夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十六〔責任能力について〕

2019年12月26日 | ヘーゲル『哲学入門』

§16

Einem Menschen die Schuld einer Handlung beimessen, heißt sie ihm imputieren oder zurechnen. Kindern, die noch im Stande der Natur sind, kann man noch keine Handlung imputieren; sie sind noch nicht imputationsfähig; eben so auch Verrückte oder Blödsinnige.

(※1)

十六〔責任能力について〕

一人の人間に行為の責任を担わせるということは、彼に責任を課すこと、あるいは、彼に責任を帰することである。いまだ自然の状態にある子供には、どのような行為(の責任)も帰することができない。子供にはいまだ責任能力はない。そのことは、狂人や白痴についても全く同じである。

(※1)

ある人間の行為についてその責任が問われ、その責任を帰して、その償いを求めることができるのは、前節§15で明らかにされたように、「意志の自由」を能力としてもつ、普通の正常の精神的能力をもつ成人した人間のみである。人間は「意志の自由」にもとづいて行為の選択を、とくに善悪の選択を行うからである。意識の自己内分裂をした成人した人間のみがこの「意志の自由」をもつ。したがって、子供や動物、また身体的に正常の精神的能力をもたない狂人や白痴はその行為の責任を問われない。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十五〔環境と意志の自由〕

2019年12月23日 | ヘーゲル『哲学入門』

§15

Man drückt sich wohl so aus: mein Wille ist von diesen Beweg­gründen, Umständen, Reizungen und Antrieben bestimmt worden. Dieser Ausdruck enthält zunächst, dass ich mich dabei passiv verhalten habe. In Wahrheit aber habe ich mich nicht nur passiv, sondern auch wesentlich aktiv dabei verhalten, darin nämlich, dass mein Wille diese Umstände als Beweggründe auf­genommen hat, sie als Beweggründe gelten lässt.

十五〔環境と意志の自由〕

確かに人は次のように言うかもしれない。私の意志は これらの動機環境、刺激と衝動によって規定されていると。これらの表現は、そこではさしあたって、私は受動的にふるまっているということを含んでいる。しかし、真実には私は単に受動的にふるまっているのではなく、むしろ、またそこでは本質的に能動的にすらふるまっている。すなわちそこでは、私の意志は、これらの環境を動機として受け入れたということ、それらを動機として認めているということである。

 Das Kausalitätsverhältnis findet hierbei nicht statt. Die Umstände verhal­ten sich nicht als Ursachen und mein Wille nicht als Wirkung derselben. Nach diesem Verhältnis muss, was in der Ursache liegt, notwendig erfolgen. Als Reflexion aber kann ich über jede Bestimmung hinausgehen, welche durch die Umstände ge­setzt ist.

ここでは因果関係は成り立たない。環境は原因として働くのでなければ、また私の意志は環境の結果として存在するのでもない。これらの関係からすれば、原因のうちにあるものは、必ず発生しなければならない。しかし、私は反省することによって、環境によって規定された全ての決定を超越することができる。

Insofern der Mensch sich darauf beruft, dass er durch Umstände, Reizungen u. s. f. verführt worden sei, so will er damit die Handlung gleichsam von sich wegschieben, setzt sich aber damit nur zu einem unfreien oder Naturwesen herab, wäh­rend seine Handlung in Wahrheit immer seine eigene, nicht die eines Anderen oder nicht die Wirkung von etwas außer ihm ist. Die Umstände oder Beweggründe haben nur so viel Herrschaft über den Menschen, als er selbst ihnen einräumt.

