしての「大学教授」という職に満足できませんでした。自から「鶏鳴学園」という私塾を作って、寺沢恒信から受け継ぎ、その上に自らの創意工夫を加えて発展させたヘーゲルのテキストの「読解技術」を── 具体的には「文脈を読む」とか「形式を読む」といった読解の技術を、自らの私塾「鶏鳴学園」に学びにきた生徒たちに伝授しました。また、自らも共産主義の実践として、「共同体」の創出などにも取り組みました。

鶏鳴学園で行われた牧野氏のヘーゲル哲学の原典購読は、たとえば一般のいわゆる「大学」「アカデミズム」におけるヘーゲルの原典購読の水準をはるかに超えるものでした。それが評判をよび定評を得ましたから、難解な「ヘーゲル哲学」を何とかものにしたいという若者、社会人などが集い、牧野氏からヘーゲル・テキストの「読解の技術」を学びました。

牧野氏自身は、「自分の哲学を作って生きる」という課題に忠実でしたが、牧野氏の生徒たちの中には「大学教授」として生活するという目的のために、牧野氏からヘーゲル哲学の読解の技術だけを、悪くいえば盗んで「大学教授」になるための「飯の種」として、ヘーゲル哲学の訓詁注釈のみに従事しました。ヘーゲル哲学研究を「自らの哲学を作る」という課題の手段とすることなく、ヘーゲル哲学を「談論風発」することだけが目的の、そうした風潮について牧野紀之氏は「サラリーマン弁証法」と揶揄しました。

少し論点が逸れてしまいましたが、この「寺沢学派」のもう一つ著しい偏向があるとすれば、この「寺沢学派」には、ヘーゲルの「法の哲学」に関連する研究業績が皆無であるということです。マルクス自身はヘーゲルの「法の哲学批判」を彼の「共産主義思想」の基礎にしましたが、この「寺沢学派」は「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という動機にみずから限定しましたから、そのヘーゲル哲学研究が、ヘーゲルの「大小論理学」に集中したのは当然の帰結だとも言えます。その結果として、ヘーゲル「法の哲学」の国家理念に基づいた、新日本国憲法を構想できる者が、この「寺沢学派」には、誰一人としていなかった、ということにも現れています。

 

 

 

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牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

2025年05月06日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

 

牧野紀之氏は、世界観としては、唯物論の立場に立つ。それは牧野氏の経歴を見てもわかるように、彼の哲学研究が、共産主義運動への参画を根本的な動機としていたことから来るものである。この共産主義とはマルクス主義であり、毛沢東主義である。

マルクス主義や毛沢東主義は世界観の立場としては唯物論である。マルクス主義を初心とした牧野氏は終生にわたって唯物論の立場から離れることはなかった。これが彼の哲学の限界である。だから、牧野氏にとっては「世界には初めも終わりもない」。

かくして、牧野氏の指導教官であった東京都立大学の教授であったマルクス主義者の寺沢恒信のもとでヘーゲル哲学の研鑽に励んだ牧野氏は、その師と同じく「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱を、牧野氏自身の哲学研究の出発点しており、この立場を終生にわたって引き継いだ牧野氏は、したがって、「ヘーゲル哲学自体」の研鑽をどれほど深めようとも、絶対的観念論者ヘーゲルそのものの立場に立つことはなかった。

牧野紀之氏はいわゆる60年安保闘争世代に大学時代を過ごしており、その時代思潮に深く影響されている。それに対して、私は牧野紀之よりもちょうど一世代下の70年安保闘争の時代に学生時代を過ごした。しかし、もともと私のヘーゲル哲学研究の動機は「キリスト教の研究」にあったから、世界観の立場としては、マルクスの唯物論の立場を選択する動機も必然性もなかった。

ヘーゲル哲学そのものの世界観は、「絶対的観念論」とは言われるが、そもそも基本的にはこの「絶対的観念論」は唯物論をも止揚したものである。つまり、絶対的観念論とは、唯物論でもなければ、いわゆる観念論でもない。物質と観念がどちらが根源的かという問いには、究極的には確定できないとするのがヘーゲルの立場である。これを日本の伝統的哲学の立場から言うなら、「色心不二」の立場であって、色=物質、心=観念の二者は二つであって二つではないという立場とおなじである。色=物質、心=観念のいずれが根源的かという問題には結論がない。

もともと、「キリスト教の研究」を動機とした私の「ヘーゲル哲学研究」には、したがって、そもそもマルクスの唯物論の立場に立たなければならないという動機もその必然性もなかった。だから私はこのヘーゲルの立場、つまり「絶対的観念論」の立場をそのまま継承することになった。ヘーゲル哲学、その論理学そのものを何ら改造することなく、そのまま引き継ぐだけである。牧野氏のように唯物論の立場から改作する必要もない。ヘーゲル哲学を「唯物論の立場から改作する」というのは、むしろ改悪であり「非真理」への転落以外のなにものでもない。この観点から、マルクスの浅薄な「ヘーゲル概念論」理解を逆批判することになった。

とはいえ、牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解は、「唯物論」の立場からの改悪という根本的な欠陥を自覚して読解する限りは、我が国におけるこれまでのヘーゲル哲学のテキストのもっとも正統的な優れた読解の教本である。ヘーゲル哲学の読解のためのもっとも有効、有益な教本として、私たちは牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解を参考にできるし活用すべきものである。

 

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

 

 

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牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

2025年05月04日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

 

日記ブログ「作雨作晴」でも哲学研究ブログ「夕暮れのフクロウ」でも、多くヘーゲル哲学について論及しています。こうした私の「ヘーゲル哲学研究」は、哲学者の牧野紀之氏の「ヘーゲル哲学研究」を媒介にしていますから、私があらためて牧野紀之氏の「思想と哲学」について、批判的に考察することは、必要なことであり課題でもあるのですが、なかなか時間的に能力的にも実際に具体的に着手できませんでした。

しかし、この問題は「私の思想や哲学の立場」を明確するためにも、いつまでも先送りできることでもないので、少しずつでも着手していくつもりで、今日の記事になりました。こうした感想や考察を断片的にでも蓄積していって、それを手がかりとして、時がくればそれらを整理しまとめて、一つの必然的で体系的なまとまった考察としていきたいと考えています。

牧野紀之氏については、牧野氏自身がご自身のブログの中で明らかにされています。

牧野紀之 - マキペディア(発行人・牧野紀之) https://is.gd/89Z4qs

牧野紀之


2008年08月01日 | マ行

1、経歴等

1939年、東京に生まれる。
 1963年、東大文学部哲学科を卒業。
 1970年、東京都立大学博士課程を卒業。
 1971年、鶏鳴出版を始める。
 1973年、哲学私塾「鶏鳴学園」を始める。
 1976年、雑誌「鶏鳴」を創刊。
1990年、引佐郡引佐町(現在の浜松市北区引佐町)に移住。
 1991年、04月から哲学の共同生活を始めるが失敗。
2006年、ブログ百科事典「マキペディア」(創刊時の名は「マキシコン」)を創刊

