夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

西行歳暮和歌七首

2014年12月31日 | 日記・紀行

 

西行歳暮和歌七首

題しらず

567
山ざくら  思ひよそへて ながむれば  木ごとの花は  ゆきまさりけり

 

仁和寺の御室にて、山家閑居 見雪といふことをよませ給ひけるに

568
降りつもる  雪を友にて  春までは  日を送るべき  み山辺の里


山家冬深

569
訪ふ人は  初雪をこそ 分け来しか 路とぢてけり   み山辺の里

570
年のうちは  訪ふ人さらに  あらじかし  雪も山路も  深き住処を


世を遁れて、鞍馬の奥に侍りけるに、筧氷りて、水もうで来ざりけり。春になるまでかく侍るなりと申しけるを聞きて、よめる


571
わりなしや 氷る筧の水ゆゑに  思い捨ててし  春の待たるる


みちのくににて、年の暮れによめる

572
つねよりも  心細くぞ 思ほゆる  旅の空にて  年の暮れぬる

山家歳暮
573
あたらしき 柴の編戸を  たてかえて  年のあくるを 待ちわたるかな

今年もこの拙いブログに訪れてくださった皆さん、どうか良き新年をお迎えくださいますよう。

 

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クリスマスイブ

2014年12月24日 | 日記・紀行

 

Enya - Oíche Chiúin (Silent Night with Lyrics)

クリスマスイブ


昨夜、ラジオの深夜便を聴いていたら、アンカーの村上里和さんがクリスマスイブだということで、エンヤの「清しこの夜」を紹介していました。ケルト語で歌われているとのことです。潔らかな声です。

早いもので今年ももう終わりです。残念ながら大した成果なく今年も終わりそうです。今年お世話になった方、失礼とご無沙汰に終った方々にお礼とお詫びをかねて、クリスマス・イブのご挨拶を送ります。クリスマスおめでとうございます。



「そ こで、イエスは群衆の中から、彼一人を引き出し、その男の耳に指を差し入れ、つばを吐いた手でその男の舌に触れられた。そうして、イエスは天を仰ぎ、深く うめきながらその男に向かって、エファッタ、と言われた。開け、という意味である。たちまち男は聴こえるようになり、どもっていた舌はなめらかに話せるよ うになった。」

 (マルコ書 7:33ー34)

 

 

 

 

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民主主義の人間観と倫理観──皇室と民主主義

2014年12月19日 | 国家論


民主主義の人間観と倫理観──皇室と民主主義


元東大教授で法学部で長年にわたって憲法学を教えられてきた、奥平康弘氏は、“「天皇制」と民主主義は両立しない”と自らの著書で述べられています。(註1)

しかし、本当に皇室(奥平氏のいわゆる「天皇制」)と民主主義とは両立しない”ものなのでしょうか。そのように断定される奥平康弘氏は、日本共産党のように「天皇制」を廃止して、「民主主義」にとって代えようと主張されているのですが、はたして、氏のいうところの民主主義」というのは何ら欠点のない完全無欠のものなのでしょうか。

奥平氏はそう断定されるとしても、かといって一方では、「天皇制」を廃して「民主主義」を国家の原理とすることの「合理的な根拠」を論証できているわけでもありません。これでは科学にも学問にもならないのではないでしょうか。いずれにしても、長年にわたって東大の法学部で憲法学を教えるという公職におられた方の見解でもあり、善かれ悪しかれ影響力はあるのだろうと思います。奥平康弘氏の憲法観はもっと問題視されて良いと思います。

とくに奥平氏の「民主主義」観、憲法観には時間軸が抜け落ちています。国家における歴史や伝統の継承という観点がありません。単なる一世代による、それも真理の正否の定かでもない多数決の判断にしたがって、歴史や伝統の断絶を もたらすのは「民主主義」の僭越であり傲慢だと思います。そして何よりも奥平康弘氏の憲法観の根本的で致命的な欠陥は、哲学者ヘーゲルの明らかにした国家と自然法 の論理をいささかも検討された形跡のないことです。

憲法学における学識については、もともと奥平康弘氏の足許にも及ばないとしても、私の理解する「民主主義」観では皇室とは二律背反の関係にあるものではありません。民主主義は皇室と両立し得ると考えます。奥平氏が「民主主義」という言葉でどの様な内容のことを考えておられるのか、不勉強のためによく分かりませんが、これまでも、いくつか私なりに「民主主義」について考えるかぎりは、皇室と「民主主義」は両立するものだし、両立させるべきものです。以下に、そう考える根拠のひとつとして私の民主主義観を示した十年ほど前の論考を再録しておきます。

