幕末、動乱の時代に天皇位にあられた孝明天皇。
その孝明天皇の御事績が詳細に記載された書籍があるのですが、これはおよそ100年間に亘って、公開されなかったそうです。
封印したのは政府、より正確に言えば明治政府、もっとはっきり言えば、
薩摩、長州。
彼らにとっては、非常に不都合なことがそこに書かれていた、ということでしょう。
孝明天皇は外国嫌いで、幕府の外交方針には反対の立場をとっておられ、幕府はその対応に右往左往しておりました。この孝明天皇の発言力を利用して、長州や反幕公家は偽勅(天皇の勅ではない、偽物の勅)を乱発。政局を混乱させます。
孝明帝は幕府の方針に批判的でおられたけれど、決して「反幕府」だったわけではありません。あくまで朝廷と幕府が一体となって(公武合体)、この難局を乗り切っていくことを希望しておられた。ご自身の御妹君であられる和宮を将軍家に降嫁させたのも、朝廷と幕府双方の融和を図るためでした。
そんな孝明帝の御意志を無視して勝手なことをする、公家どもや長州に孝明帝は腹に据えかねるものを感じておられた。
そんな孝明帝の鬱屈を晴らし、長州や反幕公家を京都から一掃したのが「八月十八日の政変」で、行動を起こしたのは会津藩と薩摩藩。
孝明帝は会津藩主・松平容保公を殊の外お気に入りで、容保公に御宸翰(天皇直筆の書簡)を賜っています。一大名が御宸翰を賜るなど前例のないことで、これは大変な栄誉でした。この意を受けて、容保公は懸命に孝明帝に仕えた。会津藩は後に逆賊、朝敵の汚名を着せられることになりますが、これはとんでもない話で、会津藩、容保公ほど懸命に孝明帝に尽くした藩、人物はありません。
むしろ孝明帝の御意志を裏切るかたちで、孝明帝が嫌っていた長州と手を結び、幕府を潰した薩摩の方が、よほど「逆賊・朝敵」だと言っていいのです。
孝明帝の御事績が記載された書簡には、孝明帝直筆の手紙やら日記やらが多数記載されており、孝明帝の当時のお気持ちが事細かにわかるらしい。そこには、明治政府を立てた人々にとっては知られてはマズいことも多々書かれていたのでしょう。
だから、封印された。
孝明帝に触れることは、歴史学会においても長らくタブーだったらしく、他の天皇の研究書は多数あるのに、孝明帝に関する研究書はほとんど存在しないそうです。ここにきてようやく、かの竹田恒泰氏が、孝明帝の研究を進めておられる。
幕末、時代の中心におられたのは孝明帝であり、薩長も幕府も、孝明帝を中心に据えてそれぞれの思惑を通そうとしていた。
孝明帝でなければ、時代は動かなかったといっていい。これが歴史の真実のようです。
孝明帝あってこその明治維新であったということ、これは日本の歴史は天皇の歴史であるということのひとつの証明でもありますね。
より深く、研究が極められることを、望むものです。
私はいまさら断罪とか、そんなことをするつもりは毛頭ないのです。どんな裏があったにせよ、明治維新は日本の歴史上必要なものだったと私は思っています。
ただ、そこで何が行われたのかということは、我々日本人は知っておくべきだと思うだけです。
あの明治維新があって、それが現代に、今の我々が生きる時代に
繋がっているのだから。
それにしても、「逆賊」とか「朝敵」って、一体なんなのでしょうね。
「尊皇」って、一体なんなのでしょう?どうやら
そんな単純なものでは
ないらしい。
日米修好通商条約を締結しないと、どういうことになるのか、とか
日本航空123便墜落事故とか
そういう背景については「政治の話はダメ」でコメント削除される可能性もありますね^^;
裏にある本当の事は、公には公表出来ないわけですし。
下々の争いに目を向けさせて、真実を逸らしたい存在も居るでしょうし。
真実に迫らず、その下の争いについてだけ取り上げられて、”何が行われたか知っておくべき”、と言われても、残虐な話を見世物にしているようで読むのを躊躇してしまいます。
知っておくべきは、残虐な争い事についての記述ではなくて、もっとその上の方で行わざるを得なかった背景じゃないか、という気がします。
政治を語らずに明治維新を語っても、物語にしかならないです。
でも、兄者は物語とかエンタメにしか触れたくないのですから、これで終わりにしますー☆
薩摩の子孫として、恥ずかしさと申し訳なさで胸が痛みますが、真実を受け止め、深く反省することに致します。