人間はその環境や、刺激などによって行動が決まると主張して、言ってみれば、自分の行為の結果を自身からずらかして、責任転嫁しようとするなら、しかしそれによって彼は自分を不自由な、あるいは自然な(動物的な)存在に引き下げているだけである。彼の行動は実際に常に彼自身のものであり、他人の行動でもなければ、また、自身以外の何かによる作用でもない。状況や動機はただ、彼自身がそれらを容認するかぎりにおいて、人間に対する支配権をもつだけである。

Die Bestimmungen des niederen Begehrungsvermögens sind Naturbestimmungen. Insofern scheint es weder nötig noch möglich zu sein, dass der Mensch sie zu den seinigen mache. Allein eben als Naturbestimmungen gehören sie noch nicht sei­nem Willen oder seiner Freiheit an, denn das Wesen seines Wil­lens ist, dass nichts in ihm sei, was er nicht selbst zu dem Seini­gen gemacht habe. Er vermag also das, was zu seiner Natur gehört, als etwas Fremdes zu betrachten, so dass es mithin nur in ihm ist, ihm nur angehört, insofern er es zum Seinigen macht oder mit Entschluss seinen Naturtrieben folgt.(※1)

低い欲求能力の規定は、自然の規定である。それゆえに、人間がそれらを自身のものにすることは必然でもあり、可能であるように思われる。しかし、まさに自然規定として低い欲求能力の規定は、人間の意志に属するものでもなければ、彼の自由に属するものでもない。なぜなら、人間の意志の本質は、人間が彼自身のものとして作らなかったものは何一つそのうちにはないということだからである。したがって、人間は彼の自然に属するものを、異質のものとして見なすことができる。その結果として、それゆえただ、人間がそれを(異質のものを)自分のものにするか、あるいは決意をもって自身の自然の衝動に従う限り、ただ彼のうちにあって、彼にのみ属する。

(※1)

ここで問題にされているのは、人間の外部にある「環境」「刺激」「衝動」などによって人間の内部に引き起こされる「食欲」や「性欲」「本能」などの「自然の規定Naturbestimmungen」、「低い欲求能力 die  niederen Begehrungsvermögen」と「意志の自由」との関係についてである。

「意志の自由」は、「私(自我)の無規定性」に由来するが、この「私の意志」は、「環境」「刺激」「衝動」などによって人間の外部から規定されることによって、人間の内部に引き起こされるものであり、したがって、そこでは私は受動的にふるまい、行動しているのであって、そこには「意志の自由」はない、という往々にして主張される見解に対してヘーゲルは反論している。

ここでのヘーゲルの主張の核心は、要するに「意志の自由」を本質とする人間においては、その間には因果関係は成立しないということである。人間は「反省」することによって、外部の環境からは直接に規定されることなくそれらを克服しており、環境、自然などは人間にとって「異質なもの」であって、人間の意志に属するものではなく、それらからは自由な存在である、ということである。

「人間の意志」は「反省」を介して「自然」と関係するがゆえに、その間には必然的な関係がなく、そこに「意志の自由」が成立する。(人間の尊厳もここに由来する。)
したがって、人間の場合は、衝動や本能や環境や刺激にしたがって行動する場合にも、単に受動的にふるまっているのではなく、そこには人間の意志による受容、承認が働いている。

自然の衝動に支配されるのは、不自由であり、環境に支配される動物的な存在へと人間を引き下げることである。人間の生育環境と犯罪行為との関係や、キリスト教の教義などとの関連においても検証される必要がある。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十四〔意志の自由について〕

2019年12月09日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

§14

Die Freiheit des Willens ist die Freiheit im Allgemeinen und alle andern Freiheiten sind bloß Arten davon. Wenn man sagt: Freiheit des Willens, so ist nicht gemeint, als ob es außer dem Willen noch eine Kraft, Eigenschaft, Vermögen gäbe, das auch Freiheit hätte. Gerade wie, wenn man von der Allmacht Gottes spricht, man dabei nicht versteht, als ob es dabei noch andere Wesen gäbe außer ihm, die Allmacht hätten.