2、思想遍歴等

 大学院卒業までの経歴については「勉強の思い出」を参照。

 60年安保闘争の中で直面した問題と取り組み、ヘーゲル哲学を介して考える中で、生活を哲学する方法を確立した。「生活のなかの哲学」「哲学夜話」(鶏鳴出版)。

 ヘーゲル研究の成果は訳書「精神現象学」(未知谷)「小論理学」(上下巻、鶏鳴出版)など。

 又、社会主義の根源的反省の中で、唯物史観の論理的再構成を目指す。「労働と社会」「ヘーゲルの目的論」(鶏鳴出版)など。

 それの延長線上で、マルクスとエンゲルスの自称「科学的社会主義」を再検討して、その証明の不十分性を指摘する。つまり、それは実際には「空想的社会主義」の1種でしかないことを証明。「マルクスの〈空想的〉社会主義」(論創社)。

 社会運動のあり方としては「本質論主義」を提唱し、具体化している。これと関連して、従来の社会主義運動で理論的検討の加えられなかった諸問題を解明。「理論と実践の統一」(論創社)。

 ドイツ語教師としての活動の中で、関口存男(つぎお)氏のドイツ語学を学ぶ。「関口ドイツ語学の研究」(鶏鳴出版)。

 教育活動では、初めは学校を低く見て私塾を目指してきたが、失敗してからは、学校の可能性を追求するようになる。

 哲学教育の目的を「各自が自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させること」と定式化したこと、その中心的な手段としての教科通信を最大限に利用するようになったことで、新境地を開拓。「哲学の授業」「哲学の演習」(未知谷)。教科通信「天タマ」。

 ドイツ語の授業については、教科通信「ユーゲント」。

 2003年09~11月、浜松市積志公民館で哲学講座。「松の木」

 2004年04月~05年03月、地元の自治会長を務める。

 2010年04月~11年03月、地元の組長(事実上は自治会長に近い。隣の自治会と合併したために「組」になっただけ)を務める。「私の自治会長」を参照。

 2010年3月末をもって静岡大学情報学部でのドイツ語非常勤講師の仕事を終える。教科通信「ユーゲント」。

 70歳ころから「学問は一代、思想も一代」と考えるようになり、かつての間違いの根本は「生徒を集めよう」と考えたこと自体にあった、と考えるようになる。

2012年10月、最後の仕事と考える「大論理学」の翻訳に向けて舵を切る。
2012年11月、ヘーゲル「自然哲学」(序論)を訳し、pdf鶏鳴双書として出版。

2013年03月、pdf鶏鳴双書として「ヘーゲルの始原論」を出す。
2013年04月、「大論理学」の翻訳の前に、「小論理学」を見直して出す事とし、見直しを始める。
2013年06月、「関口ドイツ文法」を未知谷から出版。

3、直近の活動報告

 2013年04月から『小論理学』(鶏鳴版)の見直しを始める。同(未知谷版)を出すためである。
 原文のドイツ語を文法的に読むことがしやすくなったのを感ずる。「関口ドイツ文法」を出したためである。
 「ヘーゲルを読んで哲学する」点でも以前よりは前進したと思います。
 2014年7月現在、「現実性」論に入りました。
 2014年9月1日、「本質論」を終えて、暫時小休憩に入る。

 ☆ 「私の研究生活」(2014年10月24日)

 
4、業績一覧

5,社会的活動

 社会的発言は、主として、ブログ「マキペディア」「静岡県庁の真ホームページ」(2010年10月で終える)「浜松市役所の真ホームページ」を中心としている。
→私のブログ体験
私のブログ体験、その2
私のブログ体験(その3)

 社会は官と民から成り立つが、両者は並立しているのではなく、官の運営する枠組みの中で民が活動する、という関係にある。だから、その枠組み(法律で決まっている)と運営(担当者の考えと力量で決まる)を国民は監視し検討すべきであるという考えに基づいて、役所のカウンター・ホームページを作ることを提唱し、実行している。〔その後、「マキペディア」に集中)

2011年02月15日、浜松市長選挙への仮立候補宣言を発表。→「仮立候補関係の記事」
 同、03月25日、正式立候補は出来ず→「報告と御礼」

 (2008年08月01日現在。その後適宜加筆)

 

 

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赤尾秀一の思想研究

2025年02月15日 | 哲学一般
 
赤尾秀一の思想研究

これまで哲学研究者、赤尾秀一はブログ日記「作雨作晴」や哲学研究ブログ「夕暮れのフクロウ」上などで、さまざまに論考を公開してきました。しかし、いまだ目次や索引などを整備しきれておらず、赤尾秀一の思想傾向の概略でさえ把握しにくいと思います。
それで、さしあたって、中間的なまとめとして、赤尾秀一の思想的な概略とでもいうべきものを、まとめておきたいと思いました。おおよそ次のようなものとなると思います。

1、 ヘーゲル哲学の研究者としての立場
 
◦ 哲学的思考の根底にヘーゲルの哲学を据えようとしています。

◦ とくに「自由」「国家」「立憲君主制」「民主主義」「神の国」といった概念に関心があり、研究を深めようとしています。

2、日本の国家理念としての「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」

◦ 日本の国家理念として「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」を追求しています。(ヘーゲルの国家哲学に基づく国家観と、キリスト教的な価値観を融合させようとしているといえます。)

◦ 日本の歴史的な文脈の中で、「立憲君主制」と「自由民主主義」をどう両立させるかというテーマを追求しています。 

3、二大政党制の構想(「保守自由党」と「民主国民党」)

 ◦ ヘーゲル的な歴史発展の観点から、対立する二つの理念(保守と自由、民主と国民)を調停し、より高次の統一へと発展させようとしています。
 
 
さしあたっては、赤尾秀一の思想傾向としては、おおよそのところ以上のようにまとめることができると思います。今後さらにその研究を深め、思想や哲学を深化発展させることができればいいのですが。皆様のご理解とご協力もお願いできればと思います。
 
 
 
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ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判)

2025年02月04日 | 哲学一般

 

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判)

      2025(令和7)年02月03日(月)曇り。#寺沢学派、#寺沢恒信、#許萬元、#牧野紀之、#マルクス主義批判

 

ここしばらくヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解が中断したままになっています。そこでの私の翻訳と註解の水準はさておくとしても、我が国のヘーゲル研究は講壇、在野を問わず、非常に高いレベルにあるのではないか思います。世界的に見てもおそらく最高の水準に達しているのではないでしょうか。

その理由の一つとしては、わが国におけるかつてのマルクス主義の隆盛があると思います。しかし、20世紀末にソ連邦の崩壊を始めとする共産主義の失墜があって、共産主義そのものの信用は地に落ちたということはありますが、それでもわが国においては今なお日本共産党が日本の政界の一角を占めているように、この破綻したマルクス主義も今なお国民の間に一定の影響力はあるようです。

わが国のヘーゲル研究に大きく貢献したのは、マルクス主義哲学者であった元東京都立大学の哲学教授で共産主義者の寺沢恒信の存在が大きいと思います。この寺沢恒信のもとから許萬元と牧野紀之という二人の傑出したマルクス主義ヘーゲル学徒が生まれてきました。