十年ほどの間に私の考えも変化しており、下記の論考からは若干変化もしていますが、基本概念には変更はないので当時の論考のまま残しておきます。

(註1 奥平康弘著『「萬世一系」の研究』401頁)


>><<

民主主義の人間観と倫理観』──より良き民主国家建設のために①

民 主主義の倫理観や人間観について述べようとすると、「民主主義に倫理観や人間 観があるのですか」と問われたりする。もちろん、他の多くの重要な社会思想と同じように、民主主義にも、人間観や倫理観は含まれている。結論からいって、 歴史的にも社会的にもこれほど重要な役割を果してきた民主主義のような思想に人間観や倫理観が含まれないと考えるほうがおかしいのではないでしょうか。こ んな質問を受けること自体、日本の民主主義の伝統の浅さや、学校での民主主義教育の貧しさを推測させるものと思います。

民 主主義とは、語源からすれば、民衆の権力、人民の支配と言う意味ですが、起源 としては、古代ギリシャが考えられています。しかし、現代の民主主義は、古代ギリシャではなくフランス革命とイギリス・プロテスタンティズムに直接の根拠 を持つと考えられます。そして、ことばは同じ民主主義であっても、フランス革命の人民主権の色彩の強い政治的民主主義と、個人の尊重や社会構成員の権利の 平等を強調するプロテスタントの社会的民主主義は区別されるべきでしょう。

民 主主義とは、基本的人権の尊重や法の下の平等、納税や兵役の義務などといった 個人と共同体の関係のあり方を規定する倫理観や人間観の体系といってよいと思います。この民主主義は、経済的弱者や被抑圧者を母胎とする思想であるいえま す。今日の社会に当てはめれば、勤労者や一般消費者の論理を代弁する価値観といえます。

そ れに対して、 自由主義とは、簡単に定義すれば、人間の欲望を無制限に追及す ることを肯定する人生観、倫理観といえます。この思想は、歴史的には産業ブルジョアジーの考え方として登場したものであり、したがって、この主義は、今日 の社会では、いわゆる資本家=生産者の論理を代弁することになります。

こ うした自由主義観や民主主義観は、これらの思想の母体となった特に欧米では自 明の前提だったのではないでしょうか。そして、逆にこうした本質的な理解を欠いたままに、浅薄な議論が行われてきたことが、日本で「民主主義」の信用を貶 めることになったのではないでしょうか。不幸なことだとも思います。

と ころで、民主主義の倫理観についてですが、これは日本国憲法においても「納税 の義務」、「教育の義務」、「労働の義務」「生存権や財産権の保障」などに現われています。これらは共同体の個人に対する義務や個人の共同体に対する義務 を規定したものです。納税の義務や労働の義務や教育の義務は比較的にわかりやすいと思います。国民の国家や共同体に対する倫理的義務を示しています。封建 時代の年貢制度などと比較されると民主主義の倫理観がどのようなものであるかわかると思います。

儒 教道徳を根底にした封建社会の倫理とは違って、民主主義には「個人としての尊 重」や「基本的人権の尊重」や「法の下に平等」「他者の自由の尊重」といった人間観、倫理観が根底にあります。これらの権利義務は強制によるものではな く、民衆の多数決原理によって自ら制定した法律に基づく自発的意思によるものです。 

中 でも、民主主義国家の国民の国家に対する倫理的な義務を規定した納税の義務な どについては、日本では、ほとんどが「源泉徴収」によって行われているので、国家や公共団体に対する国民の倫理的な義務は自覚されにくくなっていると思い ます。全国民が一律に「収入の10パーセント」を納付することなど、税制を根本的に簡素化し、また源泉徴収制度も廃止し、国民の自主的な納付制度に改革す れば、国民の民主的な自覚も少しは高まるかもしれません。 

そ して、国民の国家に対する倫理的な義務の最たるものである「兵役の義務」があ ります。しかし、日本国憲法には、その成立の特異性ゆえに、「兵役の義務」については規定されていません。民主主義にとってあまりにも自明な「兵役の義 務」が規定されていないのです。本来、民主主義国家では、国民は何よりも、国家国民のために、自ら国防の任務を負うのです。

