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夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十節[定在]

2025年07月19日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第十節[定在]


B. Dasein

B 定在

§ 10

Das Dasein ist gewordenes, bestimmtes Sein, ein Sein, das zu­gleich Beziehung auf Anderes,  also auf sein Nichtsein hat .(※1)

第十節

定在(そこにあるもの)とは、生成を経て、規定性を帯びた存在である。それは同時に、他者との関係性をもつとともに、すなわち自らの非存在(自らが存在しなくなること)との関係性をももった存在である。

※1

①【生成を経て規定された存在】

例えば、一人の「人間」は、ただ単に「存在(Sein)」しているだけではない。誕生というプロセスを経て存在し、成長や経験を通じて具体的な規定性を帯びていく。生まれた瞬間には無規定な可能性に満ちているが、成長するにつれて個性や性格、社会的役割などの「規定性」を獲得していく。例えば、「教師」「医師」「父親」「娘」「日本人」など具体的な規定性が現れる。

②【他者との関係性における存在】

人間の存在は常に他者との関係性の中で規定される。ある人が「教師」であることは、生徒との関係によって規定されるし、また、誰かが「友人」であることは、自分とその人との相互関係によって成り立つ。
このように、人間は単独で規定されるのではなく、家族、職場、社会、文化などの「他者」との関係の網の中でのみ意味を持つ。

 ③【自らの非存在との関係性(自己否定・限界性の認識)】

また、人間の存在は同時に、その存在の限界、つまり死や消滅(非存在という否定性を自らの内に抱えている。自分が生きていることを自覚するということは、同時にいつか必ず死ぬことを意識することでもある。
 例えば、重い病気にかかったとき、人間は自分の存在(定在)と同時にその非在(死、消滅)の可能性を強烈に感じる。このとき、「定在が自己の非存在との関係性を持つ」という哲学的概念が現実的に理解される。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成]

2025年06月17日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在 第一部 質 第九節[存在、無、生成]

A. Sein, Nichts, Werden
A.存在、無、生成

§9
Das Sein(※1) ist die einfache inhaltslose Unmittelbarkeit, die ihren Gegensatz an dem reinen Nichts(※2) hat, und deren Vereinung das Werden(※3) ist: als Übergehen von Nichts in Sein das Entstehen, umgekehrt das Vergehen.
(Der gesunde Menschenverstand(※4), die einseitige Abstraktion sich oft selbst nennt, leugnet die Vereinung von Sein und Nichts. Entweder ist das Sein oder es ist nicht. Es  gibt  kein Drittes. Was ist, fängt nicht an. Was nicht ist, auch nicht. Er behauptet daher die Unmöglichkeit des Anfangs .)

第九節
存在 とは、単純で内容をもたない直接性であり、それは純粋な無を対立物としてもち、そして存在と無との合一が生成 である。無から存在への移行が発生(Entstehen)であり、その逆が消滅(Vergehen)である。
(いわゆる「健全な常識」は、それ自体が一面的な抽象化をしばしば行うように、存在と無の合一を否定する。「存在している」か「存在していない」かのいずれかであって、「第三のもの」はない 。「存在するもの」には始まりはなく、「存在しないもの」も始まりはない。したがって、常識は「始まり」は不可能であると主張する。)

 

※1
「存在(Sein)」はもっとも抽象的な思考のはじまりである。

※2
はじめの「存在」はあまりに空疎であるため、「無」と区別がつかない。

※3
抽象的な「存在」と「無」という静止的な概念は初めから「動き」をはらんでおり、その移行、運動による合一から「生成」という概念が成立する。「生成」は存在と無という対立する二者をそのうち含む。思考の弁証法的な運動がここからはじまる。無から存在への過程は発生であり、存在から無への過程は消滅である。これら「存在」「無」「生成」の三つの契機は、思考の弁証法的な運動の基本形でもある。ここから論理学が始まる。

※4
「いわゆる健全なる人間の理解」(常識)は、「存在」と「無」を絶対的に分けて、「あるかないか」「白か黒か」的にしか考えられない。これはのちに「悟性的思考」として、その限界が指摘される。
弁証法的な思考は動的に捉える。これは「アナログ」と「デジタル」との関係と同じで、たとえば磁石の陽極と陰極のように、常識、悟性は、両者を分断してとらえるが、実際には陽極と陰極との間には明確な境界はない。ヘーゲルはいわゆる「常識」をここで皮肉っている。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在  第一部 質  第八節[質]

2025年06月16日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在  第一部 質  第八節[質]

Erster Teil. Das Sein.  
第一篇  存在

Erster Abschnitt Qualität  
第一部  質

§8  
Die Qualität (※1)ist die unmittelbare Bestimmtheit(※2), deren Verän­derung (※3)das Übergehen(※4) in ein Entgegengesetztes ist.

第八節  
質は直接的な規定性であり、その変化は対立物への移行である。  
  

  
※1  
質(Qualität)とは、「あるものが何であるか」ということ。  

※2 
質は「直接的な規定性(unmittelbare Bestimmtheit)」と定義される。つまり、媒介されておらず、存在に直に結び付いており、その質が失われればその存在そのものが消滅する。

※3  
質の変化(Verän­derung)とは、あるものが、対立する他のものへと変化することである。たとえば、生から死ヘ、歓びから悲しみへ。また、水は、0℃以下で氷に変化する。 

※4 
Übergehen(転化・移行)は、存在するものが、自己を否定することによって他者へと変化する動きのこと。「存在」するものは、有限であるゆえに否定性を含み、その限界を超えると自己を否定して「他なるもの」「対立物へ(in ein Entgegengesetztes)」と転化する。

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在  第一部 質  第八節[質]

2025年06月16日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 第一篇 存在  第一部 質  第八節[質]

Erster Teil. Das Sein.  
第一篇  存在

Erster Abschnitt Qualität  
第一部  質

§8  
Die Qualität (※1)ist die unmittelbare Bestimmtheit(※2), deren Verän­derung (※3)das Übergehen(※4) in ein Entgegengesetztes ist.