マルクス主義の立場からするヘーゲル哲学研究については、「寺沢学派」とも称することできる、寺沢恒信、許萬元と牧野紀之たちの三人によって、マルクス主義の立場からのヘーゲル哲学研究は行き着くところまで行ったと思います。今後おそらく彼らを乗り越えるほどのヘーゲル哲学研究者は出てこないのではないでしょうか。それほど三人のヘーゲル哲学研究は徹底し傑出していたと思います。

ただ、彼らのヘーゲル研究に限界というものがあるとすれば、それは彼らが「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの誤った提唱を無自覚、無批判に引き継ぎ、それを彼らのヘーゲル哲学研究の出発点にしたことにあると思います。マルクスのヘーゲル哲学批判は、ヘーゲルの絶対的観念論に対する誤解の上に立つものであるし、レーニンはこのマルクスの誤解をそのまま無批判に引き継いでいるからです。

キリスト教にも「ブドウの樹の良し悪しはその実を味わえばわかる」とあるように、共産主義諸国の歴史的な政治的な崩壊という実際の現実が、マルクス主義の破綻を実証することになっていると思います。

ヘーゲルの絶対的観念論は「絶対的」なもので、それ自体としては完結したものです。だから、ヘーゲル哲学批判の上に立つマルクスやレーニンの共産主義は、ヘーゲル哲学の根本的に誤った継承にならざる得なかったと思います。マルクス主義が歴史的に破綻することになったのは理の当然であると思います。

マルクス主義の破綻の原因を理論的に指摘するのは、それなりに教養が必要で難しいことだとは思いますが、私のこれまでの論考の中でも、ヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解、無理解については、いくつか指摘してあります。そのマルクスのヘーゲル哲学に対する主な誤解について指摘するとすれば、三つあると思います。

その第一は、ヘーゲルの「概念論」に対するマルクスの誤解です。
その第二は、ヘーゲルの「観念論」に対するマルクスの誤解です。
第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。

第一については、マルクスは、「概念」を、単なる「個別性から共通性を抽出」したもので、抽象化や捨象の積み重ねによって生じるものとして、「概念」を単純な観念的な「抽象の産物」として捉えました。しかし、ヘーゲルにとって「概念」は、単に人間が作った便宜的な言葉や観念ではなく、「内在的な必然性によって自己を展開する論理構造」そのものです。マルクスはヘーゲルの「概念」の本質を十分に理解していなかったと言わざるを得ません。

第二に、マルクスとエンゲルスは、ヘーゲルの「概念(der Begriff)」を誤解して単なる主観的な観念的な抽象物として、「観念論的な幻想」と見なしていました。ヘーゲル哲学の「概念」自体は自己運動する論理的実在であり、自己を展開する論理構造であることを見抜けませんでした。

ヘーゲルの「概念」は単なる頭の中の抽象ではなく、現実を貫く論理そのものなのに、マルクスは唯物論的な世界観から、この観念的な自己展開の論理を理解せず、それを「形而上学的な幻想」とか「神秘化された観念論」として物質主義に還元して批判することになった。

その第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。
ヘーゲルは『法の哲学』において、国家は「客観的精神の最高の実現形態」であり、国家を「自由の実現形態」として捉えたのに対し、マルクスは国家を「階級支配の道具」とみなし、「国家は支配階級の手段にすぎず、その役割は資本の利益を擁護することにある」といった一面的な国家観を主張しました。そのことによって、本来は家族愛と友愛に満ちた自由な国家であるはずなのに、そこに憎しみと妬みと闘争の不自由な種がまかれました。

許萬元と牧野紀之の二人は、寺沢の指導のもとで切磋琢磨した学友同士でもあります。確かに、寺沢恒信や許萬元、牧野紀之らマルクス主義を継承する立場からのヘーゲル研究は、その徹底性においてヘーゲル哲学研究における功績は大きなものです。しかし、そのいずれもが上記のようなヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解を無自覚に無批判に引き継いでしまっているという点で、根本的で致命的な欠陥を抱えたままです。

これまでに赤尾 秀一がマルクスの「ヘーゲル哲学批判」に対して行ったいくつか反論。


§ 280b[概念から存在への移行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/j9SLmx)
§278c[至高性(主権)をつくる観念論、Der Idealismus, die Souveränität ausmacht] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ovLOgU
『薔薇の名前』と普遍論争 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/XXPXHK
「神の国」とヘーゲルの「概念」 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/eCm1Xv

事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MPGE0B

価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/lIVw2T

 

 

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史上最大の問題作!全米大学生の必読書、プラトン『ポリテイア(国家)』とは|納富信留

2024年02月17日 | 哲学一般

史上最大の問題作!全米大学生の必読書、プラトン『ポリテイア(国家)』とは|納富信留

 

たまたま納富信留先生の短い講義を動画で見て、あらためて文庫本の『国家』や『饗宴』を読み直してみたいと思いました。『国家』は危険な本なのでしょうか。しかし、まとまった時間もとれず、いつのことになるやら。ただプラトンの哲学の本質については、私は次のような認識をもっていました。

ちょっと時間にまかせて、私のブログの中で「プラトン」で検索してみると、意外に多くの論考で触れていることがわかりました。

民主主義の概念(1) 多数決原理 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/bzatIz
哲学の仕事 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/QtrzRq
哲学の仕事② - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/v3MXx2
『薔薇の名前』と普遍論争 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/XXPXHK
ヘーゲルのプラトン批判 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/mhqEaV
「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/t2bi3Q
国家指導者論 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/RIpauR
『法の哲学』ノート§2 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/LjpzOm
哲学の伝統 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/DPN3Ja
ロゴス(ho logos)・概念・弁証法 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/y1JNgU
8月26日(月)のTW:世界史と理性 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/OlvfsQ
民主主義の人間観と倫理観──皇室と民主主義 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X5JJLP
2月3日(土)のTW:ソクラテスやプラトンの理解したノモス(nomos) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/AmumTY
ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第七十節[礼節について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/xmd6iP

これはヘーゲル哲学がプラトンからの深い影響の上に立っているせいかもしれません。

 

 

 

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シェリング

2023年11月29日 | 哲学一般

 

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling、1775年1月27日 - 1854年8月20日

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング
Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling

シェリングの肖像
生誕 1775年1月27日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ヴュルテンベルク
死没 1854年8月20日(79歳没)
スイスの旗 スイス・バート・ラガーツ
時代 19世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 ドイツ観念論、ポスト・カント主義超越論的観念論、客観的観念論(1800年以降)、イエナ・ロマン派、科学におけるロマン主義、Naturphilosophie(ドイツにおける自然哲学
研究分野 自然哲学(Naturphilosophie)、自然科学美学形而上学認識論宗教哲学
 

 

Credit: De Agostini/Getty Images/DEA PICTURE LIBRARY

Credit: De Agostini/Getty Images/DEA PICTURE LIBRARY     (https://is.gd/C0BFh7)

 

※出典

フリードリヒ・シェリング - Wikipedia https://is.gd/UWaTYP

 

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フリードリヒ・シェリング

2023年11月29日 | 哲学一般

フリードリヒ・シェリング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

ヴュルテンベルク公国(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州レーオンベルクで誕生。父はルター派の神学者・東洋学者・教育者であり、シュヴァーベン敬虔主義の支持者だった。シェリングは家庭の知的また宗教的雰囲気に強く影響されて育ち、早熟な天才ぶりをみせる。シュトゥットガルト近郊のニュルティンゲンラテン語学校、さらにテュービンゲンの一区域であるベーベンハウゼンの学校で学んだシェリングは、10代前半でギリシア語ラテン語ヘブライ語に通じた。

