夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

10月21日(火)のTW:階級と国家

2014年10月22日 | 国家論

「国家の理念は、a)まず直接に現実化し、みずから自己に関係する有機体としての個別的国家をなす。すなわち憲法もしくは国内法である。b)国家の理念は次に個別的国家と他の諸国家との相互関係に移っていく。 ──すなわち対外法。c)最後にそれは類としての普遍的理念であり、個々の諸国家に


対抗する絶対的な権力であり、世界史の過程においてその実現化を成就する精神である。」【法の哲学§259】〈補注〉〔独立自存する個別的諸国家〕国家は現実には本質上個別的国家であり、さらに進んでも、やはり特殊的国家である。個体性と特殊性とは区別されなければならない。個体性は国家の a


理念自体の契機であるが、特殊性は歴史に属する。諸国家は、諸国家として相互に独立し、したがってその相互関係は外面的関係であるのほかはなく、かくてそれを結ぶ第三者がそれらの上になければならない。ところでこの第三者こそ世界史において自己を実現し、かつ世界史に対する絶対的な裁判官をなすb


精神である。なるほど多くの国家が連盟としていわば他の国家に対する裁判を構成することもありうるし、たとえば神聖同盟のような国家連合の現れることもあるだろう。しかしこれらは常に永久平和として同じく、単に相対的で制限されているに過ぎない。c


常に、かつ特殊的国家に対して、その力は現わす唯一絶対の裁判官は、普遍者として、その能動的類として世界史に自己を現わす絶対的(潜在的かつ顕在的に)に存在する精神である。(ibid s 210 )


エンゲルス「・・・それゆえ国家は決して社会に外から押し付けられた力ではない。・・・国家はむしろ特定の発展段階における社会の一産物である。それは、社会が調整不可能な対立のうちに分裂していること、社会がそれを悪魔祓いすることができないことの告白である。経済的利害をめぐって争い合う a


諸階級のこの対立による不毛な闘争により、諸階級、そして社会が消耗し尽くさないために、その対立を抑え込み、『秩序』の中に留めるための、外見上社会を超えて立つ力が必要となった。・・・・そして、この、社会から発しながら、社会の上に立ち、社会からいよいよ離れていく力が、国家なのである」


※ここでのエンゲルスは、ヘーゲルの国家観に著しく回帰している。かってマルクスやエンゲルスたちの語った国家観は次のようなものである。「国家は無産階級に対して有産階級を護る組織である」「文明の基礎は一階級による他階級の搾取であるから、すべての文明の発展は、継続的な矛盾の中で展開する。a


すべての生産の進歩は、同時に被抑圧階級、多数者の立場の後退である。一階級の益はすべて必然的に他階級への害であり、一階級の解放は他階級の抑圧である」ここでは、マルクスによれば階級を超越した国家などあり得ないとされている。b


しかし、「例外的には相闘う階級の力が均衡し、国家権力が暫時両者に対し独立性をもち、調整者となるような外見を呈することもある」とも述べている。国家権力の階級からの独立性を例外と見るか、本質と見るか。どちらの国家観が正しいか、それはどのようにして証明されるか。c


 
 ※追記20141026
 
ここには二つの国家観が示されている。一つは言うまでもなく、ヘーゲルの国家観で、理性国家観。もう一つはマルクス・エンゲルスのそれで、階級国家観。マルクスの国家観は階級闘争史観から来るもので、共産党や朝日新聞や東京新聞その他の左翼新聞による「ブルジョア政府」打倒を目的とする、プロレタリア独裁国家観が論理的な帰結として出てくる。
 
共産党や朝日新聞の「反日」国家活動は、彼らの「マルクス主義」の論理的な帰結にすぎない。問題は、国家の本質、その概念の認識として、マルクス・エンゲルスのそれとヘーゲルのそれとのいずれが正しいか、ということである。
 
エンゲルスの国家観はヘーゲルのそれに近くなっている。このマルクス主義の国家観の問題が解決されることなくして、日本共産党問題も朝日新聞問題も解決することはない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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