第八節  
質は直接的な規定性であり、その変化は対立物への移行である。  
  

  
※1  
質(Qualität)とは、「あるものが何であるか」ということ。  

※2 
質は「直接的な規定性(unmittelbare Bestimmtheit)」と定義される。つまり、媒介されておらず、存在に直に結び付いており、その質が失われればその存在そのものが消滅する。

※3  
質の変化(Verän­derung)とは、あるものが、対立する他のものへと変化することである。たとえば、生から死ヘ、歓びから悲しみへ。また、水は、0℃以下で氷に変化する。 

※4 
Übergehen(転化・移行)は、存在するものが、自己を否定することによって他者へと変化する動きのこと。「存在」するものは、有限であるゆえに否定性を含み、その限界を超えると自己を否定して「他なるもの」「対立物へ(in ein Entgegengesetztes)」と転化する。

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇 論理学 第七節 [論理学と真理]

2025年06月11日 | ヘーゲル『哲学入門』



ヘーゲル『哲学入門』 第二篇 論理学 第七節 [論理学と真理]  

§7

Die Wissenschaft setzt voraus, dass die Trennung seiner selbst und der Wahrheit bereits aufgehoben ist oder der Geist nicht mehr, wie er in der Lehre vom Bewusstsein betrachtet wird, der Erscheinung angehört. (※1)

第七節 [論理学と真理]

科学としての論理学は、自己自身と真理との分離がすでに止揚されていること、すなわち精神がもはや『意識の学(精神現象学)』において考察されるような仕方で〈現象〉に属していないことを前提としている。

Die Gewissheit seiner selbst umfasst Alles, was dem Bewusstsein Gegenstand ist, es sei äußerliches Ding oder auch aus dem Geist hervorgebrachter Gedanke, inso­fern es nicht alle Momente des An- und Fürsichseins in sich enthält: (※2)

自己自身の確信(自己のうちにある確実性)は、意識にとってのすべての対象を、すなわち外的な事物であれ、精神から生み出された思考であれ――を含んでいる。ただし、それが〈それ自体であること〉(Ansichsein)と〈それ自身にとってあること〉(Fürsichsein)のすべての契機を内に含んでいる限りにおいて、である。

an sich  zu sein oder einfache Gleichheit mit sich selbst;  Dasein   oder Bestimmtheit zu haben. Sein für Anderes; und   für sich sein,  in dem Anderssein einfach in sich zurückgekehrt und bei sich zu sein. (※3)
Die Wissenschaft  sucht   nicht die Wahrheit, son­dern  ist   in der Wahrheit und die Wahrheit selbst.(※4)

すなわち、「それ自体である」とは、自己と単純に一致していること、「現存在」や「規定性」をもっていること、「他なるものに対して存在していること」、そして「それ自身にとって存在すること」――これは、他なるもののなかにあっても、それが単純に自己へと立ち返り、自己のもとにあることである。
論理学は真理を 探し求める のではない。論理学は真理のなかにあり、それ自体が真理なのである。




※1
「論理学(Wissenschaft)」とは、ヘーゲル哲学においては体系的な自己展開を行う思考のことである。「Trennung(分離)」は、以前の段階(『精神現象学』)で「意識=主体」と「真理=対象」との対立構造にあったものが、それが「aufgehoben(止揚された)」ことによって、両者が弁証法的に克服されて、精神が自己自身のうちに真理をもつ段階に入ったことを意味する。
「現象(Erscheinung)」に属さない、ということは、現象界の背後にある理念的・概念的な真理の場に到達しているということ。

※2
〈それ自体であること〉(Ansichsein)とは、あるものが、それ自身であり、内在的に規定されている状態で、他者との関係性を持たない「存在そのもの」、客観的存在。
〈それ自身にとってあること〉(Fürsichsein)とは、主体が、自分を他者から区別して、自己を自己として意識している状態であり、自己意識や主体性、自律性を意味している。
Gewissheit seiner selbst(自己確信)とは、『精神現象学』でいう「自己意識(Selbstbewusstsein)」のことで、自己を「知っている」という主観的な確信・信念であり、そこにはあらゆる対象が含まれているが、それだけでは不十分であり、ここで主観と客観が統合されて「真に自己である存在(an und für sich)」であるときにはじめて「真理」となる。

※3
単なる「存在」ではなく、「他なるものとの関係性」を経て、「自分自身に戻ること(=自己同一の再獲得)」という理念の構造が予告的に述べられている。「客観(an sich)」→「主観(für sich)」→「統合・絶対(an und für sich)」というヘーゲル弁証法の三段階の構造が端的に説明されている。これは「理念(Idee)」のダイナミズムでもある。

※4
ヘーゲルはここで「思考(主観)と存在(客観)の一致」をあきらかにし、論理学とは真理の展開に他ならないという。カント以前の哲学では、真理は「対象を発見する」ものであったが、ヘーゲルにおいては、真理とは概念(Begriff)そのものの自己運動である。この前提の上に、その論理は、存在論ー→本質論ー→概念論ー→理念論 へと展開していく。


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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2]

2025年05月15日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2]

Erläuterung.

説明:

Die Logik enthält das System des reinen Denkens. (※5)
Das  Sein  ist  1) das unmittelbare; 2) das innerliche; die Denk­bestimmungen gehen wieder in sich zurück. (※6)Die Gegenstände der gewöhnlichen Metaphysik sind das Ding, die Welt, der Geist und Gott, wodurch die verschiedenen metaphysischen Wis­senschaften, Ontologie, Kosmologie, Pneumatologie und Theo­logie entstehen.(※7)

論理学は純粋な思考の体系をふくんでいる。「存在」とは(1)直接的なものであり、(2)内的なものである。;ここで思考の規定はふたたび自己の内へと戻ってくる。伝統的な形而上学の対象は物であり、世界であり、精神、および神であって、そこから存在論、宇宙論、精神論、神学といった形而上学のさまざま分野が生じてくる。

3. Was der  Begriff  darstellt, ist ein  Seiendes,  aber auch ein  We­sentliches.  Das Sein verhält sich als das unmittelbare zum We­sen als dem mittelbaren. Die Dinge sind überhaupt, allein ihr Sein besteht darin, ihr Wesen zu zeigen. Das Sein macht sich zum Wesen, was man auch so ausdrücken kann: das Sein setzt das Wesen voraus. (※8)