1790年、テュービンゲン神学校(テュービンゲン大学の付属機関)に特例により15歳で入学を許された(規定では20歳から入学)。同神学校には2年前、彼より5歳年上のヘーゲルヘルダーリンが入学しており、シェリングは寮で二人と同室になった。彼らは、フランス革命に熱狂し、カントに代表される新しい時代の哲学に関心を示し、進歩と自由を渇望し、そして牧師にはならず、思想あるいは文学の道へ進んでいく。そしてこの時期のシェリングが特に傾倒したのは、フィヒテであり、またスピノザであった。卒業後、家庭教師をしながら『悪の起源について』(1792年)『神話について』(1793年)などの哲学著述を続けていた。

1796年、ライプツィヒ大学で自然学の講義を聴講し始める。1798年、同年に著した『世界霊について』がゲーテに認められたことがきっかけとなり、イェーナ大学の助教授に就任する。1799年にはフィヒテがイェーナ大学を辞職し、シェリングは哲学の正教授となった。1800年、ヘーゲルをイェーナ大学の私講師として推挙した。

1802年、シュレーゲルの妻であるカロリーネとの恋愛事件を起こし、さらにイェーナで保守派と対立した。1803年、シュレーゲルと協議離婚したカロリーネを伴ってヴュルツブルクで結婚し、ヴュルツブルク大学に移籍した。1806年にはさらにミュンヘンに移住、バイエルン科学アカデミー総裁に就任した。

ミュンヘンで『人間的自由の本質』を執筆中だった1809年、妻カロリーネが療養先のマウルブロンで死去。シェリングはその後1813年、ゲーテの紹介でパウリーネ・ゴッターと再婚した。

1820年、エアランゲン大学哲学教授となり、さらに1827年、ミュンヘン大学創立に伴い哲学教授に就任。この時期、シェリングはバイエルン王太子マクシミリアンの家庭教師を務め、国政にも参画した。のちにその功績をもって貴族に叙された。

1841年、ベルリン大学哲学教授。1845年、同教授職を辞任した。ベルリン大学より引退した後、シェリングは以後公開の講義を行わなくなった。

1854年8月20日、療養に出かけたスイスバート・ラガーツで病を悪化させ、家族に見守られて生涯を終えた。

思想

時期区分

シェリング思想の時期区分には諸説あるが、『人間的自由の本質』(1809年、以下『自由論』と略す)以降を中期または後期思想とみなし、それまでの時期を前期思想と呼ぶのが一般的である。前期思想は、さらに自然哲学期(1797年から1800年頃まで)と同一哲学期(1800年頃から1809年まで)に細分されることが多い。中期思想という区分を立てる場合には、『自由論』『世界諸世代』(1813年)の時期を中期、『神話の哲学』『啓示の哲学』を後期とする。また論者によっては『自由論』を独立した時期とみなすものもある。

後年、1830年代のシェリング自身は自分の前期哲学を消極哲学、後期哲学を積極哲学と呼び、ヘーゲルら他の哲学者は消極哲学にのみ携わっているとみなしている。彼によれば消極哲学は "das Was"「あるものがなんであるか」にのみかかわっており、"das Dass"「あるとはどのような事態であるか」について答えていない。そして彼の後期の営みこそ、後者の問いに答える哲学であるとしている。

シェリングは、終始一貫した特長をもった思想家だったのか、それともクーノー・フィッシャーが「プロテウス・シェリング」と評したように、一貫した核をもたず変転する思想家だったのかは、哲学史上シェリングが注目されるようになって、絶えず問題とされてきた。19世紀後半から20世紀前半における、新カント主義ならびに新ヘーゲル主義の哲学史観においてはその変転が強調されることが多かった。一方、1956年以降のシェリング研究は、むしろ彼の思想の核に一定の関心と問題意識があり、その動径に彼の思想の全展開を考える傾向を示している。

後者の主張によれば、シェリングの思想は古代的なものへの関心と理性的なものへの志向、そして両者の緊張と差異が高次の同一性に支えられているという確信によって特徴付けられている。

前期( - 1809年)

最初期

前期シェリングに大きな影響を及ぼした思想家として、プラトン、カント、フィヒテ、スピノザ、ライプニッツが挙げられる。カントの影響については議論があり、フィヒテを介した影響をより重視する論者と、カントからの直接の影響をより重視する論者に分かれる。

ルター派正統神学の牙城であったテュービンゲン神学校で、シェリングは、友人ヘルダーリンやヘーゲルとともに、むしろ政治および思想上の進歩的動向に共感し、神学からは遠ざかり哲学へと転向する。神学校の監視の下で、当時進行中だったフランス革命に、またカントやフィヒテといった新しい哲学の動向に彼らは刺激され、時にはその言動について学校側から指導を受けることすらあった。神学校在学中のシェリングの著作、修士論文『悪の起源について』(1792年)、『神話について』(1793年)にも彼の非正統派的志向が表れている。

神学校卒業後、シェリングは立て続けに著作を刊行し、注目を集める。この時期シェリングはフィヒテの知識学を知り、フィヒテの紹介者として文壇に登場した。1794年以降、雑誌に『哲学の諸形式』(1794年)、『自我について』(1795年)、『哲学的書簡』などの論文を発表するシェリングは、フィヒテからも公衆からも、フィヒテの忠実な紹介者、支持者と思われていた。

自然哲学期

しかしすでにこのころから、シェリングはスピノザやライプニッツにも関心を示し、フィヒテとは独自の路線を歩みだしつつあった。「ぼくはスピノザ主義者になった」と宣言するヘーゲル宛書簡はよく知られている。また、フィヒテが生涯を通じて、哲学の対象としての自然に関心をもたなかった一方、シェリングの場合は彼が早くから親しんでいた古代哲学、とりわけプラトンの自然観が、その思想の展開に大きく寄与したことが、『ティマイオス草稿』(1794年)などからうかがえる。1796年から1798年、シェリングはライプツィヒに滞在し、同大学の講義を聴講し、当時はまだ「自然学」「自然哲学」などと呼ばれていた当時の自然科学に接した。生物学や化学、物理学について当時最新の知見を得た経験に刺激されたシェリングは、『イデーン』(1797年)をはじめとして自然の形而上学的根拠付けについての著作を精力的に発表する。ここでシェリングの自然哲学の中心概念となるのが有機体である。当時急速に増しつつあった生化学上の知見は、デカルト以来の機械論的自然観に対抗する有機体的自然の観念に注目を集めていた。シェリングは有機体を自然の最高の形態とみなし、それをモデルとして、力学等を含めた自然の全現象を動的な過程として把握する図式を提起しようとした。ここでシェリングの有機体理解に大きく寄与したと思われるのはライプニッツで、『イデーン』には『単子論』への言及が多くなされている。