封 建社会や絶対主義国家では、武士や軍隊が主君である大名や天皇のために国防の使命を負いましたが、民主主義国家では国民全体が国民自身のために、その責任 を担います。国防のために兵役の義務を果すことは、民主主義国家の国民にとってはあまりにも自明のことです。兵役に従事し、身命をとして国家国民のために 奉仕すること、これ以上の倫理的義務があるでしょうか。封建社会や絶対主義国家には、国民全体にこうした意識はありません。そして、現在の日本人の「民主 主義」には、この倫理観が完全に欠落しているのです。

民 主国家の事例としてスイスが取り上げられますが、スイスの国防の実体は、「軍事国家」といえるほどのものです。これが、歴史的に典型的な民主主義国家の実際です。「徴兵制」(正しくは志願制兵役)や「愛国心」などというと、いわゆ る「右翼的な思想」の専売特許のように思われていますが、論理的に考えて、民主主義国家の国民の愛国心ほど強いものはありません。もしそうでないとすれ ば、その国家は名目はとにかく、実質的には「民主主義国」ではないのです。なぜなら、民主主義国家であるほど、その政府は、国民に奉仕する存在となり、ま た、その国家は一般国民にとって暮らしやすい幸福な国になるからです。国家や政府からの恩恵を十分に自覚している国民は、なにも政府から強制されることが なくとも、もっとも愛国的な国民になります。

ま た、民主主義は伝統文化を尊重するものです。その倫理観からも、私たちの祖国 と祖先の、動かすことのできない過去の伝統文化を、その宗教や習俗を尊敬し愛することのない民主主義があるのでしょうか。民主主義の原則が、単に空間的に だけではなく時間的にも歴史的にも貫かれれば、当然の論理的帰結としてそうなります。「戦後の民主主義」が、日本の伝統文化を破壊しているというのは、民 主主義の思想の本来的な欠陥から来るのでしょうか。あるいは、民主主義を、浅薄にしか理解しなかった国民の、特に自称左翼の責任でしょうか。 

こ うした民主主義観が真に基礎を得るには宗教が必要なのですが、残念ながら、日 本ではその基礎を欠いていたといえます。宗教抜きの民主主義は、今日の日本のような「欲望民主主義」「悪平等民主主義」になりがちです。明治の指導者は、 民主主義の人間観や倫理観を拒絶して、あるいは理解しないで、「天皇制」や「教育勅語」などによって、当時の道徳的危機を打開しようとしました。その結果が、 民主主義国イギリスとの同盟ではなく、ヒットラーとの同盟となったのだと思います。この歴史的教訓を、それは歴史的必然と言ってよいと思いますが、深く学 ばないと、かってのドイツと同じように、再び同じ結果を招くことになると思います。                               

特 に、日本の民主主義は、太平洋戦争による敗北を契機に日本国民に導入 されたために、多くの点で、歪曲され、浅薄化していると思います。というよりも、民主主義の概念が、いわゆる左翼から右翼まで混乱しています。イギリス・ プロテスタンティズムを基盤とする「社会的民主主義」については、古代ギリシャ民主主義やフランス革命の「政治的民主主義」と区別するために、これを「共 和主義」と呼んだほうがよいかもしれません。いずれにせよ「民主主義とは何か」という本質的な論議と認識をいっそう深める必要があると思います。

そ して、民主主義には、多くの伝統的な宗教や倫理道徳にも共通する、もっとも普 遍的な人間観や倫理観が含まれているのですから、国民はこの民主主義の倫理観、人間観によって自分たち国民を教育すればよいのです。確かに、民主主義に は、「あなたの父母を敬え」とか「殺すなかれ」とか「盗むな」といったこと細かな倫理規定まで含むものではありませんが、しかし、基本的人権の尊重とか、 個人の尊厳、少数意見の尊重というような根本的な倫理観は含まれているのです。 

そ うして国民全体の民主主義についての認識を高め、民主主義によって自己教育を 深めて行きながら、同時に、民主主義政治が衆愚政治や全体主義に反転することを防いでゆく必要があるのですが、それには、民主主義の概念を国民全体で深く 体得しつつ解決して行くしかないと思います。これはプラトン以来の人類の困難な課題なのかも知れません。ニーチェの思想やマルクス主義などの「全体主義」 も、その解決法が正しいかいなかはとにかく、端緒は衆愚政治に対する抵抗でした。