概念 が示すものは、存在するもの( Seiendes )であり、同時に本質的なもの( Wesentliches )でもある。存在は、間接的なものである本質に対して、それ自体は直接的なものである。物は一般に存在するものであるが、ただ、その存在によって自らの本質を示すものである。存在は自らを本質へと高めるが、また同じく、存在は本質を前提としているということもできる。

Aber wenn auch das Wesen in Verhältnis zum Sein als das vermittelte erscheint, so ist doch das Wesen das ursprüngliche.  Das Sein geht in ihm in seinen Grund zu­rück; das Sein hebt sich in dem Wesen auf.(※9)

しかし、たとえ本質が存在との関係において媒介されたものとして現れるとしても、本質こそがやはり根源的なもの である。存在はその本質においてその根拠に回帰する。存在は本質において自己を止揚するのである。

Sein Wesen ist auf diese Weise ein gewordenes oder hervorgebrachtes, aber viel­mehr, was als Gewordenes erscheint, ist auch das Ursprüng­liche. Das Vergängliche hat das Wesen zu seiner Grundlage und wird aus demselben.(※10)

このようにして、その本質は生成されるものであり、また生み出されるものでもあるが、しかしそれ以上に、生成されたものとして現れる本質もまた根源的なものである。移り行くものは、本質をその基礎にもち、それから生じる。

Wir machen Begriffe. Diese sind etwas von uns  Gesetztes,  aber der Begriff enthält auch die Sache an und für sich selbst. In Verhältnis zu ihm ist das Wesen wieder das gesetzte, aber das Gesetzte verhält sich doch als wahr. (※11)

私たちは概念を作る。この概念は私たちによって「定立されたもの」であるが、しかし、また概念はもともと事物それ自体をも含んでいる。その概念に対して、本質はあらためて定立されたものであるが、しかし、定立されたものは、それでもなお真理である。

Der  Begriff  ist teils der  subjektive,  teils der  objektive.  Die  Idee  ist die Vereinigung von Subjektivem und Objektivem. Wenn wir sagen, es ist ein bloßer Begriff, so vermissen wir darin die Realität. Die bloße Objekti­vität hingegen ist ein Begriffloses. Die Idee aber gibt an, wie die Realität durch den Begriff bestimmt ist. Alles Wirkliche ist eine Idee.(※12)

概念 は一面においては 主観的 であり、一面においては 客観的 である。 理念 とは主観的なものと客観的なものの統一である。 もし私たちが、それは単なる概念にすぎない、と言うときには、そこには現実性が欠けていることを示している。それに対して、単なる客観性は概念を欠いている。しかし理念は、現実が概念によってどのように規定されるかを示すものである。すべての現実的なものは理念である。

 

※5
Die Logik enthält das System des reinen Denkens.
論理学は純粋な思考の体系をふくんでいる。

ヘーゲルにおける「論理学(Logik)」は、通常の形式論理学とは異なって、存在そのものの根底にある「純粋思考(das reine Denken)」を、すなわち、「思考の概念的運動」そのものを問題にしている。「純粋」というのは、思考そのものの内在的な自己展開には、経験的な、感性的な要素は関わらないからである。
ヘーゲルの全哲学体系はこの「論理学」に始まり、それは「概念の自己運動としての実在」が、つまり「理念(Idee)」への発展過程として示されている。
たとえば「存在」→「本質」→「概念」と進む弁証法的展開は、現実世界のすべてを根底で支える論理的な構造であって、それが「純粋思考の体系」として捉えられている。

※6
Das Sein ist 1) das unmittelbare; 2) das innerliche; die Denkbestimmungen gehen wieder in sich zurück.
存在とは(1)直接的なものであり、(2)内的なものである。思考の規定は再び自己の内に戻ってくる。

ここでは「存在(Sein)」のもつ二重の性格が述べられる。
まず、unmittelbar(直接的な)というのは、何の媒介もなく、ただそこに「ある」ものとしての存在であり、それはもっとも抽象的な起点であり、感覚的な「ある」である。
innerlich(内的な)というのは、この存在が、たんに外部に感覚的に現れるだけでなく、思考によって反省(反射)的に捉えられたときには、内面性をもつものとして、存在はその内に折り返して、自己反省して、本質(Wesen)を洞察する。

思考の運動としては、「思考の規定(Denkbestimmungen)」がただ他者を規定するだけではなく、自らに戻ってくる(内面化する)という動きである。思考は、存在のたんなる外面を超えて、存在するものの中へと進んでいく。これは「自己への反射(Reflexion in sich selbst)」でもあり、ここから本質論へ入る。

※7
Die Gegenstände der gewöhnlichen Metaphysik sind das Ding, die Welt, der Geist und Gott ...
伝統的な形而上学の対象は物、世界、精神、神である。

ヘーゲルはここで伝統的な「形而上学(Metaphysik)」の四つの主要な対象領域をあげる。
Ding(物):存在の最小単位、物理的対象。ー→ Ontologie(存在論)
Welt(世界):物の全体構造としての宇宙。ー→ Kosmologie(宇宙論)
Geist(精神):人間の自己意識的活動、自由をもつ存在。ー→ Pneumatologie(精神論)
Gott(神):絶対的存在としての究極者。ー→ Theologie(神学)
しかしヘーゲルにとって、これらはすべて論理的に一つの体系の中で発展するもの、理念の自己展開として説明される。

※8
Was der Begriff darstellt, ist ein Seiendes, aber auch ein Wesentliches ...
概念が示すものは、存在するものであり、同時に本質的なものである。
「概念(Begriff)」は単なる言葉や定義ではなく、存在を自己運動によって本質化する動的な論理的な構造のことである。

Seiendes(存在するもの)とは、現実にそこに「ある」もの。
Wesentliches(本質的なもの)とは、そこに「あること」に内在している根拠や意味のこと。

たとえば、「レモン」という存在の本質は、リンゴやバナナといった他の果物と比較され関係付けられて、反省(Reflexion)され、柑橘類としてその酸っぱさや、黄色という色彩や、絵画や文学の素材などとしてレモンの本質が認識される。また、たとえば「国家」という存在は、ただ制度として存在するのではなく、その存在を通じて「自由」や「理念の実現」といった国家の「本質」を現すような論理的な構造をもっていることが洞察される。

