夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ビッグバンと世界の二律背反――物理学者の世界観と哲学者の世界観

2007年01月24日 | 哲学一般

ビッグバンと世界の二律背反――物理学者の世界観と哲学者の世界観


ビッグバンの理論というのは、宇宙が爆発によって起きたにせよ、あるいは、無から物質が生じたにせよ、要するにこの説によれば、宇宙には始元があることを前提とする説である。果たして本当にそうなのだろうか。現代の物理学者たちのなかには、このビッグバンの世界観に異を唱えるものは一人もいないのだろうか。

もしビッグバンが事実であるなら、宇宙は時間と空間上の始まりを持つことになる。しかし、この見解は哲学史上は比較的に新しいのではないだろうか。古代ギリシャなどでは、むしろ、世界には始めも終わりもないという考え方が支配的ではなかったろうか。

世界は時間の始まりを持つと仮定すれば、時間の始まり以前の無時間の世界の状態をどのように考えるべきか。そこは時間が存在しないのであるから、世界も存在しないことになる。しかし、事物は時間のなかで継起するものである。時間のない世界では事物の継起は不可能である。だから、世界は時間の始まりをもたない。

しかし、もし世界が時間の始まりを持たないと仮定すればどうか。そのとき世界は、それまでに永遠の時間が経過していることになる。世界の事物は無限の継起の中にあったことになる。しかし、事物の存在は限界なくしてはありえない。だから、世界は何らかの時間の始まりを、時間的な始まりをもつ、すなわち有限である。このような推理は、ビッグバンの学説と矛盾しないし、むしろ裏付けるものである。

ビッグバンを主張する物理学者は、この一面の真理だけで世界を見る。


また、もし世界が空間の始まりを持たないとすれば、世界は同時に存在する事物の無限の全体である。しかし、この全体は部分の総合によって完成されたものであり、その完成のためには、無限の時間が必要である。しかし、無限の時間など不可能である。だから、空間は有限である。

しかし、世界が空間の限界を持つとすれば、世界は、限界のない空間のなかに存在することになる。限界のない空間とは関係を持つことができない。だから、世界は空間の限界をもち得ない。空間は無限である。

このように、哲学においては世界は、物理学と異なって、二律背反の世界である。この命題の証明は難しいが、それは、ちょうど光が粒子と波動の相反する二つの性質を本質としているようなものである。だから、哲学者はビッグバンを主張する物理学者のように、単に時間的に、あるいは空間的に一面的に世界を見ないで、二律背反する命題を統一において、その本質と概念から世界を見る。

哲学者は必ずしも天体望遠鏡をのぞいたり、最先端の現代数学を駆使するのではないけれども、私は哲学者の世界観を支持したいと思う。だから、物理学者たちの、ビッグバンの理論なども、その意義と限界において見るのであって、眉に唾を塗りながら耳を傾けるのである。果たしてどちらが世界の真実を捉えることができているのだろうか。

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今なお唯一の科学事典

2007年01月14日 | 哲学一般

 

今なお唯一の科学事典

 

辞書や事典の役割とは、言葉の意味、概念を説明することである。しかし、それだけではまだ真実に科学的な辞書ということはできない。科学的であるということは、その事柄の生成の必然性が証明されていることであるとすれば、その言葉や概念の生成や存在の必然性が証明されているのでなければ、本当の科学的な辞典ということはできない。

その意味では、真実に科学的な辞典は、私の知るかぎり、現在のところほとんど見当たらないといえる。現在発行されているほとんどの辞典は、あいうえおの50音順か、ABCのアルファベット順に言葉の意味が説明されているにすぎない。それぞれ互いに必然的な関係を持たないさまざまな項目が、無自覚に配列されて説明されているだけである。

たとえば「植物」という言葉は、自然界に客観的に存在するさまざまな「植物」の実在なくして、その言葉や概念の生成は考えられない。「事」は「言」でもあるが、多くの通俗辞書では、もちろん、その言葉、概念の生成される必然性が説明されているわけでもない。また、その言葉と他の言葉、たとえば「動物」の関係についても必ずしも説明されているわけでもない。言葉が、主なる神の創造になられた世界の事物に付せられた呼び方であるとすれば(創世記3:19)、言葉の配列は、事物の生成に対応していなければならないはずである。


そういう意味での真実に科学的と呼べる辞事典は、残念ながら私の知るかぎり、ヘーゲルの哲学体系そのもののほかには知らない。科学的な辞書が、その言葉の、概念の生成の必然性を証明したものであるとすれば、ヘーゲルの哲学体系そのものが、真の科学辞典であるといえないことはない。それは概念の生成の論理的な必然性を論証しようとしているからだ。


単なる学問が科学であろうとするかぎり、それは体系的である。体系的であるとは、それぞれの概念の必然的な関係が証明されていることである。ヘーゲル哲学の科学性は、何よりもその体系的性格に現われている。かりに、彼の哲学体系そのものは、その詳細と具体性において辞書というイメージに合わないとすれば、少なくとも、その要約である彼の『哲学百科事典』(エンチュクロペディー)こそが今日に至っても、もっとも科学的な事典であるということができると思う。


ヘーゲルと同じ問題意識を共有しない日本の学者たちによって編集され発行されている『ヘーゲル用語事典』などが、それが真実に弁証法的な科学的な事典になりえていないことは、その無自覚で悟性的なその語彙概念の配列からもわかることである。こうした事典がたとえば『弁証法』という用語の正しい説明をなしえていないことは明らかである。彼らの弁証法は必然性の追求のない、ばらばらに切り離された死に物である。事典の編纂者たちはその思うところを行なえないでいる。たとえ悟性的に配列されているとはいえ、それはそれなりに意義はあるとしてもである。

