ネタバレ必至。
映画の冒頭のテロップ。
「男か女かは、どっちだっていい」
これ、余計だよなあ。
こんなもん、わざわざ出さなくったって、映画を観ていれば自然に気にならなくなるというのに。
こんなもん出したら、かえって意識しちゃうじゃないかあ~。
まったく、余計だ。
子供時代のミ―坊を演じているのは明かに女の子。これはのんとの繋がりを考えてのことなんだろうけど、どうだろうね。
ここは男の子、それももっと、演技の上手い子を使ってもよかった気がする。
なんかねえ、演技があんまり上手くないのよ、もっと演技の上手い子を使ってもよかったんじゃないかって、思っちゃった。
でもね、のんに似ているんですよ、その子が。この点を一番重視したのかな。
う―む…。
でものんが登場してから以降、映画は一挙に進行し始める。のんがいるだけて空気が変わるというのか、まさしく男か女かなんて、どうでもよくなっていくんですよね。
この性を超越した透明感。これはのんでなければ出せない。のんをこの役にキャスティングした意味がよくわかる。
内容的にはホントに優しい空気が流れている映画です。
登場人物たちのほとんどはミ―坊を好きになって、ミ―坊を守ろうとする。
ちょっとおバカな不良たちとの愉快な友情、幼なじみとのちょっと切ない邂逅。みんなミ―坊のことが好きで、ミ―坊を守ろうとする。
優しい人ばかり。
でも世の中はそんな人たちばかりじゃない。いわゆる「普通」ではないミ―坊を快く思わず、嘲笑う人もいる。
例えば、元AKB48のぱるる演じる、「最近ちょっとテレビに出ているちょっと有名な人」は、ミ―坊を「いい年をして魚って」とミ―坊を嘲笑う。
また、ミ―坊の父親は、嗤うというより「普通」ではない息子を心配するあまり、ミ―坊の魚好きを否定しようとする。
両者とも「悪役」ではないんですよね。むしろこの、同調圧力の強い日本社会にあっては、こちらの反応の方が、むしろ「普通」だとさえ言えるかも知れない。
もしもミ―坊の周りがこんな人達ばかりだったら、ミ―坊はミ―坊のままではいられなかった、好きを貫くことが出来なかったかも知れない。
でもミ―坊には、ミ―坊の魚好きを全面肯定してくれる最大の守護者がいました。
井川遥演じる、ミ―坊の母親です。
この母親なしに、ミ―坊は成り立たなかった。
ミ―坊は良い環境に恵まれていました。
しかし、もし、そんな風な良い環境に恵まれていなかったら…。
この映画には、原作者であるさかなクンご本人が「ギョギョおじさん」という役で出演されています。
ギョギョおじさんとは、環境に恵まれず、さかなクンになれなかったさかなクンなんです。
この映画はコメディやファンタジーの要素が強い作品ではありますが、この社会の厳しさを、笑いのオブラートに包みながらもちゃんと描いてりる。
ギョギョおじさんが警察に連れていかれるシ―ンは、とても切ない。
この日本社会には、ギョギョおじさんみたいに、才能を開花させることなく片隅に埋もれていった人達が、沢山いるのだろう。
ミ―坊が初めてテレビ出演したときのセリフ、
「好きに勝るもの、無しでギョざいます」
このセリフの後、カメラがミ―坊、というより、のんちゃんの透明感のある瞳にズ―ムしていく。
のんちゃんの瞳はホントに透き通っていて、思わず吸い込まれそうになる。好きを貫き続けた人の瞳は、こんなにも綺麗なんだよ、ということを、のんちゃんの瞳を通して証明しているわけです。
もうね、この場面を観れただけで満足ですわ(笑)。のんちゃんの瞳に吸い込まれそうになる感覚、これを味わえるというだけで、この映画を観る価値は存分にあります。
色々気になった点も、のんちゃんの瞳で全部帳消し(笑)。
あのキラキラ感、あの透明感。
好きを貫くと、こんな素敵な人になる、
かもね、てことで
のんをキャスティングして、大正解でした。
少なくとものんファンは大満足、という映画でした。
以上。