 

※9
Das Sein hebt sich in dem Wesen auf.
存在は本質において自己を止揚する。

存在(Sein)はそのままでは感覚的に抽象的で空虚なものであり、それを思考の媒介を経て内面化、深化させたものが本質(Wesen)である。したがって、存在が本質へと移行する過程は、単なる否定ではなく、より深い真理としての「本質」のうちに、「存在」が保存され、止揚される運動ととして捉えられる。これは論理学において「存在論」から「本質論」への必然的な発展の論理として、「止揚(Aufhebung)」の具体的な事例として説明されている。

※10
Das Vergängliche hat das Wesen zu seiner Grundlage 
移り行くものは、本質をその基礎にもち、それから生じる。

「万物は流転する」というヘラクレイトスの立場を引き継いだヘーゲルは、「生成(Werden)」という動的過程を強調する。移ろいやすいもの(Vergängliche)は偶然的なものに見えるが、移り行くものの生成には、その事物の本質が現象してくる。一見「生成された(Gewordenes)」もの、つまり変化したもの、結果のように見える存在も、実は「根源的(ursprünglich)」な本質が自己展開したものにほかならない。
  たとえば、一つの国家制度が変化・崩壊したとしても、その現象の背後には「自由」や「理念国家」といった根本理念が本質が変容しながら働いている。
移ろいやすいもの(Vergängliche)は偶然的なものに見えるが、その生成を通して、理念の必然的な運動がそこに貫かれていると見る。

※11
aber das Gesetzte verhält sich doch als wahr.
定立されたものは、それでもなお真理である。

 本質も概念も思考主体によって主観的に「定立された(gesetzt)」ものであるが、しかし、
それは単なる主観の任意な思いつきではなく、対象そのものの真理を含んでいる。
つまり、本質(Wesen)も概念(Begriff)も私たちが「作る」ものであると同時に、そこには「客観的真理」が保存されている。そこでは主観と客観が止揚され統合されている。

※12
Alles Wirkliche ist eine Idee.
すべての現実的なものは理念である。

ヘーゲル哲学においては、Begriff(概念)は単なる主観的な思考の産物、観念ではなくて、主観的・客観的側面を統合したものである。その統合とされたものとしての、Idee(理念)は、現実(Wirklichkeit)を構成する原理である。
ここで言う「理念(Idee)」は、単なる理想や観念ではなく、概念によって貫かれた現実そのものであり、たとえば、「国家」という現実も、「法」や「自由」「倫理」といった概念によって規定され、そうである限りにおいて、国家は「理念的な実在」である。
逆に言えば、理念を欠いた現実(たとえば、倫理なき法、理念なき制度)は「真の現実」とは言えない。つまり真の「現実性(Wirklichkeit)」を持たない。

だから、理念を欠いた日本国憲法の上に立つ日本国家は「真の現実」ではなく、ヘーゲル哲学的な観点からみれば「現実性(Wirklichkeit)」を持たないということになる。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義]

2025年04月30日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義]

§6

Der Gedanken sind dreierlei:
 1) Die  Kategorien (※1)
 2) die  Refle­xionsbestimmungen;  (※2)
 3) die  Begriffe. (※3)
Die Lehre von den beiden erstem macht die  objektive   Logik in der Metaphysik aus; die Lehre von den Begriffen die eigentliche oder  subjektive  Logik. (※4)

第六節

思考には三つ種類がある。すなわち、
1)カテゴリー
2)反省規定
3)概念

である。
はじめの二つは、形而上学における客観的 論理学を構成し、概念の学説が本来の論理学、すなわち主観的 論理学である。

※1
カテゴリー(Kategorien)
カテゴリーとは、物事を認識する際のもっとも基本的な思考の枠組みのこと、もしくは、もっとも根本的な論理形式のことです。思考が世界を理解するための最初の段階で用いられます。
たとえば、「ある」とか「ない」「成る」などは、カテゴリーとして挙げられる典型例です。こうしたカテゴリーは、たんなる人間の観念物ではなく、客観的な事物そのものの論理構造を明らかにするものです。


※2
反省規定(Refle­xionsbestimmungen)
反省規定とは、対象を認識する際に、自らの思考が対象をどのように区別するか、あるいはどのように関係づけるかを行うことです。「反省規定」の段階では、思考は自己と他者を区別したり、あるいは関係づけたり、時計が故障したのはなぜか、彼はなぜ暴力をふるったのか、など因果関係を推理したりします。また、人間についても、男女のそれぞれの同一性やその区別、また親と子の関係についても、愛情や対立といった関係において、「カテゴリー」よりもさらに高次の思考を、この反省規定の段階で行います。

※3
 概念 (Begriffe)

概念とは、ヘーゲル哲学においてもっとも高次の思考形式です。はじめの客観的論理学を構成する1)カテゴリー や 2)反省規定 を統合する形で形成されます。したがって、概念は主観的であると同時に客観的でもあります。それゆえに概念は対象を包括的かつ動的に捉えます。

概念は単なる抽象的な思考の産物ではなく、概念は現実そのものを構成する要素であり、概念は、主観的な思考の枠組みに留まるものではなく、対象そのものの本質的な構造として捉えられます。

たとえば、リンゴや蝶などの動植物などの生命体を例にあげるならば、リンゴは「種子→芽生え→樹木→実→種子」と自らを生成変化させていきます。また「蝶」は「卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵」と、自らを内在的に変化させていきます。こうした「リンゴ」や「蝶」の生成過程は、「概念」の自己運動そのものです。自然界における生命の生成・発展は、「概念」の具体的な実現形態にほかなりません。

※4
このようにヘーゲルの「概念」は、単なる思考の形式ではなく、現実そのものを構成する原理であり、自己展開する運動体でもあります。​

植物や動物の「概念」には、単に「植物とは何か」「動物とは何か」という定義だけではなく、その内部に芽生えから花開き、実を結ぶまでの自己展開や、蝶の一生が、卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵という変態の過程も、「概念」の発展と対応しています。