歴 史的には民主主義はプロテスタント・キリスト教の論理的帰結、もし くはその完成、もしくはその世俗化であるともいえます。ですから、そこには当然、キリスト教の倫理観、人間観が内容的に保存されているのです。ですから、 民主主義は、宗教という形式を止揚した「宗教」ともいえます。(宗教をどのように定義するかによりますが)この点については、 私は実証的な歴史学者でもないので、論理的に推測するしかないのですが。とはいえ、民主主義の倫理観や人間観は、最も普遍的で、多くの伝統的宗教や倫理道 徳の最大公約数としての意義ももっています。

 
最 後に、 さらに逸脱するかも知れませんが、 大学や教育者、政治家、公務員、そして国民自身の責任として、学校教育における正しい民主主義教育の必要について主張したいと思います。最近一部の人には 評判の悪い、古色蒼然とした「民主主義」ですが、そのせいか、人間観や倫理観としての観点からの民主主義教育の重要性が自覚されてもいず、実行もされてい ません。これは学校で「道徳の時間」に民主主義の訓練がほとんど行われていないことにもあらわれています。

共 産主義者の「民主主義観」に対する大衆の健全な反感が、民主主義の健全な育成 の障害になったのかも知れません。共産主義者の「唯物論人民民主主義」は、個人としての人格を尊重せず、学問、宗教、思想信条の自由を尊重する精神を欠 き、自己の思想を相対化して反省することを知らない、全体主義的で狂信的なものだからです。

い じめの問題も学力低下の問題も、「クラス共同体」の問題として、子供たち自身 が民主主義の精神とルールに従って、自主的に主体的に問題解決に取り組むための民主的な訓練の機会として活用すべきなのですが、指導者や学校に、そのよう な問題意識がありません。単に学校や教師自身の問題として、あるいは、その生徒個人の問題として扱われています。その結果、子供たちの倫理観も人間観も深 まりません。「クラス共同体」の問題として、社会や共同体の倫理の問題としてクラス全体で主体的に取り組み解決しようという自覚も姿勢も欠いています。今 日のこのような学校現場や、また日本社会全体としての一般的な道徳的危機を、正しい民主主義の人間観や倫理観の普及と徹底以外にどうして正しく解決できる でしょうか。

そ して学校教育の現場では「政治活動」と「政治教育」とが混同され、はっきりと 区別されてきませんでした。「政治活動の禁止」という名目で「政治教育」まで否定され行われてこなかったのです。確かに、学校教育においては、特定の価値 観にしたがった「政治活動」は完全に禁止される必要があります。しかし、「政治教育」は、つまり民主主義の制度とその精神、その倫理観と人間観はあらゆる 場面で教育され、民主主義の能力は訓練される必要があります。

い じめの問題や、生徒自身の学力の問題なども、生徒自身の参加と自治の精神を活 用して、民主主義的に解決する能力を高めるよい機会になります。そのためには、なによりも特に学校関係者が 民主主義の制度と精神を、実際に活用し運営する「能力」として普段に高めてゆく必要があると思います。

学 校でのこの民主主義教育の充実が、今日の「郵政民営化問題」や北朝鮮や中国な どの「非民主的国家」との外交のあり方、「北朝鮮の拉致被害者の救済」といった、政治的な課題に対する国民の問題解決能力を高めることになります。年金問 題や少子高齢化問題といった政治的課題についての、国民の判断能力や問題解決能力を高めることになります。

そ して、今日の政党政治を、利権がらみの錯綜し閉塞したものから、もっと合理的 なものに再編して行く必要があります。先にも述べたように、今日のいわゆる「市民社会」は、基本的に生産者、資本家と消費者、勤労者の利害の対立と調和の 上に構成されているのですから、生産者、資本家の利害を代表するのか、それとも、消費者、勤労者の利害を代表するのか、政治家にその旗幟を鮮明にさせ、そ れぞれの旗幟にしたがって、自由党と民主党に結集させ、民主主義の原理にたつ二大政党が国家と国民のために、政治の質を競いあわせるようにするのです。そ のためにも、現在の自由民主党は、解体されて、自由党と民主党になり、現在の岡田民主党をも巻き込んで、今一度政界が再編成される必要があります。

