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『鎌倉殿の13人』の背景② 崇徳院の怨霊

2022-01-18 17:34:18 | 歴史、民俗

平治の乱により源氏は没落、これにより平清盛と平氏一門による武家政権の基礎が築かれていくことになるわけですね。永暦元年(1160)、平治の乱の翌年には参議に任命され、武士としてははじめて公卿に列せられます。

清盛はこれを好機と平氏一門を次々と要職に登用し、いつの間にか政治の実権は平氏一門に乗っ取られるという結果を生みます。軒を貸したら母屋まで盗られた。気づいた時にはもう遅い、というパターンですかね。

仁安3年(1167)、清盛は太上大臣に任命されますが、これはいわば名誉職のようなもので実権はほとんどない。そんな役職はいらないと、清盛はわずか三か月でこの職を辞してしまう。そんな役職などなくても、実権は握っているので関係ないというわけですな。

清盛は大和田泊(現在の兵庫県神戸港)を整備し、宋との貿易に力を入れていきます。さらには厳島神社の改築などの事業を行い、政治的影響力はいや増しに増していくばかり。

後白河上皇との関係は一見良好でしたが、上皇としては面白いわけがない。その内側で対立の火種は、ブスブスと燻っていたのでしょうね。

 

さて、その頃讃岐に配流された崇徳上皇は、大掛かりな写経に着手していました。三年掛かりで五部の大乗経を写経を完成させ、これを父・鳥羽上皇の墓所に納めるよう、仁和寺に預けます。しかし後白河上皇はこれを許可せず、写本は崇徳上皇の元に返却されてしまいます。

後白河上皇より送られてきた箱を見て、崇徳上皇ははじめ、とても喜んだそうです。弟から品物が届けられた、中身はなんだろう?と楽しみに箱を開けてみたら、

写本の返却だった。

これを見た崇徳上皇は叫びながら走り出したそうです。怒りと悔しさと恨み、その激しい感情を止めることができずに走り出した。そうして

「日本国の大魔縁となり、天皇を民とし、民を天皇としてみせる」と言うと、自らの舌を食いちぎり、滴る血で大乗経に「天下滅亡」という呪いの言葉を書き記したと伝えられています。

多少の誇張はあるのだと思われますが、少なくとも後世の為政者たちは、崇徳上皇のこの呪いを信じ、恐れていたことは確かです。

崇徳上皇は髪に櫛も入れず、爪を切ることもなく、その姿はまるで天狗のようだったと伝えられ、長寛2年(1164)、怒りと失意の中憤死します。

崇徳上皇崩御の後、まもなく延暦寺の僧兵による強訴が起こり、飢饉や洪水などの天変地異が頻発し、社会不安が増大します。後白河院や二条院の縁者が次々と変死、怪死するという変事も起こり、これは崇徳上皇の祟りに違いないと、人々は恐れおののきました。

崇徳上皇崩御より13年後の治承元年(1177)、朝廷は崇徳上皇の怨霊を鎮めるため、それまで「讃岐院」と呼ばれていた上皇に「崇徳」の院号を送ります。

なにせ崩御されたときには、後白河院は知らぬふりで、葬儀も行わず、讃岐の国司による葬儀が行われたのみだったとか。仮にも一国の天皇であった方に対するこの惨い仕打ち、そりゃ崇徳院ならずとも、化けて出たくなるってもんです。

だから今更院号を贈ったところで、それで崇徳院の怒り、恨みが収まるものでもありますまい。

 

案の定社会の混乱は留まらず、後白河院と平氏の対立が深まっていく。同治承元年には、平氏追い落としを画策する「鹿ケ谷の陰謀」事件が起こり、治承3年に後白河院は平清盛によって幽閉され、院政が停止されます。これにより平清盛による平氏政権が成立するのでした。

 

崇徳上皇の怨霊は長い年月に亘って恐れられ続けました。上皇が葬られた白峯陵(香川県坂出市)の近くに法華堂が建立され、白峯寺による供養会が営まれました。

崇徳上皇没後ちょうど700年後の幕末、元治元年(1864)には禁門の変が勃発。これもまた崇徳上皇の祟りだと恐れた、時の孝明天皇は、崇徳上皇の御霊を京都に御還ししようと、京都市内に白峯宮(現・白峯神宮)の建立に着手なされますが、完成を見ることなく崩御され、この事業は明治天皇によって受け継がれ、明治の御代になってから、崇徳上皇の御霊は讃岐の地より鳳輦の輿に乗せられ、恭しい行列を組み、京都の地に御還送されたのでした。

こうして崇徳上皇の御霊は、およそ700年ぶりに京の都へお帰り遊ばしたのです。

 

 

つづく

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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Unknown (チャメ子)
2022-01-20 22:26:28
畏れ多くも崇徳天皇の御無念を思い、心より感謝を捧げます。
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Unknown (薫兄者)
2022-01-21 05:19:32
チャメさん、ありがとう。
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