また神学校卒業後、離れ離れになった仲間とシェリングは、相互に思想的影響を及ぼしあっていた。彼らは文通を交わし、お互いの仕事の進展や新しい着想を伝え合った。そのような思想的交流のひとつの産物として知られるのが、1795年から1796年のある時点にヘーゲルの手で筆記された執筆者不明の草稿、通称『ドイツ観念論の最古の体系計画』である。この草稿に出てくる概念のうち「新しい神話」はシェリングの大著『超越論的観念論の体系』(1800年)でも登場し、また同一哲学期にはシェリング芸術哲学の基本的概念のひとつとなる。

同一哲学期

1801年、研究者によっては1800年に、シェリング哲学の新たな時期がはじまる。無差別同一性 (Identität) を原理とし、絶対者の自己展開の叙述の学として遂行される哲学、いわゆる「同一哲学」である。

ところで研究者によっては同一哲学の端緒に分類される『超越論的観念論の体系』は、フィヒテとシェリングの間に、重大な亀裂を生じせしめるに至った。もともとフィヒテはシェリングの自然哲学への関心を好意的には受け止めていなかったのであるが、いまやシェリングは自然哲学と超越論的哲学を併置する。そのようなシェリングに対し、自然を他我とみなし従って哲学の対象とは原理的にみなさないフィヒテは、シェリングにあてた書簡などでシェリングの哲学理解に危惧を表明した。自著『私の哲学体系の叙述』(1801年)にフィヒテが加えた批判を契機に、シェリングのほうでも次第にフィヒテと自己との哲学的差異を自覚し、両者は完全に決裂する。フィヒテの転居を期にはじまったふたりの文通は1801年をもって止み、シェリングは対話篇『ブルーノ』(1802年)などの公刊著作で暗にフィヒテを批判した。1806年にはシェリングは名指しでフィヒテを批判するようになる。

同一哲学期にも、シェリングは自然哲学に関する著作を続けたが、それに加えて、芸術についての哲学的思索が集中的になされた。すでに『超越論的観念論の体系』で、芸術は超越論的哲学の系列の終極に位置づけられ、「哲学の真のまた永遠の証書であり機関」と呼ばれている。『ブルーノ』『学問論第14講』(1802/1803年夏講義)『芸術の哲学』(1802/1803年冬講義)では、この立場が、同一哲学の理論的前提の上で改めて展開されてくる。観念的なものの系列において、主観的な学、客観的な行為に対し、芸術は観念的なものの絶対的なポテンツとして、「芸術の宇宙において全を展示する」。このような芸術は、実在的な自然に対しては観念的な自然の像として優越性を保ちつつ併置され、また絶対的な哲学に対しては対像としてその完成の姿に予示を与える、いわば人間の最高の精神的所産かつ生産活動として理解される。そのような最高度の芸術は、ただ自然の十分な把握からのみ可能であるとシェリングは考え、古代人がもっていたそして近代人にとっては失われている神話に換わるものとして(シェリングはここで神話の理想的な姿をギリシア神話のうちに見出す)、まだ生み出されていない「新しい神話」を要請する。ここでの新しい神話の内実には諸説があるが、山口和子は、教訓詩としての自然哲学にその可能性をみており、またシェリングが自身そのような自然哲学を完成させる意欲をもっていたとしている(山口和子『未完の神話』晃洋書房)。

同一期への移行:有限性の導出根拠をめぐって

1800年、シェリングは、友人ヘーゲルが私講師としてイェーナ大学で教えるよう推挙した。1800年はまた、ヘーゲルの著書『フィヒテ哲学とシェリング哲学の差異』が刊行された年でもあった。シェリングは『ブルーノ』のなかで、ヘーゲルの就職論文『天体運動論』を全面的に借用している。また二人は1802年から共同で雑誌『哲学批判雑誌』を刊行した。この雑誌は主に自然哲学を扱い、1803年、シェリングがイェーナから転居したことを切っ掛けに廃刊になった。シェリングとヘーゲルの協力関係は、このころをもって終わったと考えられている。

カロリーネと結婚した1804年は、シェリングにとって私生活だけではなく、哲学上の転機の年ともなった。エッシェンマイヤーに「差別/有限性はどのようにして無差別から導出されるのか」と批判されたシェリングは、その問いに答える必要を感じ、『哲学と宗教』(1804年)を著した。そこでは彼の古い関心、「悪の起源の問題」が再び取り上げられており、有限性の生起は、本来同一であるものの頽落 (Abfall) によるとされた(なお、この著作自体の構想は1802年にはすでにあり、本来は『ブルーノ』の第2部として構想されていた。しかしシェリングとしてはなるべく早くこの問題を論じることを必要と感じ、著作を対話編としてではなく散文の論文で発表した)。しかしなぜ頽落が起こるのか、そのことはここでは十全には論じられていない(本著作のこの欠点はツェルトナーらによって指摘されている)。この問題は、1809年の『自由論』で再び大きく取り上げられることになる。

バイエルン王立アカデミーの総裁として、シェリングは、1807年、講演『造形芸術の自然への関係』を行った。この講演で、シェリングは同一哲学に立脚し、当時盛んだったヴィンケルマンの新古典主義的美術観に一定の価値を認めながら、しかし自然であれ古代芸術であり、外的な「死んだ形態」ではなく、そこに形態として現れてくる精神そのもの、「生きた自然」を把握し、表現するべきであると説いた。これは同地では非常に好評を博したが、しかしこの講演の内容を入手したヘーゲルはA・W・シュレーゲル宛て書簡で皮肉を交えた痛烈な批判を行った。少年時代からの二人の友情はいまや終わりに近づいていた。

同じ1807年に刊行されたヘーゲルの『精神現象学』でシェリングの同一哲学が批判された。シェリングにおいて絶対者は同一性にあるとして直観によって把握されるが、ヘーゲルはその無媒介性による把握の妥当性を批判し、むしろ概念による哲学を主張した。研究者によってはここで批判されているのは、シェリングではなくその追随者であるシェリング主義者であるとする(ヘーゲルも同様の釈明をシェリングあて書簡で行っている)が、「ピストルからずどんと飛び出す直観」「すべての牛を黒く塗りつぶす闇夜」などの表現がシェリングとその直観概念に結びつけられており、シェリングはこれを非常に心外に感じた。これをもってテュービンゲン以来の両者の友情は終焉し、以後ヘーゲルはシェリングにとってもっとも重要な論敵のひとりとなった。

中・後期(1809年 - )

1809年に出版された『人間的自由の本質』は、シェリングの思想の大きな転換点とみなされている。

シェリングはこの著作で人間的自由の根拠を問い、悪への積極的な可能性を人間のうちにみる。シェリングによれば、人間は悪を行う自由をもっている、それが人間的自由の本質であり、もって人間をすべての存在者の頂点においている。これはキリスト教また西洋思想における「悪をしない自由」としての自由把握とは正反対にある。そのような自由が人間に可能である根拠として、シェリングは神の存在様態について考える(神はここで人間の存在根拠に他ならない)。神のうちには、神の部分であって神そのものではない「神のうちの自然」があり、神自身と対立している。自らを隠し閉ざそうとする神のうちの自然は、自らを現そうとする神自身にとっての「根底」(Grund) であって、生まれ出ようとする憧憬と隠れようとする力との二つの方向性が神のうちに相争う。神は、自身のうちなるこの対立を自ら克服し、愛をもってこれを覆う。かくして神とその被造物は顕れ出る。そして被造物の頂点である人間のなかに、この目もくらむ対立は自由の可能性として再び現れてくるのである。