そして、生産者、資本家の利益を代弁する自由党と消費者、勤労者の利益を代弁する民主党のそれぞれが国民のための政治を目指して競争し合うことです。
それが、劣悪な政治という長年の不幸から国民を救うことにもなると思います。

  2003/08/20

民主主義の人間観と倫理観──より良き民主国家建設のために①   

http://goo.gl/R68HDn

 

 

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12月10日(水)のTW:日本共産党の「天皇制」

2014年12月11日 | 国家論

 

2014年12月11日 | ツイツター

日本共産党の皇室についての考え方は、憲法学者の奥平康弘氏などと同じのようだ。 Yahoo!ニュース - <共産党>志位委員長「天皇制の問題には手をつけない」             

   (毎日新聞)headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141208-…             「天皇制」の合理的な根拠? goo.gl/pGVTmp

 
 

<共産党>志位委員長「天皇制の問題には手をつけない」

毎日新聞 12月8日(月)18時52分配信

http://goo.gl/ienNNx

 共産党の志位和夫委員長は8日、日本外国特派員協会の記者会見で、共産党が将来の参加を目指す連立政 権について「天皇制の問題には手をつけない」と述 べ、当面見直さない考えを示した。同党は2004年の綱領改定で、天皇条項も含めて「現行憲法の全条項を守る」との方針を打ち出している。

 志位氏は衆院選で共産党が躍進した場合の天皇制への対応を聞かれ、「天皇制度を国民の合意で民主共和制に変えることを展望するが、かなり先の段階で解決 される問題だ」と発言。「私たちが参加する政権ができても、天皇制はかなり長期にわたり共存する」と語った。【田所柳子】

 

※追記

共産主義についてはよく知りませんが、その考え方としては、皇室や伝統的な法的理性に──自然法に、法の支配に──従うのではなくて、それに代えて共産党の指導によって国家国民を統治しようという考え方ではなかったでしょうか。

そうした民主集中制による共産党幹部の指導と統治が「真理」であることの、哲学の用語でいえば、共産党の政治が、国家の「概念」を実現するものであることはどのように保証されるのでしょうか。

過去の歴史で明らかになった共産党の民主集中制による政治は、人間の本性にしたがって権力の腐敗を招き、自由を損って堕落と崩壊の道を辿ることを実証しています。

それでも、現在のような自民党の不公正な政治のもとで、いわゆる「資本主義」体制下での共産党は、失業や貧困に苦しむ人たちにとっては一定の存在意義はあるのだと思います。

そもそも「天皇制(度)」という言葉自体が、自然法を理解しない憲法学者や共産主義者たちが、生きた歴史と伝統にある皇室を廃止するために、自分たちに都合の良い人工物に見せかけるために考え出した用語です。

「自由にして民主的な独立した立憲君主国家体制の政治」の概念については、これまでの論考に明らかにしてあります。

 

 

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12月5日(金)のTW:「天皇制」の合理的な根拠?(2)

2014年12月06日 | 国家論

「12月4日(木)のTW:「天皇制」の合理的な根拠」奥平康弘氏の抱いているような憲法観を、その限界を克服することも出来ないまま氏に教えられた東大法学... blog.goo.ne.jp/aowls/e/d3572a…


 
 
 
※追記20141206
 
奥平康弘氏の著書『萬世一系の研究』について、ツィッターでノートを取りながら、検討してみました。関心の持てる人は上記のリンク先を覗いて見てください。書評としてまとめる価値があるかどうかは、まだ分かりません。
 
「「天皇制」は民主主義とは両立しない」という記述が、奥平氏の著書から引用されているらしいのをたま たま知ったことが、『萬世一系の研究』の本文に当ってみようと同書を読み始めた切っ掛けでした。確かに、あとがき401頁のなかで、奥平氏は著書のまとめ のような形でそのように書かれていました。だから、奥平康弘氏自身の見解であることは間違いないようです。

といっても、“「天皇制」は民主主義とは両立しない”と言うことによって、奥平氏は「天皇制」を擁護しようとしているのではありません。むしろ奥平氏は国家の原理として「民主主義」をもって「天皇制」にとって代えることを主張されているようです。