​概念にはこうした法則性が含まれており、それを通じて植物や動物が実際に何であるかが現実的に明らかにされるものです。とくに「概念」の自己展開性や事物の現実構成原理としての「概念」の意義について正しく理解することは大切です。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義](マルクス批判)

2025年04月29日 | ヘーゲル『哲学入門』


ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義](マルクス批判)

§6

Der Gedanken sind dreierlei:
 1) Die  Kategorien (※1)
 2) die  Refle­xionsbestimmungen;  (※2)
 3) die  Begriffe. (※3)
Die Lehre von den beiden erstem macht die  objektive   Logik in der Metaphysik aus; die Lehre von den Begriffen die eigentliche oder  subjektive  Logik. (※4)

第六節

思考には三つ種類がある。すなわち、
1)カテゴリー
2)反省規定
3)概念

である。
はじめの二つは、形而上学における客観的 論理学を構成し、概念の学説が本来の論理学、すなわち主観的 論理学である。

※1
カテゴリー(Kategorien)
カテゴリーとは、物事を認識する際のもっとも基本的な思考の枠組みのこと、もしくは、もっとも根本的な論理形式のことです。思考が世界を理解するための最初の段階で用いられます。
たとえば、「ある」とか「ない」「成る」などは、カテゴリーとして挙げられる典型例です。こうしたカテゴリーは、たんなる人間の観念物ではなく、客観的な事物そのものの論理構造を明らかにするものです。


※2
反省規定(Refle­xionsbestimmungen)
反省規定とは、対象を認識する際に、自らの思考が対象をどのように区別するか、あるいはどのように関係づけるかを行うことです。「反省規定」の段階では、思考は自己と他者を区別したり、あるいは関係づけたり、時計が故障したのはなぜか、彼はなぜ暴力をふるったのか、など因果関係を推理したりします。また、人間についても、男女のそれぞれの同一性やその区別、また親と子の関係についても、愛情や対立といった関係において、「カテゴリー」よりもさらに高次の思考を、この反省規定の段階で行います。

※3
 概念 (Begriffe)

概念とは、ヘーゲル哲学においてもっとも高次の思考形式です。はじめの客観的論理学を構成する1)カテゴリー や 2)反省規定 を統合する形で形成されます。したがって、概念は主観的であると同時に客観的でもあります。それゆえに概念は対象を包括的かつ動的に捉えます。

概念は単なる抽象的な思考の産物ではなく、概念は現実そのものを構成する要素であり、概念は、主観的な思考の枠組みに留まるものではなく、対象そのものの本質的な構造として捉えられます。

たとえば、リンゴや蝶などの動植物などの生命体を例にあげるならば、リンゴは「種子→芽生え→樹木→実→種子」と自らを生成変化させていきます。また「蝶」は「卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵」と、自らを内在的に変化させていきます。こうした「リンゴ」や「蝶」の生成過程は、「概念」の自己運動そのものです。自然界における生命の生成・発展は、「概念」の具体的な実現形態にほかなりません。

※4
このようにヘーゲルの「概念」は、単なる思考の形式ではなく、現実そのものを構成する原理であり、自己展開する運動体でもあります。​

植物や動物の「概念」には、単に「植物とは何か」「動物とは何か」という定義だけではなく、その内部に芽生えから花開き、実を結ぶまでの自己展開や、蝶の一生が、卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵という変態の過程も、「概念」の発展と対応しています。

​概念にはこうした法則性が含まれており、それを通じて植物や動物が実際に何であるかが現実的に明らかにされるものです。とくに「概念」の自己展開性や事物の現実構成原理としての「概念」の意義について正しく理解することは大切です。

唯物論者で経験論者のマルクスは、①「概念」が対象の内側に働いており、「概念に即して存在している」ことが対象の真の現実性(Wirklichkeit)であるということを理解せず、②「概念」は主観によって抽象された観念に過ぎないと誤解しました。また、③「概念」の運動は、常に自己否定とその止揚を通じて発展するという内在的な自己発展の論理を理解せず、社会の発展についても、マルクスは「階級闘争史観」から発展の論理を一面的に悟性的に理解して、概念の理性的な内在的な発展を否定しました。

 

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6月5日(日)のTW:常識と哲学

2025年02月14日 | ヘーゲル『哲学入門』

§1
常識というものは、ただそれが知ろうとする対象についてだけを考えるが、しかしその時、知識そのものについては考えようとはしない。つまり、知識そのものついては思い浮かべないのである。知識そのものの中にある全体の姿は、単に対象のみではなく、自我の知るという作用でもあり、a


自我と対象との相互の関係でもある。つまり意識である。

§2

哲学においては、知識を規定するものは、ただ単に一方的な事物の規定だけとは見られない。むしろ事物の規定と事物そのものを共に含むところの知識が問題となる。言い換えると、知識の規定は客観的な規定としてのみではなく、


主観的な規定とも見られるのである。むしろ、知識の規定とは、客観と主観との相互の関係の特定の形態だと言える。

§3

そこで知識の中には、事物とそれに対する規定の両方があるから、一面から言えば、それらは全く意識の外にあって、意識にとっては全くの外来品として、出来合いのものとしてc


外から与えられたものであると考えることもできる。しかし他面では、意識は知識にとって、事物そのものと同じく、本質的なものであるから、意識はこの自分の世界を自分自身で規定し、その世界のさまざまな規定を自分の態度と活動によってその全部を、あるいは一部を自分で作り出し、または d


変形するものと考えることもできる。第一の見方は実在論(Realismus)、他方の見方は観念論(Idealismus)と名付けられる。しかし、ここ哲学では、事物の一般的な諸規定は、ただ、客観の主観に対する特定の関係と見なければならない。d


※いわゆる常識の、日常の知識というものが、つまり人間の知識が、単なる実在論でもなければ、また観念論でもなく、それは客観と主観との関係の特定のあり方であること、つまり、人間の知識が本質的に弁証法的なものであることが示されている。


§4

さらにはっきり言えば、主観とは精神である。ところで、精神は存在する対象に本質的に関係するものであるから、現象するもの(erscheinede)である。その限り精神は意識である。だから、意識についての論考は、