ここでシェリングは、彼がそれまで積極的に肯定してこなかった神の人格性を強く主張している。また、いまやシェリングにとって、必然性と自由の対立は、同一期においてそうであったように、たんに絶対者において、したがって本質においては無差別である観念的対立とはいわれていない。実在するもののうちにたしかに対立はあって、その対立を可能にする場とそのありよう、さらにはそのような対立を超えるものの可能性が、いまや問題とされてくるのである。

『自由論』は、シェリングがフリードリヒ・クリストフ・エーティンガーおよびカトリック神学者フランツ・フォン・バーダーを介して知ったヤーコプ・ベーメの思想に大きく影響されているといわれる。『自由論』の術語「神のうちの自然」「根底」「無底(底なし)」はベーメの用語法に由来する。シェリングは神秘思想には比較的好意的で、すでに同一哲学期から新プラトン主義との近親性も指摘されている(『ブルーノ』など)。また1812年の未発表の対話篇『クラーラ』では、エマヌエル・スヴェーデンボリの思想を好意的に紹介している。しかしシェリングはあくまでも神秘主義を全肯定しているのではなく、悟性的・論弁的理性主義が把握できない前理性的ないし非合理なものを神秘思想家が保持していることを評価し、しかし同時に、そのような表現自体は哲学の立場からみて限界があると考えていた。

シェリングは『世界諸世代』(未完)をはじめとする未刊行草稿の著述に努めるとともに、いくつかの講義を行っている。シュトゥットガルト私講義、エアランゲン講義などは、この時期のシェリングの体系を知る上で重要な意義をもつ。この時期、シェリングは『自由論』の思想を発展させ、神そのものの生成と自己展開の歴史としての世界叙述という壮大な構想に取り組んでいた。『世界諸世代』は世界の歴史をその原理である神の歴史として「神になる前の神」である「プリウス」(Prius) から説き起こす試みであり、過去・現在・未来の三部構成からなる予定であったが、実際に書かれたのは過去篇だけであった。過去篇の草稿は複数あることが現在知られている。いわば挫折したこの構想は、しかし後期哲学の『神話の哲学』『啓示の哲学』へとつながっていく。 

1841年に、ヘーゲルの死後空席となったベルリン大学哲学教授として招聘され、同地で『啓示の哲学』等を講じた。シェリングは保守的な思想家と考えられており、ヘーゲル主義者による急進的思想に対するいわば防壁となることをプロイセン王家は期待していたと考えられている。しかし思想界では実証科学が隆盛に向かい、ヘーゲル主義哲学が広まっていた当時のベルリンの思想界に、シェリングは実質的な影響を与えなかった。彼の『啓示の哲学』をフリードリヒ・エンゲルスセーレン・キェルケゴールが聴講していたことが知られているが、二人とも、違った観点から失望を表明している。キェルケゴールの失望に関しては、キェルケゴールが関心をもっていたのは人間の実存であるが、シェリングの関心は神の実存にのみあった、とも評される。

シェリングの後期思想は、同時代人にはほとんど理解者をもたず、ベルリンの彼の講義にはほとんど聴講者がいなかった。その後期思想が評価されるのは、ほぼ100年を待たねばならない。

テキスト

主要著作

  • 『悪の起源について』(1792年)
  • 『神話について』(1793年)
  • 『哲学の諸形式』(1794年)
  • 『自我について』(1795年)
  • 『自然哲学についての諸考案』(1797年)
  • 『世界霊について』(1797年)
  • 『超越論的観念論の体系』(1800年)
  • 『私の哲学体系の叙述』(1801年)
  • 『ブルーノ』(1802年)
  • 『芸術の哲学』(1802 - 1803年、講義)
  • 『哲学と宗教』(1804年)
  • 『全哲学、とりわけ自然哲学の体系』(1804年、遺稿)
  • 『造形芸術の自然への関係』(1807年、講演)
  • 『人間的自由の本質について』(1809年)
  • 『世界諸世代』(1811年、遺稿、他にいくつか改稿された版がある)
  • 『クラーラ』(1812年)
  • 『サモトラケの神々について』(1815年、講演)
  • 『神話の哲学』(1842年、講義)
  • 『啓示の哲学』(1854年、講義)

刊行状況

シェリングの著作中、生前に刊行されたのは、1809年の『自由論』が最後。死後に、著述の一部は息子K.A.シェリングにより編集され、コッタ書店より全集として出版された。これは生前刊行された著作と一部の講義録からなっていた。

この息子版「全集」を、20世紀半ば、シュレーターが再編集し、配列を変えた上でファクシミリ版を出版した。さらにこれに基づき一部を収録する形でシェリングの著作集がズーアカンプ文庫から出版された。

20世紀後半になり「全集」に収録されていなかった『世界諸世代』などの草稿が、単行本の形で出版された。

現在、バイエルンアカデミー監修・企画により、著作・書簡・草稿等からなる決定版全集が、長期間かけ刊行中である。本全集の出版計画から、後の刊行予定とされた重要な草稿(『ティマイオス草稿』など)は、単行本の形で出版され、また旧東独側に所蔵されていたベルリン時代の草稿の整理も、統一以降の1990年代より積極的に進んでいる。

主な日本語訳

1920年代から個別に著作が翻訳され、同一期から自由論まで著作大半の訳書がある。

網羅した全集等の出版はされていなかったが、同一期から後期を通観する下記が刊行中

  • 『シェリング著作集』全5巻・全7冊予定(京都・燈影舎)- 2006年より、2011年春に4冊目刊
    2018年9月より文屋秋栄に版元が変わり新版刊

文献情報

関連項目

外部リンク

※出典

フリードリヒ・シェリング - Wikipedia https://is.gd/UWaTYP

 

 

 

 

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6月15日(木)のTW:「平等」の強制

2017年06月16日 | 哲学一般

 

 ※20170621追記


ここで中川八洋氏の述べているように、抽象的な概念である「平等」を、それが認められる具体的で理性的な条件もわきまえずに、その限界を超えて抽象的一般的に狂信的に主張すること、つまり「悟性的な思考」によってもたらされるその破壊的な作用については警戒される必要があります。

たとえば、「親と子」「教師と生徒」「男性と女性」などの間に「絶対的平等」を主張すれば、秩序は崩壊し生命は死にます。

また「男女共同参画法」などのように、抽象的な男女平等イデオロギーに基づいて、法律的な強制によって男女の区別を無分別に解消しようとするとき、ときには男女の概念的本性を不自然に歪めて「角を矯めて牛を殺す」ようなことになりかねません。不合理な習俗文化、生活習慣などの改善は、法的な強制によるのではなく、できうるかぎり教育や啓蒙活動を通じて実現してゆくほうが弊害は少ないと思います。

もちろん「平等」概念の意義も、ただに全面的に一般的に否定されるのではなく、「平等」が正当に評価され、肯定される一定の具体的な条件を明らかにした上で認められるべきものです