今にしてなお、真実の科学(=哲学)事典を読もうとすれば、『哲学百科事典』(エンチュクロペディー)そのものにじかにあたるしかないのではないか。真実の弁証法についての説明は、弁証法的に体系的に構成された辞書によってしか行なえない。もちろん、個々の項目については、現代にいたるまでの個別科学の進展によって、限りなく深化、発展させられている。しかし、科学的な世界観の骨格としては、今なおこれを乗り越えるものが、この事典の他にあるだろうか。

 

哲学百科辞事典(Meine Enzyklopeadie)               夜明のフクロウ

 

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日本の内なる北朝鮮

2007年01月12日 | 国家論

かって在日朝鮮人が歓喜雀躍して帰国運動に従事し、祖国再建に希望をもって北朝鮮に夢を抱いて渡っていった頃にくらべれば、もはや北朝鮮の評判は地に落ちてしまったといえる。マスコミなどから折に触れて伝えられる北朝鮮についての情報が、飢餓や脱国、拉致などについてのニュースばかりであるから無理もない。

わが国で北朝鮮への帰国運動が行なわれていた当時にあっては、社会主義体制と資本主義体制が世界を二分するいわゆる冷戦構造がまだ揺るぎもせず、まして崩壊するなどとは誰にも予想できなかった時代である。日本の国内の政治も、当時の世界のイデオロギーを反映して、社会党と自民党が国会を二分するいわゆる55年政治体制のもとにあった。

朝日新聞や岩波を中心とした「知識人」たちに、中国の文化革命や北朝鮮の千里馬運動を理想社会実現の試みとして共感し支持する者も少なくなかった。社会主義や共産主義に対する夢がまだ見られていた時代だった。学校教育の中でも、とくに日教組に属する教員のなかには共産主義者が少なくなかったし、彼らも自民党の教育行政と鋭く対立、拮抗しながら、一方で戦後の日本の教育のあり方を規定してきた。


戦後の日本は、朝鮮やドイツのように同じ民族がイデオロギーによって社会主義国家と自由主義国家に分断されることは免れたものの、同じ国内に二つの分裂国家を抱えていたようなものである。社会党や共産党と自民党が敵対的なイデオロギーで対立しながら、戦後政治を行なってきた。

公式には現在の北朝鮮は社会主義国家ということにはなっているけれども、かっての毛沢東中国と同様、その実質は封建的儒教国家とでも呼ばれるべきものだろう。そこでは国民大衆がまだ自由の意識を形成しておらず、自由な社会の上に形成された国家ではないからである。国民大衆が自由に解放されていない社会では、国家のその理論的な骨組みを社会主義に求めようが民主主義に求めようが、その実体は不自由な社会であることには変わりはないのである。


その点では、中国も朝鮮も日本もその民族的な資質という点では、類縁関係にある。いずれも儒教的な文化圏に属し、家父長的な封建体制の下に権威主義的な文化に長い間民衆が生活してきたという点では同じである。中国においては毛沢東の個人崇拝は今ではそれほど露骨ではなくなっているが、その芽はなくなってはいない。北朝鮮における個人崇拝は相変わらずである。これらの諸民族は自由についての経験も浅く、全体主義に馴染みやすい傾向をもっているといえる。

この傾向は、何も朝鮮や中国だけの話しではない。戦後は曲がりなりにも、日本では自由と民主主義を国是として運営されてきたので、それほど露骨な全体主義的な動向は見られないが、国民や民族の資質として、全体主義に馴染みやすい体質をもっていることは明らかである。


多くの自称共産主義者や社会主義者、平和主義者たちは自分たちの思想を狂信して、他者がそれ以外の信条をもつことを否定する傾向があるのもそうである。たとえば、今一部に存在する「日の丸」や「君が代」の否定論者たちは、その狂信的な、不自由な意識からすれば、彼らがひとたび強制的な権力を手にすると、現在の石原東京都知事以上の思想統制を実行するのではないだろうか。社会主義者や共産主義者が実際に国家権力を手にした諸国での歴史的な経験も、そうした事実を教えているのではないだろうか。自由を尊重する精神に欠けるという点では、右翼も左翼も同じ民族の体質として変わりはないのである。


戦後の日本国民は一応は建前としては、自由と民主主義国家に生活しているとはいえ、自由と民主主義の教育が十分に実行されてきたとはいえないし、その自由の意識が国民に十全に確立しているとも思えない。戦後の日本の教育が共産主義者の日教組と皇国史観の自民党文教族によって担われてきたために、学校教育での自由と民主主義の教育がはなはだ不十分であるという事実は自覚されていない。


民族の体質としては、全体主義の色彩を強固に残している。それは、教育や人間関係、宗教などの文化に刻印されていて、条件さえそろえば、かっての中国の文化大革命の熱狂が、再現されるようなものである。民族の体質としての全体主義的な傾向を完全に克服し切れているものではないと思う。


戦後の学校教育が自由と民主主義教育において十分にその責任を果たして来なかったことは、いわゆる有名大学の卒業生たちがオーム真理教などに対して何らの免疫力も持ちえていなかったことからも明らかである。その傾向は現在も改善されてはいない。

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