精神の現象論(Phänomenologie des Geistes)でもある。

§5

しかし精神が他のものとの関係を離れて、自分自身の内部で、したがって自分自身との関係において、自己の活動性の面から見られると、それは本来の精神論、つまり心理学である。 b


§ 6

意識とはふつう、その外部にあるか、または内部にある対象についての知識であって、その対象が精神の働きが加わることなくして意識に現れたものであるか、それとも精神によって作り出されたものであるかは問題ではない。意識のさまざまな規定が、精神そのものの働きに基づくものである限り、


精神は精神の活動の面から考察される。

§7

意識とは自我の対象に対する特定の関係である。我々が対象から出発する限り、意識の持つ対象の区別に応じて、意識にも区別があるということができる。

§8

しかしまた同時に、対象は本質的に意識に対する関係から規定される。


したがって、逆に対象の区別は意識の発展に依存すると考えらる。この相互性は意識そのものの現象する領域の中に生じてくる。したがってこの相互性から見れば、これら意識の面と事物の面の二つの規定の、いずれが絶対的に主導性を持つかという先に§ 3で述べた問題は未決定のままに残される。




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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第五節 [思考と対象の関係]

2024年10月28日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第五節 [思考と対象の関係]

§5

Dies ist nicht so zu verstehen, als ob diese Einheit erst durch das Denken zu dem Mannigfaltigen der Gegenstände hinzutrete und die Verknüpfung erst von Außen darein gebracht werde, sondern die Einheit gehört  eben so sehr  dem Objekt an und macht mit ihren Bestimmungen auch dessen eigene Natur aus.(※1)

第五節 [思考と対象の関係]

このことは、あたかもこの統一がまず思考を通して対象の多様性にもたらされ、その結びつきが外部からはじめて持ち込まれたかのように考えてはならない。この統一は、まったく同じく 対象にも属しており、またその諸規定をもって対象に固有の本性をも構成しているのである。

 

※1
統一(主体・思考)と多様性(客体・対象)との関係について、
対象の多様な性質は、思考の介在なしに、すでに対象それ自体において統一されている。認識主体と客体の相互依存性を説明している。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第四節 [「私」と思考]

2024年10月23日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第四節 [「私」と思考]

§4

Der  Inhalt  der Vorstellungen ist aus der Erfahrung genommen, aber die  Form der Einheit  selbst und deren weitere Bestimmun­gen haben nicht in dem Unmittelbaren derselben als solchem ihre Quellen, sondern in dem Denken.(※1)

第四節 [「私」と思考]

表象の内容  は経験から取得されるが、その 統一の形式  そのものや、そのさらなるくわしい規定は、経験の直接的なものの中にではなくて、思考のうちにその源泉がある。

Erläuterung
説明

Ich  heißt überhaupt Denken.  Wenn ich sage:  ich denke,  so ist dies etwas Identisches. Ich ist vollkommen einfach.(※2) Ich  bin denkend  und zwar  immer.

「私」とは、そもそも「思考」のことである。もし私が「私が考える」と言うとき、これはまったく同一のことを言っている。私とはまったく単一なものである。「私」とは 思考するもの  であり、そして、つねにそうである。 

Wir können aber nicht sagen: ich denke immer. An sich wohl, aber unser Gegenstand ist nicht immer auch Gedanke. (※3)Wir können aber in dem Sinne, dass wir Ich sind, sagen, wir denken immer, denn Ich ist immer die ein­fache Identität mit sich und das ist Denken.

しかし、私たちは「私はいつも考えている」とは言えない。それ自体においては確かにそうだが、私たちの対象がまたいつも思考そのものであるわけではないからである。しかし、私たちが「私」であるという意味においては、私たちはつねに考えていると言える。というのも「私」とはつねに自己と同じ単一のものあり、それは思考だからである。

Als Ich sind wir der Grund aller unserer Bestimmungen. Insofern der Gegen­stand gedacht wird, erhält er die Form des Denkens und wird zu einem  gedachten Gegenstand.  Er wird gleich gemacht dem Ich d. h. er wird gedacht.(※4)

「私」として、私たちは私たちのすべての規定の根拠である。対象が思考されるかぎりにおいて、その対象は思考の形式を得て、思考された対象 となる。対象は私と同じものにされる、つまり、対象は思考されるのである。

 


※1
表象(Vorstellungen)の内容は人間の感覚や経験から得られるものだが、それらの感覚や表象をまとめ統一した形で認識するためには、感覚の経験を超えた「思考の働き」が、つまり、私たちが頭の中で行うカテゴリー化や概念化が必要である。それらは経験そのものからではなく、思考から生まれてくる。カントのカテゴリー表がふまえられている。

※2
個人、個体を意味する英語の、individual と同じ。「分割できないもの」「Atom」。

※3
くつろいでいる時や野球観戦中などのように、思考の対象がいつも具体的に存在しているわけではない。

※4
対象がただに存在するだけではなく、「思考される」ことによって私(主体)と同一化される。つまり、対象が思考の枠組みの中に取り込まれる。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第三節 [思考と抽象]

2024年10月14日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第三節 [思考と抽象]


§3

Das Denken ist Abstraktion, insofern die Intelligenz(※1) von konkreten Anschauungen ausgeht, eine von den mannigfaltigen Bestimmungen weglässt und eine andere hervorhebt und ihr die einfache Form des Denkens gibt.