要するに、「自由」や「平等」、「人権」、「平和」といった抽象的な概念についても、その意義の認められる限界を超えて、一般的に抽象的にその普遍性を狂信的に主張することによってもたらされる破壊性や害悪ついて認識する必要があります。

またたんに「平等」だけでなく、「民主主義」や「階級闘争史観」などのより複雑な抽象的概念についても同じことがいえます。「民主主義」や「階級闘争史観」などの概念、抽象的なイデオロギーを狂信して行われた政治的運動が、大衆の劣情を呼び起こして破滅を招くことになった事例は、古今東西において歴史的にも事欠きません。悟性的な政治運動ではなく、理性的な政治運動とは何か、が追求されるべきだと思います。
 

 

「平等」や「自由」「人権」などの、普遍的概念(抽象的概念)による「悟性的な思考」のもたらす問題については以下の論考などで論じています。

Allgemeine Begriffe(普遍的概念)がもたらす恐ろしい不幸

悟性的思考と理性的思考

「悟性的思考」と「理性的思考」2

10月10日(月)のTW:〔契約国家説批判〕

11月23日(日)のTW:天皇を「自然人」としてしか見れない奥平康弘氏

 

 

 

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5月2日(火)のTW:職業における義務(ヘーゲル『哲学入門』)

2017年05月03日 | 哲学一般





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8月2日(土)のTW:国家哲学の基礎としてのヘーゲル哲学

2014年08月03日 | 哲学一般

「8月1日(金)のTW:中川八洋掲示板を読んでつぶやいた、など」現代においてもなおヘーゲル哲学の意義はきわめて大きいと思います。この哲学は今もなお日本国においても国家哲学の基礎となるべきものです。 goo.gl/ym5Ivs


[exblog] 8月1日(金)のTW:中川八洋掲示板を読んでつぶやいた、など bit.ly/URhzmX


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Allgemeine Begriffe(普遍的概念)がもたらす恐ろしい不幸

2014年06月18日 | 哲学一般

 

 Allgemeine Begriffe(普遍的概念)がもたらす恐ろしい不幸

 

2014年06月18日 | ツイツター

【中川八洋掲示板 】尖閣(魚釣島)に標柱すら建立しない“鵺”安倍晋三──空母も建造しない、危険で有害な“口先だけの中共批判” - fb.me/6xDDBUAjI

 
 

村山富市さん、河野洋平さん、朝日新聞記者さんなども耳を傾けて聞いたら?後世の日本人のために。中共と朝鮮の属国になったときの日本人の運命は。【イザヤ・ベンダサン/世間知らずで無神経な「進歩的文化人」の一言が招き寄せる迫害 - goo.gl/tf9PXM

 
 

一般的な概念と大きなうぬぼれは、いつも恐ろしい不幸をひき起こす。(ゲーテ) Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten.

shuzo atiさんがリツイート | RT
 
 

この場合の 「Allgemeine Begriffe」は「抽象的思考」と訳した方が良いと思います。抽象的思考とは悟性的思考のことで、「平等」「人権」 「平和」「民主主義」「博愛」「自由」などの抽象的な概念を、時場所をわきまえず、狂信的に振り回すことによってもたらされる害悪のことです。ポルポトの例などが あります。 RT @dt_reibunshu: 一般的な概念と大きなうぬぼれは、いつも恐ろしい不幸をひき起こす。(ゲーテ) Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten. tl.gd/ndio4e

 
 

Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten.悟性的思考とひどい自惚れは、いつも見ていられない混乱を引き起す。鳩山由紀夫さんへ。ゲーテ

 
 

Allgemeine Begriffe und großer Dünkel sind immer auf dem Wege, entsetzliches Unheil anzurichten. 悟性的思考とひどい傲慢は、いつも恐ろしい災厄をもたらす。橋下徹さんへ。ゲーテ。

 

 

 

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「存在」と「概念」

2014年01月06日 | 哲学一般

 

「存在」と「概念」の関係について、先日たまたまツィートすることがありましたが、概念と存在の関係については、重要なテーマでもあると思いますので、『小論理学』の中から、参考となる個所を引用しておきました。興味と関心のある方もどうぞ。

小論理学§51


その現存在がその概念と異なっているということが、しかもただこのことのみが、実際にあらゆる有限なものの本質なのである。これに反して神は明らかに「存在するものとしてのみ考えられるもの」でなければならず、神においては概念が存在をそのもののうちに含んでいる。

概 念と存在との統一こそ、神の概念を構成する。――このような規定はもちろんまだ神の形式的な規定にすぎず、したがって概念そのものの本性を言い表している にすぎない。しかし、概念が、まったく抽象的な意味においてもすでに、その内に存在を含んでいるということは極めて明らかである。

なぜな ら、概念は、その他どう規定されるにせよ、少なくとも媒介の揚棄によって生じるところの、したがってそれ自身直接的な、自己関係であるが、存在とはまさに こうした自己関係であるからである。――精神のもっとも内奥のものである概念が、存在というような貧しい規定、否、もっとも貧しい、 もっとも抽象的な規定すらその内に含まないほど貧しいとしたら、それは全く不思議と言わなければならない。(このことは自我についても言えるし、まして神 のような具体的な統体についてはなおさら言えることである。)思想にとっては、内容から言えば、存在という概念ほど貧弱なものはない。

もっとも、もっと貧しいものがあるにはある。それは、存在と言うときまず思いうかべられるもの、すなわち私の目の前にある紙のような外的な感覚的存在である。しかし、有限で消滅しうる事物の感覚的存在というようなものを、この場合問題にしようという人はあるまい。

――― とにかく、思想と存在とは別なものだというようなつまらぬ批判は、人間の精神が神の思想から出発して神が存在するという確信に到達する道を妨げることはで きるかもしれないが、それを奪い去ることはできないのである。直接知あるいは信仰の見地は、この移行、すなわち神の思考とその存在との不可分を回復したも のであるが、それについては後に述べることにする。

岩波文庫版『小論理学§51』( s 197 )

 

 

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wissenschaftlich をどのように訳すべきか―――ひとつの試案

2012年11月07日 | 哲学一般



wissenschaftlich をどのように訳すべきか。このテーマで考えてみたい。手元にある三修社の現代独和辞典では、wissenschaft は①学問、科学、②知識、学識 などの訳語が挙げられ, wissenshaftlich では学問の、科学の、学術の、などと訳されている。

wissen は①知識、学識、心得などの訳語が当てられている。-schaft と schaffenが語源的にどう関係しているのか、浅学にして不明だが、schaffen には①造り出す、創作する、②仕事する、成し遂げる、などの意味があるらしい。


とすれば、 wissenschaft  の意は「知識が創り出したもの」と解してよいのかもしれない。単に wissenschaft を学問、知識、科学などと訳すだけでは、もとの原語の語源的な意味は捉えられない。


-lich は形容語尾で使われる。 wissentlich は、知っていながら、意識しながら、さらに、故意に、などの訳語が当てれているのに対し、wissenschaftlich は、学問の、科学の、学術のなどと訳されている。

この語はとくに歴史的には、マルクスが der wissenschaftliche Sozialismus として、従来の Sozialismus 社会主義 に wissenschaftlich を形容詞に付すことによって、この語に彼自身の思想の独自性を含ませて「科学的社会主義」として主張したことで知られている。しかし言うまでもなく、この wissenschaftlich こそ、それ以前にヘーゲルが自身の哲学の特色として打ち出したものであった。