 
しかしいずれにせよ、奥平康弘氏は「国家の真理」などと言うことには考え及ばないようです。奥平氏が 「民主主義」という言葉でどういうことを念頭におかれているのかよく分かりませんが、ふつうには「民主主義」とは、国家を「多数決原理」で統治しようとい う考え方です。しかし「多数決原理」そのものは、それによって決せられた内容そのものの真理であることを必ずしも保証するものではありません。そうした 「民主主義」のもつ限界については、これまでにも私のブログで様々に論証していますから、関心のある人は調べてみてください。
 
奥平康弘氏は氏のいわゆる「天皇制」の存在についての合理的な根拠を見出せませんでした。だからと言っ て奥平氏に「天皇制の存在」の“不合理”を説明できたわけでもありません。奥平氏にはこの本の中で「人権論」や「男女平等論」をもってしては「天皇制」の 不合理を論証できないことを明らかにしただけでした。
 
かといって「天皇制」の合理的な根拠も確認できなかった奥平氏は、謙虚に自身の哲学的能力の低さを反省 するのではなく、“「天皇制」は「民主主義」とは両立できない”と断定して、無責任にも「天皇制」を「民主主義」にとって代えようと主張するのです。そこ には二千余年にわたって存続してきた皇室の存在に関わる民族の叡智や歴史と伝統に対する配慮というものがほとんど感じられません。
 
「民主主義」は国民多数の意思で国家を統治することだけを原理とするもので、「国民の多数の意思」その ものが「真理」であることを保証するものではありません。むしろ、それがきわめて大きな取り返しの付かない誤りを繰り返すものであることは歴史のなかでも 明らかです。奥平康弘氏に国家の原理として「民主主義の合理的な根拠」を論証できているわけではないと思います。
 
奥平氏の誤りは、「天皇制」の存在の“不合理”を説明できずに、かといって国家の原理として「民主主 義」のその合理的な必然性を論証できてもいないにもかかわらず、「天皇制」を廃止してそれに代えて「民主主義」を主張するという無責任にあると思います。 さらに奥平康弘氏の根本的な誤りは、氏自身の妄想する「天皇制」と「民主主義」とを分断して、両者を二者択一式にしてしまう悟性的な思考方法にあります。
 
「悟性的な思考」とはどういうものであるか、その破壊的な性格の危険性についてはこれまでにもさまざまな論考で検討していますから調べてください。
 
さらに言うなら、国家の真理を追求したヘーゲル哲学について、とくにヘーゲルの『法の哲学』における 「立憲君主国家体制(憲法Verfassung)」の意義と必然性についての論証を奥平康弘氏も検討されるべきだと思います。上記のリンク先のブログでも 拙劣ながら考察していますので参考にでもしていただければと思います。そうして、大学教授としての資格、もしくはその哲学の低さというものを考えられるべ きではないでしょうか。
 
ヘーゲルの『法の哲学』に対する批判を書いて、そして、その誤りを論証されてから、“「天皇制」と「民 主主義」は両立しない”と断定される理由を説明するべきだと思います。奥平氏はただ非哲学的にそう断定されるだけで、その真理であることの論証はまだなさ れていないようですから。
 
 
 
 
 ※追記20180715
本稿の記事を当ブログに公開した時点においては、奥平康弘氏はまだご存命中でした。
 
 
 
 
 
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12月4日(木)のTW:「天皇制」の合理的な根拠?

2014年12月05日 | 国家論

皇室典範の個々の規定を個別に改正して事態を収拾しようとする政策に頭から反対するつもりはない。しかし、これは対症療法でしかなく、暫定措置的な効果が期待されるに過ぎない。天皇制(天皇家)が憲法上の制度たることをやめないかぎりは、不自由・拘束は遺憾ながら制度とともに a


付いてまわらざるをえない。(奥平康弘『萬世一系の研究』S378)
※奥平康弘氏はここまで論じ来たって、君主制(奥平氏のいわゆる「天皇制」)を、人権論や男女平等論から批判しても無力であることを悟って、結論として「天皇制(天皇家)が憲法上の制度たるをやめないかぎりは」b


「不自由・拘束は付いてまわる」と言う。この奥平康弘氏の君主制国家に対する批判において、奥平氏の示している限界は、まず第一に氏が Konstitution としての憲法しか知らず、Verfassung としての憲法を知らないことにある。こうした奥平氏の憲法観の悟性的であることの c