十四〔意志の自由について〕

意志の自由は普遍的な自由である。(※1)そして、全てのその他の自由は、自由の単なる特殊な種類に過ぎない。人が意志の自由について言うとき、そこでは、あたかも意志を離れてなおやはり自由をもつ権力とか財産とか資産とかがあるかのようには考えられてはいない。それはまさにちょうど、人が神の全能について語るときのように、そこでは人は全能の神の他になお他に全能の存在があるとは考えないのと同じである

Es gibt also bür­gerliche Freiheit, Pressfreiheit, politische, religiöse Freiheit. Diese Arten von Freiheit sind der allgemeine Freiheitsbegriff, inso­fern er angewandt ist auf besondere Verhältnisse oder Gegen­stände. Die Religionsfreiheit besteht darin, dass religiöse Vor­stellungen, religiöse Handlungen, mir nicht aufgedrungen wer­den, d. h. nur solche Bestimmungen in ihr sind, die ich als die meinigen anerkenne, sie zu den meinigen mache.

このように、市民の自由、報道の自由や、政治的な、宗教的な自由がある。これらの種類の自由は、特殊な関係か特殊な対象に適用されたかぎりの、普遍的な自由の概念である。宗教的な自由とは、宗教的な考えや、宗教的な行為が私に強制されないことにある。すなわち、ただ、それら(宗教的な考えや行為)のうちにあるこうした規定を、私自身のものとして私が認め、それらを私自身のものとして作ることに。

Eine Religion, die mir aufgedrungen wird oder in Rücksicht welcher ich mich nicht als freies Wesen verhalte, ist nicht die meinige, sondern bleibt immer eine fremde(※2) für mich. — Die politische Freiheit eines Volkes bestellt darin, einen eigenen Staat auszumachen und, was als allgemeiner Nationalwille gilt, entweder durch das ganze Volk selbst zu entscheiden oder durch solche, die dem Volk angehören und die es, indem jeder andere Bürger mit ihnen gleiche Rechte hat, als die Seinigen anerkennen kann.(※3)(※4)

私に押し付けられた宗教、あるいは、私が自由な人間として振る舞うことを認めないような宗教は、私のものではなく、むしろ、私にとって、いつもよそよそしいもの(※2)でありつづける。⎯⎯   国民の政治的な自由は、国民が国民自身のための国家を作り出すことのうちにある。そして、普遍的な国家意志として何が妥当であるかを、全国民自身を通して、あるいは、国民に属している彼らと同じ権利をもっている他の全ての市民(代議員)を通して、彼ら自身のものとして認めることのできるように、決定することにある。 

 

(※1)
概念の要素(契機、Moment)は、普遍、特殊、個別であるが、それらは悟性的にそれぞれ切り離されて存在するのではなく、普遍→特殊→個別と連結されて、推理されるべきものである。このことはヘーゲルの概念観の基本であるが、悟性的思考にはそれが理解できない。
「自由」の概念についても、普遍、特殊、個別のそれぞれのモメントで考察される。市民の自由、報道の自由、宗教の自由、政治的な自由などは、それぞれ特殊な次元における自由である。


(※2) fremd よそよそしい、他人の、異郷の、縁遠い
英語の「 foreign 」に最も語意が近いのではないか。このヘーゲルの fremd の概念は、日本語でも「疎外された」と訳され、「疎外の克服」が現代哲学の大きなテーマとして、マルクス主義や実存主義にも大きな影響を与えている。

(※3)
ここでヘーゲルは明らかにルソーを念頭において書いている。ルソーの思想がアウフヘーベンされている。「自由」が「民主主義」と結びつく必然性もここにある。しかし同時に、ルソーや啓蒙思想家、革命家たちの悟性的思考は、これらの概念の限界をわきまえないから、「自由」や「民主主義」といった抽象的な概念を狂信的に破壊的に主張することになる。

(※4)
§14の「意志の自由」についての考察が、前節§13の「私(自我)の無規定性」の考察の必然的な発展として、もしくはその帰結として展開されている。先行する「私の無規定性」が「意志の自由」の根拠である。ヘーゲル哲学においては、このように、各節の概念は先行する概念を根拠として、その必然的な帰結として演繹されて以降の概念が導出される。こうして事柄は「概念的に把握」され、その論証によって哲学を「科学」へと高めた。これがヘーゲル哲学独自の功績である。したがってヘーゲルの読解においては各節の必然的な論理展開を確認して、その概念の内在的な進展に注目する必要がある。

 

 

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