従来のPhilosophie(哲学)を、単に「愛智」というレベルではなく、wissenschaftlich の段階にまで高めたことがヘーゲルの功績であることは周知のことである。このwissenschaftlichは、だから、単に学問とか学術とか科学と 訳出するだけでは、その真意は出てこない。なぜなら、ヘーゲルの wissenschaftlich の性格は、その「知識が創り出したもの」が、論理必然性を概念的に証明するものであること、さらに体系的必然性と完結性を持つものであることである。しかし、現代の日本語でいう「科学」には、必ずしもヘーゲル由来のそういった意味は含意されてはいない。


とすれば、 wissenschaftlich の訳語として、ヘーゲル哲学用語法を踏まえて、これに「哲学的」という訳語を、科学的、学問的、学的、などと並んで、加えるべきではなかろうか。もちろん、多 くの人々は、伝統的にも 「哲学」という用語に、概念的論理必然性や体系的完結性という理解を含めるようなことはなかっただろう。

しかし、たといそうであるとしても、これからの日本の哲学史の伝統の形成において、日本語の「哲学的」という用語に、ヘーゲルの wissenschaftlich の用語法の原意を含めて使用してゆくべきだと思う。

これまでのヘーゲルの作品の著作において、これまで実際にどのように訳されてきたかというと、それは「学的」「科学的」「学問的」などと訳されてきた。確かに、これらに加えてさらに、wissenshaftlich に「哲学的」という訳語を加えるとするならば、従来の philosophische の訳語として確立している「哲学的」との区別をどうしてゆくかという問題が出てくるかもしれない。一つの提案としては、 philosophische の訳語としては、愛智学的、智学的などの訳語を当てればどうだろうか。

それともあるいは、「科学的」という語に、ヘーゲルの wissenschaftlich の原意を込めて使用してゆくという道もあるかもしれない。ただ、個人的な感想としては、これからの日本の哲学史の試みとしても、wissenschaftlich の訳語として、「哲学的」の語を使ってゆきたいと思う。

 そうして一方では、philosophie、philosophisch の訳語としては、愛智学、智学、愛智学的、智学的などの用語を使うようにしたいと思う。Wissenschaft、 wissenschaftlich の訳語としては、「哲学」、「哲学的」の語を当てたい。

 それほどにヘーゲル以降と以前 では「哲学」の根本性格が変わったのであるから、彼以降の wissenschaftlich の性格を受け継いでいる philosophie  のみに、名誉ある「哲学」の訳語を当て、それ以前の、あるいはヘーゲル以降の哲学であっても、本質的 に wissenschaftlich な性格を受け継がない単なる philosophie については「智学」とか「愛智学」と呼ぶようにすればいいので はないか。とにかく、ヘーゲル以降において philosophie  は根本的に性格が異なって、真の philosophie として従来のそれとは質を異にしたも のとなっているからである。

いずれにしても、wissenschaftlich を単に機械的に、「学問の、科学の、学術の、学的」などと訳して済ませている教授には、このような問題意識はないに違いない。

マ ルクスの der wissenschaftliche Sozialismus を 「科学的社会主義」 などと訳してきた共産党なども、もし、「哲学的社会主義」 とでも訳していたならもう少しまともな国際 運動になったかもしれない。いやむしろ、「哲学」という高貴な語を、彼らによって貶められることがなかったことこそ、幸いだったとすべきか。

 

 

 

 

 

 

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「悟性的思考」と「理性的思考」2

2012年06月20日 | 哲学一般
「悟性的思考」と「理性的思考」2

 

 インターネットのブログやサイトの記事や論文を読んでいて、最近とくに感じること考えることは、「悟性的思考」と「理性的思考」の相違ということだろうか。もっとも、それらがどう違うのか、また、そもそも悟性的な思考と理性的な思考とはどのようなものなのか、といった問題意識をもつ人自体が、ほとんどいないのが現状だと思うけれども、いずれにしても、思考の本質におけるこの両者の違いが、決定的に重要だ、ということを感じるようになった。

とくに、高名な学者、ジャーナリストや大学教授などにおいても、私の立場からすれば、その論考において「悟性的な思考」しか出来ていないな、という感想を持つ場合が少なくない。そして最近になって、とくに、そこでいわゆる「悟性的な思考」の破壊的な、否定的な働き、その現実的な作用を自覚するにつけて、ますます、この「悟性的な思考」の限界を、否定的な作用を人々に知らしめる必要を痛感するようになっている。また、ヘーゲルが自身の生涯を「悟性に対する理性の戦い」と表現せざるを得なかったことも、およそのところを推測できるようになったと思う。

もちろん、私自身も今のところ、悟性と理性の違いについて、明確に定式化できているわけではないし、また、「悟性的思考と理性的思考の相違」については、哲学上の根本テーマだと考えていても、まだ、この問題を完全に解決しているのでも自覚しているわけでもない。

ただ、およその輪郭だけここで述べれば、「悟性は分析し、理性は綜合する」ということだろうか。もう少しわかりやすくたとえて言えば、磁石を例にとって考えるならば、磁石には陽極(+)と陰極(-)がある。また、人間や動物などの生命体には生と死がある。しかし、現実においては、陽極(+)と陰極(-)との間、生と死の間には明確な境界はない。ところが、一方では私たちの認識においては、確かに生と死、+と-の差異は歴然としている。

そこで悟性的な思考は、矛盾し両立しないものとしてそれらの二者を分断――これは判断することでもあるけれども――することによって「生ける現実を殺してしまい、破壊してしまう」のである。いわゆる自称「革命家」や狂信的宗教信者の多くは、なぜ、彼らがそうした思想や認識を持つに至るのか、ということを問題として考えるようになって、おそらく、――まだ、はっきりと論証できているわけではないが――今では、彼らが「悟性的な思考」しかできないからではないか、という推理をするようになっている。

いわゆる革命と保守の立場の違いといったことも、おそらくこうした問題との関連などでさらに深化させて論じる必要があると思うが、哲学者ヘーゲルなども、彼の生きた時代に経験したフランス革命末期のロベスピエールたちが辿った政治的な顛末などを目撃して、そうした破滅的な事態を招いたことに、啓蒙哲学の特質である「悟性的な思考」の論理的な帰結を認めたのではないだろうか。

大阪市長に当選した橋下徹市長やそのブレインでもあるらしい大前研一氏らの思考にも「悟性的な思考」の片鱗と特徴がさまざまに見られるように思う。もちろん、橋下 徹氏や大前研一氏らの思想や政治的な活動を高く評価はしているのだけれども、どうしてもその反面において彼らの「悟性的な思考」の限界も「感じている」のが現状だ、というべきだろうか。いずれにしても歴史や「概念としての大衆」は、理性的に事柄の必然性にしたがって動いてゆくのだろうけれども。大げさかもしれないが、こうしたテーマについて、さらなる「国民的な自覚と議論」を期待したい。

 

悟性的思考と理性的思考(1)

http://anowl.exblog.jp/890902/  

 

 

コメント (1)
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