第三節 [思考と抽象]

知性が具体的な直観から出発し、多様な規定の中から一つを捨て、他のものを取り上げて、それに思考の単純な形式を与える限りにおいて、思考は 抽象 である。

Erläuterung
説明

 Wenn ich alle Bestimmungen von einem Gegen­stand weglasse, so bleibt  nichts  übrig. Wenn ich dagegen eine  Bestimmung weglasse und eine andere  heraushebe, so ist dies abstrakt. Das Ich  z. B. ist eine abstrakte Bestimmung. (※2)


 私がある対象からすべての  規定を取り去るなら、そこには 何も残らない。反対に、ある 規定を捨てて(捨象)別の 規定を取り上げるなら、それは抽象である。たとえば、「私」とは一つの抽象的な規定である。

Ich weiß nur von Ich, insofern ich mich von allen Bestimmungen abson­dere. Dies ist aber ein negatives Mittel. Ich negiere die Bestim­mungen von mir und lasse mich nur als solchen.(※3) Das Abstrahieren ist die negative  Seite des Denkens.(※4)

私が、ただ私について知りうるのは、すべての規定から私のみを切り離して取りあげるからである。しかし、このことは否定的なやり方である。私は私についていろいろと規定することを否定し、そうして、ただ私を何らの規定をももたないものとする。抽象(捨象)するということは、思考の 否定的な  側面である。

 

※1
Intelligenz
情報, 知性, 知恵, 英知などと訳される。
Intelligenz(知性)が、学習や適応など問題解決能力のための技術などを学び活用する能力であるのに対して、
Verstand(悟性)は 論理的に判断する分析的な思考力のことであり、
Vernunft(理性)は真・善・美など道徳的な判断を含む綜合的な思考力である。

※2
思考のプロセスにおいて抽象化(捨象)が行われることを説明している。抽象は同時に捨象でもある。
「精神の現象学」の中においては、「塩」の白く、辛く、結晶の立方体、といったさまざまな規定(性質)の中から、ただ「白い」という性質のみをとり上げることを「悟性」の抽象化(捨象)の働きとして取り上げている。

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 一[知覚について] - 夕暮れのフクロウ https://bit.ly/3NqITFJ

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 六[思考について] - 夕暮れのフクロウ https://bit.ly/4f6CyLE

ヘーゲル『哲学入門』序論 七[意志の抽象的自由] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2d8bhwfk

※3
カントは「物」から、そのあらゆる規定を取り去ると、「物自体」という空虚な抽象しか残らないとして、現象と物自体を切り離し、私たちの認識は「物自体」には達しえないという「不可知論」を主張した。

※4
ヘーゲルは「抽象化」を思考の否定的な側面として指摘している。この警告、指摘の重要性は一般的にあまり認識されていない。

6月15日(木)のTW:「平等」の強制 - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2bkpk7gh

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第二節 [感覚から思考へ]

2024年10月09日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第二節 [感覚から思考へ]

§2 

Das Denken ist überhaupt das Auffassen und Zusammenfassen des Mannigfaltigen in der Einheit. Das Mannigfaltige als sol­ches gehört der Äußerlichkeit überhaupt, dem Gefühl und der sinnlichen Anschauung an. (※1)

第二節 [感覚から思考へ]

思考とは、そもそも多様なものを一つの統一体として把握し、まとめることである。多様なものそのものは、一般的に外的なものであり、感情や感覚的な直観に依存している。

Erläuterung. 
説明

Das Denken besteht darin, alles Mannigfaltige in die Einheit zu bringen. Indem der Geist über die Dinge denkt, bringt er sie auf die einfachen Formen, welche die reinen Be­stimmungen des Geistes sind. 

思考とは、あらゆる多様なものを統一的に把握し、一つにまとめることにある。精神が事物について考えることによって、それを単純な形式に変えて、その形式が精神の純粋な規定であることを示す。

Das Mannigfaltige ist dem Den­ken zunächst äußerlich. Insofern wir das sinnlich Mannigfaltige auffassen, denken wir noch nicht, sondern erst das Beziehen desselben ist das Denken. Das unmittelbare Auffassen des Mannigfaltigen heißen wir Fühlen oder Empfinden. 

多様なものは、思考に対してはまず外的なものである。
私たちが感覚的に多様なものを捉えているかぎりは、まだ思考しているわけではなく、それらを関係づけることこそが思考である。多様なものを直接的に捉えることを「感じる」とか「知覚する」という。

Wenn ich fühle, weiß ich bloß von etwas; in der Anschauung aber schaue ich etwas als ein mir Äußerliches im Raum und in der Zeit an. Das Gefühl wird zur Anschauung, wenn es räumlich und zeit­lich bestimmt wird.

私が感じるときは、ただ単に何かについて知っているだけであるが、しかし、直観においては、私はある物を空間や時間の中にある私にとって外的なものとして捉える。つまり感覚が空間的および時間的に規定されるとき、それは直観である。

 

※1

思考の働きとは、私たちが日常から得ることのできるさまざまな個別的な具体的な感覚や経験を、一つの意味のある全体へと、つまり普遍へとまとめて認識することである。
外的な事物に対して、私たちの意識が、感覚ー→直観ー→思考へと進むプロセスが説明されている。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』第二篇 論理学 第一節 [論理学と自然論理]

2024年10月04日 | ヘーゲル『哲学入門』

G.W.F. Hegel
Philosophische Propädeutik
Zweiter Kursus. Mittelklasse. Phänomenologie des Geistes und Logik.
 
第二課程 中級 精神の現象論と論理学

 
Zweite Abteilung. Logik.

第二篇  論理学
Einleitung.
序論

ヘーゲル『哲学入門』第二篇 論理学 第一節 [論理学と自然論理]

§1

Die Wissenschaft der Logik hat das Denken und den Umfang seiner Bestimmungen(※1) zum Gegenstande. Natürliche Logik (※2)heißt man den natürlichen Verstand, den der Mensch überhaupt von Natur hat und den unmittelbaren Gebrauch, den er davon macht. Die Wissenschaft der Logik aber ist das Wissen von dem Denken in seiner Wahrheit(※3)

第一節[論理学と自然論理]

論理学は、思考とその規定の範囲を対象とする。それに対し、自然論理とは人間が本来的にもっている自然な判断力であって、その判断力を直接に使用することである。しかし、科学としての論理学とは、思考そのものの真理についての知識である。

Erläuterung.
説明

Die Logik betrachtet das Gebiet des Gedankens überhaupt. Das Denken ist seine eigene Sphäre. Es ist ein Gan­zes für sich.(※4) Der Inhalt der Logik sind die eigentümlichen Be­stimmungen des Denkens selbst, die gar keinen anderen Grund als das Denken haben. Das ihm  Heteronomische (※5)ist ein durch die Vorstellung überhaupt  Gegebenes.

