夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

若者の態度と大人の立場

2017年03月26日 | 小論理学

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ヘーゲルの哲学は、大人と若者とを比較して一般に若者を低く見るその立場から、「老人の哲学」とも称されることのあることはよく知られているが、実際にもヘーゲル自身も若くして老成したところがあったらしく、青年時代からも「老人」という綽名を友人たちからたまわっていたという。

この小論理学で述べられている若者と大人の立場の対立と比較の内容は、彼の処女作である『精神の現象学』においてもすでに、徳と世路(Die Tugend und der Weltlauf)の両者の対立として論じられている。そこでは若者は「徳の騎士」として、また、一方の大人の立場は「世路」として対比させられている。

若者に代表される「徳の騎士」の思考と意識は、現象学においては、たとえば次のように描写されている。

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「人類の福祉のためを思うて高鳴る心胸の鼓動は狂い乱れた自負の激昂へと移って行き、また意識が自滅に対して己を保とうとする焦燥の念へと移ってゆくが、この際意識が激昂し焦燥するのは、自分自身が転倒であり、逆しまであるのに、これを自分から投げ出して、自分とはちがった他者のことであると見なし、またそう言明するのに汲々としているからである。

そこで意識は普遍的な秩序をもって、心胸の法則と心胸の幸福との顚倒であると宣言し、そうしてこの顚倒は狂信的な坊主ども、豪奢にふける暴君たち、そうしてこれら両者から受けた辱めの腹いせに自分よりしたのものを辱め弾圧する役人たちによって捏造され操縦されて、欺かれた人類の名付けようもない不幸をもたらしたものであると声明するのである。」

(『精神の現象学』上巻、金子武蔵訳378頁)

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ヘーゲル『精神の現象学』の金子武蔵訳も必ずしも解りやすいとは言えないが、明らかにここにはフランス革命におけるロベスピエールら過激な革命家たちの言説とその運命、およびそれらに共鳴したに違いないまだ若き日のヘーゲル自身の記憶と反省が根底にあるにちがいない。

「徳の騎士」として登場する若き革命家たちの主張は、彼らにとって心胸のなかに宿り内在する特殊な法則こそが普遍であり、こうした徳を現実化し完遂して「人類の福祉」を実現しようとする。それに対して公共の秩序でもある「世路」は彼らの眼には転倒した世界として映じている。

「徳の騎士」と「世路」の両者の対立と矛盾の論理の展開は、現象学の中では第一部「B 理性的な自己意識の己自身を介する現実化(Die Verwirklichung  des vernünftigen  Selbstbewußtseins durch sich selbst)」以下に述べられている。

「徳の騎士」たち、つまりフランス革命の革命家たちの自意識は「錯乱する自負」として描かれており、それらは「思い込まれた私念」に過ぎず、やがて自己が非現実的なものに過ぎないことを彼らは経験する。徳の騎士たちは長口舌の演説口調で「世路」に対して反抗し刃向かうが、やがて敗北し「世路」の現実性こそが普遍的なものであることを悟るようになる。かくして「徳の騎士」である若者は成長し、「大人」になって自己の目の前に見出された世界を「理性的なもの」として和解をなしとげる。「徳の騎士」である若者が、カントの啓蒙哲学の「Sollen  の立場」に、いまだ悟性的な意識と思考の段階にあるのに対して、公共の秩序を保つ「世路」、大人の思考と意識が理性的であるとされる。

自らの生涯を「悟性に対する理性の闘いである」と称したヘーゲルの哲学が保守的だとみなされる原因もこうした点にあるのかもしれない。

現象学の中での「世路 der Weltlauf」とは、「法の哲学」のいわゆる「市民社会」のことであり、マルクス主義の用語では「資本主義社会」のことであるが、このいわゆる「徳の騎士」=若者と「世路」=大人との二項の対立と矛盾の展開は、現実の世界や歴史においても、例えば中国文化大革命における「四人組」と「走資派」との対立抗争において、四人組の敗北と走資派の頭目、鄧小平たちの勝利の決着の過程などにも、その論理は洞察できるように思える。

(20170329)

 

 

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3月23日(木)のTW:概念・ロゴス・摂理

2017年03月24日 | 小論理学
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3月22日(水)のTW:概念と内的目的

2017年03月23日 | 小論理学
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6月7日(金)のTW : 小論理学§31§42

2013年06月08日 | 小論理学

思考には何事かを証明する力があると言うのなら、そして論理学は証明するべきであると要求するのであれば、そして論理学が証明の仕方を教えると主張するのであれば、論理学は何よりもまず、もっとも独自の自己自身の内容を証明して、その必然性を洞察する力がなければならない。§42


§31
心、世界、神の表象は、さしあたって思考のために、しっかりとした足場を提供しているように見える。しかしながら、それらの表象には特殊な主観性の性格が入り混じっている。そして、そのことによって、それらは非常に異なった意味を持ちうる。


いずれにしても、表象はまず思考を通じて確固たる規定を得ることを必要としている、ということである。

このことは全ての命題が言い現している。述語を通じてはじめて(つまり、哲学において思考規定を通して)主語が何であるか、すなわち初めの表象が何であるか、が示されるということである。


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6月2日(日)のTW :小論理学§48[理性のアンチノミー] 

2013年06月02日 | 小論理学

 

2013年06月03日 | ツイツター

 

§48
第二の対象(§35参照)の無制約者(絶対者)を、世界を認識しようとする理性の試みに際して、理性はアンチノミーに陥る。

アンチノミーとは同じ対象についての二つの対立する命題の主張であり、しかも、その両者が等しく必然性を持って主張されなければならないことになる。

ここから、このような矛盾に陥る様々な規定を持った世界の内容というものは、それそのもの自体としてあるのではなくて(nicht an sich)、むしろ、単なる仮象(nur Erscheinung)にすぎないということになる。 b

その(カントの矛盾の)解消(の仕方)は、矛盾が生じるのは対象そのものから本来的に(an und für sich)くるものではなくて、むしろ認識する理性そのものから生じる、とすることによってである。c

矛盾の原因となるものが内容自身であること、すなわち自覚された(für sich)カテゴリーである、ということがここでは言われている。悟性的な規定(カテゴリー)を通じて理性的なものに作り出される矛盾が、本質的であり必然的なものであ るというこの思想は、近代哲学のもっとも重要で深い進歩の一つである。

 

 

 

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