問わず語りの...

流れに任せて

孝明天皇とその時代 ①

2022-01-09 05:26:37 | 歴史、民俗

大変不敬な表現で申し訳ないですが、幕末の天皇、孝明帝は「暴れん坊」であった、と言ってもいいかもしれない。

先述したように、孝明帝の御祖父様、光格天皇の御代に天皇の幕府への発言力が徐々に高まっていき、これが孝明天皇の代で最盛期を迎えるわけです。

弘化3年(1846)、孝明天皇の御父上である仁孝天皇が、若くして病のため崩御され、満15歳の孝明天皇が践祚されます。この年、日本には外国籍の船舶が頻繁に訪れており、対外関係は緊張の度を増していました。そのような時節柄、孝明天皇はさっそく行動を開始されます。

幕府に対し、海防を厳重にするようにと、勅を下したのです。

続けて、外国船渡来の状況を、逐一朝廷に報告するよう要求します。

これらの行動は、光格天皇の先例もあったため、幕府内でもほぼ反発なく受け入れられたようです。こうして孝明天皇は幕府に外交についての報告を頻繁に求め、意見をぶつけ、これによって幕府は苦労することになるわけです。

 

勅を下した後、天皇は石清水八幡宮に勅使を派遣し、四海静謐を祈願させます。天皇の役目は国家国民のために「祈る」こと。国家の運営はあくまでも幕府に任せ、ご自身は「祈る」。これが天皇の役割。

 

孝明天皇は攘夷主義者でした。神国たる日本に邪教、異文化を入れてはならない。日本の国柄を守らなければならない。だから幕府には再三、外国を打ち払えと言い続けた。しかし幕府としては、攘夷など現実的ではない。段階的に国を開くのもやむなしとするのが、幕閣の一致した意見でした。

安生3年(1856)、米国総領事タウンゼント・ハリスが下田に着任、通商条約締結を要求してきます。これによって日本を二分する大論争が起きてしまいます。

先述したように幕閣は開国で一致、しかし諸大名では意見が分かれ、特に徳川御三家の尾張藩と水戸藩が強硬に反対し、どうにも結論が出なくなってしまう。

そこで老中首座の堀田正睦は、天皇の勅許を得ることで、問題を解決しようとするのですが......。

孝明天皇はガチガチの攘夷派。条約締結には初めから反対でした。

それでも関白の主導による朝議で、勅許を下すことが一旦は決定したのですが、天皇はこれに納得せず、孝明天皇の呼びかけに応じた下級公家たちが反対の意を唱えて参内を繰り返すなど、紆余曲折を経た結果、朝廷は勅許の拒絶を決定します。

どうも堀田正睦は天皇を「甘く」みていたようで、まさか勅許が拒絶されるなどとは完全な想定外、散々ごねたあげくに、関白の面前で泣いたと伝えられています。

 

孝明天皇はべつに幕府を困らせようとしていたわけではありません。ただ神国日本に異文化が流入することを恐れていたのです。日本がなにか、日本でなくなってしまうのではないかと、強い危機感を抱いていたのです。

国家国民の安寧を祈ることが、天皇の役割。

孝明天皇は35歳で崩御されるまで、実に数えきれないほど夥しい回数、祈りを捧げ続けました。

国家国民のための祈りを。

 

これにより堀田正睦は失脚。あの男が幕閣の中心に据えられます。

大老・井伊直弼です。

 

つづく。

 

 

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2 コメント

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Unknown (チャメ子)
2022-01-11 16:37:51
畏れ多くも、孝明天皇に感謝を捧げます。
国民のためにありがとうございます。
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Unknown (薫兄者)
2022-01-11 21:58:25
チャメさん、まだまだ続くから読んでね~。
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