夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

久しぶりのブログ更新

2010年10月13日 | 日記・紀行

 

久しぶりのブログ更新


ここしばらくブログの更新を怠っていた。別に体調を悪くしたり病気になったりしたせいでもない。体調は悪くはなく、頭の中身以外にこれといって悪いところもとくにない。いずれにせよ、今のところ曲がりなりにも健康を保つことができていることも神に感謝しなければならない。

ブログの更新を怠っていた間にも、やはりさまざまな出来事があった。その中でもやはり特筆すべきは、中国人が我が国固有の領土である尖閣列島近海の領海を侵犯した事件であるだろう。

この事件は図らずも、戦後民主主義教育を受けて育った仙谷由人氏や菅直人氏ら全共闘世代の、平和ぼけした日本の政治家たちの哲学の貧困とその腰抜けぶりを明らかにすることになった。このような三流四流の人物を国家の指導者に据えなければならない国家は哀れだ。悲劇を通り越して喜劇を演じている。

尖閣列島の沖合を領海侵犯した上に、海上保安庁の巡視船に体当たり衝突した中国人船長を、せっかくに逮捕したのにもかかわらず、かつ法治国家である日本の裁判に掛けるのでもなく、現場の那覇地検に中国人船長の釈放を決めさせ、自己決断も「政治主導」もできない菅直人首相も仙谷由人官房長官も、それに便乗してほおかむりして那覇地検の一検事に責任を押しつける。

「政治主導」をこれまで一枚看板のように民主党は唱えておきながら、中国の高圧的な態度の前にあわてふためき、自己の決断で対処する姿勢も見せなかった。那覇地検の現場の検事は、この中国人船長の衝突妨害行為を、公務執行妨害で起訴する覚悟でいたのである。それを事なかれ主義の国家指導者たちは自己規制して、中国人船長を超法規的に釈放してしまった。戦争という過酷な現場で、愚かな参謀たちの指揮と作戦の許で働かなければならない気の毒な下士官や兵士たちの切歯扼腕を想起させる。

先に「中国とチベット動乱」の記事で述べたように、中国との関係については、中国が民主化されないまま現在の中華独裁国家体制が存続する限り、必ずや日本は、現在のアメリカの属国の地位から転じて中国の属国となるか、それとも中国と一戦を交える覚悟をして「自由と独立」を守ろうとするか、その選択を迫られる時がいずれ必ず来るのである。日本の指導者と国民はその覚悟をし、その準備態勢の確立を急ぐ必要があるのだ。準備とは日本国憲法の改正であり、核武装をも念頭に置いた自衛隊の解体と新日本国軍の建設である。

太平洋を挟んで、中国とアメリカという巨大な大陸国家の間で翻弄されかねない日本の危うい地位である。それは日本の地政学的な宿命でもあるのだが、現在のような状況は、第二次世界大戦当時の日本国民と国家指導者たちが、アメリカと大東亜戦争を覚悟せざるを得なかった当時の国際情勢を彷彿させるものである。

今中国は領海侵犯をしてまでも東シナ海の天然ガスなどの海底資源の掘削を始めようとしている。先の太平洋戦争においても、当時の日本国民は資源大国アメリカの石油禁輸など高圧的で挑発的な姿勢に反発したに違いないのである。

何事も物事は両面から見なければならない。共産主義中国「漁民」の尖閣列島近辺領海侵犯事件を契機として、日本国民の国家意識や主権意識が目覚め始めた。(まだ多くの日本人はアメリカインディアンのように自閉的で退廃的な世界に眠らされたままであるけれども)中国の不当なあまりにも高圧的な態度に、多くの日本国民が日章旗を掲げて街頭デモに参加し繰り出し始めた。それなのに、NHKや朝日新聞、毎日新聞などの大手新聞・テレビなどのマスメディアはその現実を一切報じることはなかった。

いわゆる「慰安婦問題」や「竹島問題」などで再々引き起こされる日本大使館前の反日デモなどについては、わずか百人足らずの集会でも、彼らは新聞テレビなどに真っ先に仰々しく報道する。一体にこの情報選択の偏向や記事報道の自主規制はいったい何に起因するのか。国民はこれら主要メディアの偏向と堕落が、国家国民と民族の退廃と衰亡の元凶となっていることに気づき始めている。新聞やテレビの私物化と特権化をやめさせ、日本国民の手に取り戻さなければならない。

さらにこの間に起きた事件として、小沢一郎氏が第五回検察審議会によって起訴されたことがある。剛腕と称される小沢一郎氏が有罪とされるだけの証拠を残しているのか、それとも無罪であるのか、もちろん私はそれを立証する立場にはない。しかし、政治家は政治とカネの問題で嫌疑を受けるようなことはあってはならないのである。昔の日本には井戸塀政治家も少なくなかった。もういい加減にあの故田中角栄氏以来に、自民党を中心にはびこった利権政治という品格なき政治を、日本も清算して行かなければならない。小沢一郎氏の起訴をそのきっかけにして行かなければならないのである。

明治の国家指導者たちは、大日本帝国憲法下で、清貧でモラルも高い官僚たちによる国家運営が行えるように、曲がりなりにもそれなりの国家機構を残して逝った。商売人か政治屋かわからない連中たちが国家の中枢に居座るような現在の政治よりはよほど品格が高かったのである。たとえ言葉やスローガンだけで「政治主導」「政治主導」と叫んでも、その肝心の政治家たちが、モラルや識見において、官僚たちの足許にも及ばないということでは話にもならない。

確かに、検察官による証拠改ざんという不祥事が生じたり、国家公務員の天下り問題に見るように、公務員の資質も劣化し腐敗し始めているのかもしれない。国家機構や制度も今や形骸化し、自由ではなくむしろ桎梏になり始めている。そのために確かに、検察官や司法制度の悪しき面ばかりを見て悪口ばかりを言う者もいる。しかし、それでも、まだ多くの有名無名の優れた日本人が、心ある経営者や国家公務員、官僚、検察官、裁判官たちが、屋台骨の崩れ始めた日本を支えていることも忘れてはならないのである。

気がついてみると、先月の九月には一本の投稿記事もない。せめて今年の暑かった夏のために遅咲きになった曼珠沙華の面影でも記録しておくことにする。

これからも、ブログ記事の更新はきわめて緩やかになるだろうと思う。書くことよりも行動すること、読むことにより力を配分したいと考えている。せめてキッシンジャーの『DIPROMACY』や『NUCLEAR  WEAPONS  AND  FOREIGN   POLICY』ぐらい読んでおこうとせっかく手に入れてあるのに、まだ腰を据えて読むこともできないでいる。何とかここ一二年は、書くことよりも、読むこと、行動することに力を入れたいと思っている。時間はいくらあっても足りない。

 

 

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