欠陥は、実定憲法と自然憲法の区別を必要十分に知らず、たんに「実定憲法」のみをもって「憲法」と見なすことになっている。さらに第二に、奥平氏が「不自由・拘束は付いてまわる」と述べるとき、その「自由」の実体をどのようなものとみるか、いわば氏の「自由観」における欠陥、d


もしくは弱点である。奥平氏には自由における「Liberty」と「Freedom」の区別を正しく認識されておらず、奥平氏のいわゆる「自由」が悟性的な「自由」でしかないことである。 e


では一体そもそも、「女帝」論議をひきおこす根幹である天皇制には、いかなる合理的な根拠があるのか。この論議、すなわち根底に向けてあるべき論議はどうなるのか。・・・
「戦後六〇年」の間に、天皇制に関してはたくさんの議論があった。けれども、公には、a


天皇制の合理的な根拠を真正面から問題にする機会をわれわれは持ったことがない。今こそが本当は、その好機だと思う。しかし、今度もウヤムヤに終わるだろう。「女帝」論議と違って、天皇制の合理的な根拠をめぐる議論は、道具的な意味での「合理性」が問われるのではなくて、b


憲法体系に関わる政治原理のレベルで問われるべきものであって、いわゆる「公共理性」(public reason)にもとづく討議とならざるを得ない。法制官僚的には、憲法第一条から始まり第八条にまで至る「第一章 天皇」の諸規定の存在=既成事実から出発することになるが、c


「公共理性」はそうした存在自体の根拠を問うのである。
告白すれば本書では、きちんとした形では「公共理性」からの検討がなされたわけではない。しかし制度の成立存続に関する歴史研究を遂行するに当たって、意識の背景には「公共理性」からの検討という着眼が、私なりにあるのであって、d


読者が本誌のあちらこちらでは、いくばくかでもそのことに気付いていただけたならば幸いである。(奥平康弘『萬世一系の研究』あとがき  s401 )

※ここで奥平氏は 「では一体そもそも、「女帝」論議をひきおこす根幹である天皇制には、いかなる合理的な根拠があるのか。」という問いを  e


自ら発して、さらに、この「合理的な根拠」を「公共理性」(public reason)と言い換え、「告白すれば本書では、きちんとした形では「公共理性」からの検討がなされたわけではない。」と言い訳しておられる。しかし、これでは話にもならない。f


いずれにせよ本書での奥平康弘氏の論考の根本的な欠陥は、ヘーゲルの歴史的な作品である『法の哲学』を検討、検証したあとがまったく見られないことである。氏のいわゆる「天皇制の合理的な根拠」「公共理性」(public reason)については、g


すでにヘーゲルの『法の哲学』において、「国家と自然法の論理」として論証されているからである。h


 
 
※追記20141205
 
ここでノートをとりながらつぶやいた『萬世一系の研究』の著者である奥平康弘氏は、元東京大学教授で、法学部で長年のあいだ憲法学を教えられてきたそうです。ということは、奥平氏のもとで教育を受けた多くの若者たちが、今も財務省や裁判所などの政府国家機関で官僚などとして、またその他政財界においても、日本の中枢を担って働いているということです。
 
奥平康弘氏の抱いているような憲法観を、その限界を克服することも出来ない氏に教えられたまま東大法学部を卒業した若者などが、司法、行政立法における政府国家機関やNHK、朝日新聞などの新聞、テレビなどのマスコミなどに就職して、そのまま国家と国民に対して指導的立場に立つようなことになっているということです。
 
また奥平氏のいわゆる“「天皇制」は民主主義とは両立しない”といった悟性的な“結論”を実際に真に受けた在日朝鮮人などが、自らの憎悪と偏見でそれをさらにいっそう振幅させながら、自らの妄想する「天皇制」を攻撃して、日本の国民大衆の嫌韓感情を刺激するというドンキホーテまがいの悲喜劇も起きているようです。
 
こうしたことは何も奥平康弘氏だけに限ったことではないと思います。若者たちを無責任無自覚に「洗脳」「扇動」することになっている大学教授たちなどいわゆる「インテリ」たちが、日本の国家社会にもたらしている害悪の罪は、彼らの教えた新聞記者や政治家、官僚たちが日本の国益を深く損なっている例に見るように、きわめて深刻なものとなっていると言えるのではないでしょうか。
 

 

 
 
 
 
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