論理学は、思考の領域全体を考察する。思考は論理学に固有の領域である。論理学はそれ自体において一つの全体である。論理学の内容とは思考そのものに固有の諸規定であり、それは思考の他にまったく根拠をもたない。思考にとって「異質なものもの」とは、表象一般を通して 与えられるもの である。

Die Logik ist also eine große Wissenschaft. Es muss allerdings zwischen dem reinen Ge­danken(※6) und der Realität unterschieden werden; aber Realität, insofern darunter die wahrhafte Wirklichkeit verstanden wird, hat auch der Gedanke. Insofern aber damit nur das sinnliche, äußerliche Dasein gemeint ist, hat er sogar eine viel höhere Realität.(※7)

論理学はそれゆえに偉大な科学である。 しかし、純粋な思考と現実性とは区別されなければならない。ただ、現実ということで真の現実性を意味するのであれば、思考もまた現実性をもっている。しかし、現実性ということで、たんに感覚的な外的な存在のことのみが考えられているなら、思考はさらにより高い現実性をもつ。

Das Denken hat also einen Inhalt und zwar sich selbst auf  autonomische  Weise. (※8)Durch das Studium der Logik lernt man auch richtiger denken, denn indem wir das Denken des Denkens denken, verschafft sich der Geist damit seine Kraft. Man lernt die Natur des Denkens kennen, wodurch man aus­spüren kann, wenn das Denken sich will zum Irrtum verfüh­ren lassen. Man muss sich Rechenschaft von seinem Tun zu geben wissen. Dadurch erlangt man Festigkeit, sich nicht von Andern irre machen zu lassen.

したがって、思考には内容があり、それ自体が 自律的な 存在である。論理学の研究を通して、人はより正しく思考することを学ぶ。というのも、私たちは「思考の思考」を考えることによって、精神はその力を得るからである。思考の本質を知ることで、思考が間違いに陥りそうになるとき察知できるようになる。人は自分の行動をどう説明するかを知らなければならない。そうすることで、他人に惑わされない力を得ることができる。

 

※1
「Bestimmung」とは、ある対象がその対象そのものとして存在するための性質や特性を定義する要素をさす。思考の「規定(Bestimmung)」とは、具体的には、「有」「無」「成」から「本質」「現象」「現実性」などから「精神」に至る概念のことで、それらの範囲は、すでに論理学の体系として示されている。

※2
「自然論理」とは、特に学問的、科学的な訓練を受けていない状態での、人間が生まれついてもっている論理的思考の能力、直感的な思考のことである。

※3
真理(Wahrheit)とは単なる事実の集合ではなく、弁証法的な過程の中で生成され認識されるものであり、対立する要素の統合を通じて成立する全体性と体系を意味している。
たとえば「成」  (Werden)は「有」(Sein) と「無」(Nichts) の真理であるとされる。
(ヘーゲルの「真理」概念)

※4
思考はそれ自体が一つの「領域」であり、「全体」である。思考は他の何かに依存するものではなく、それ自体で存在し、自己完結的なものである。

※5
表象によって与えられるものは「異質なもの(Heteronomische)」である。
表象とは、私たちが何かを頭の中で思い描いたり、心に浮かぶイメージのようなもので、これは経験や感覚に由来するものである。そうした外的な要因や表象(イメージや想像)によって思考に与えられる要素は、哲学的な思考の自律的で純粋な活動とはちがったものだから、他律的で「異質なもの」(Heteronomische)である。

※6
「Gedanke」は「思考」という意味で、個人の論理的な推論や思索のプロセスであるが、「reinen Gedanken」は、そうした個別の具体的な現象や外界の影響を受けない、純粋に論理的な思考のことである。

※7
「より高次な現実性」
ふつうに現実性という場合、眼に見える形や物体など、たんに感覚的で外的な物質的な性質をさす場合が多い
が、そうした物質や外的な存在よりも、それらの背後に存在する法則性や概念を「より高次な現実性」として捉える。

※8
「哲学における自律的な思考」とは、表象(イメージや想像)など、外部から与えられたものではなく、思考それ自体の論理によって自らを生成するものだから「自律的な」ものである。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

2024年06月14日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第三段  理性  第四十二節 [理性の確信]

§42

Das Wissen der Vernunft ist daher nicht die bloße subjektive  Gewissheit,(※1)sondern auch Wahrheit, (※2) weil Wahrheit in der Übereinstimmung oder vielmehr Einheit der Gewissheit und des Seins oder der Gegenständlichkeit besteht.(※3)

第四十二節[理性の確信]
  
理性の知識は、したがって、たんなる主観的な 確実性 ではなくて、むしろ 真理 でもある。なぜなら、真理とは、認識されたことと存在とが、あるいは客観性とが一致していること、あるいは、むしろその統一のうちにあるからである。

 

※1
 Gewissheit 
確信、確実性。知識をもっていること。ここではまだその知識が主観性にとどまっている。

※2
Wahrheit
真実、正しいこと、真理。
主観的な確信が、存在や対象の客観性と一致すること、もしくは、存在がその概念に一致していること。

※3
先の第二段において、自己意識が「不幸な意識」に至るのは、人間の意識が本来的に自己内分裂をその特性としているからである。
分裂した自己意識は、自己自身との不一致や他者との関係における矛盾、信仰における不和などに、必然的に「不一致と矛盾」に陥るから「不幸な意識」とならざるをえない。
しかし、この「不幸な意識」も、主人と従僕との関係や労働を通して、その「疎外」も克服して、ここで自己意識は理性として、主観と客観との統一を、その確実性と真理を確信するようになる。

しかし、この段階では、理性もまだ「表象」の確信にすぎないから、『精神の現象学』においては、そこからさらにすすんで、自然や有機体(生命)の観察や実験へと、さらには、道徳や人倫の領域へと入り込んで、自らの意志や行動を通して世界を変革しようとしたり(「徳の騎士」と「世路」との対立)しながら理性から精神へと移行してゆく。
カントの啓蒙哲学やフランス革命も検証され、「絶対精神」の領域である芸術、宗教、哲学(絶対知)へと向かう考察がくわしく展開されている。しかし、この『哲学入門』ではそれらは一切省略されている。

 


この『哲学入門』の「精神現象論」においては省略されている、『精神の現象学』の「Ⅴ 理性の確信と真理」および「Ⅵ 精神」の内容については、梗概か要約としてまとめておきたいと考えています。

 

 

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