東北ではもう上映していない......と思ったら、なんと!仙台でまだ上映されておりました!!念のために調べてみて良かったー--!!!
というわけで、とるものもとりあえず、強行スケジュールで行ってきましたよ、仙台へ!
結果、良かったわ、甲斐があった。
まずね、ストーリーがきっちりと構築されているのには驚嘆しました。セリフもかなり練りこまれていて、リアルなんだけど無駄がないというのか、観客に伝える、伝わるということに相当拘ったのが見えてくる。
普段、創作あーちすと(ひらがな表記は本人の希望)を自称しておりますので、もっとこう、雰囲気重視のアート映画なんじゃないかと思って、敬遠している人も多いのかもしれませんが、そんなことはありません。これは映画として「ちゃんと」してます。見やすいです。まずはその点を強調しておきます。
私はかねがね、のんという人は可愛いし柔らかいし、なにか浮世離れした感じがするけどその内側には強烈な「反骨精神」が渦巻いていると見ていました。ご本人自身も、自分の中には怒りがある、その怒りをポジティブな方向に転換させて、表現として生かしている、みたいなことをおっしゃっております。
とても「熱い」方なんですよね。
今回の映画作品はその、のんちゃんの「反骨精神」が思いっきり見て取れる、そんな映画だと思います。
美大生いつか(のん)は、コロナ禍で卒業制作の展示会が中止となり、無為の日々を送ることになる。
そんないつかの下を訪ねる、いつかの家族。かなり鬱陶しいが憎めない母親(春木みさよ)、ちょっと変わり者の父親(菅原大吉)、仲の良い妹(小野花梨)。そして親友・平井(山下リオ)。
これに公園で出会った謎の男(渡辺大知)も絡み、それぞれの交流を通して、いつかの人間味が語られていく。この辺の展開は結構コメディ・タッチで、コメディエンヌ・のんの才能が発揮されていて面白い。
そんな日々を過ごしつつ、鬱々とした気分が抜けないいつか。自分が青春を費やしてきた4年間がすべて否定された、無駄になったような扱われ方にたいする悲憤。それは納まるものではない。
そのいつかの想い、喜も怒も、哀も楽も、言葉で表せぬ感情を、幻想のリボンの動きで表現していく斬新さ。
この発想は面白い。
「世の中の人たちみんな、芸術なんかなくたって生きていけるんだって」このいつかのセリフに込められたのんの、すべての表現者たちの無念の想い。コロナ禍によって不要不急のものとされてしまったエンタテインメント。
本当に芸術は、エンタテインメントは、不要不急なのか?いや
それは違う!
のんの、いつかの「反骨精神」は、その想いを特定の誰かや世間に対してぶつけるのではなく、作品を作ることでその想いを表現しようとします。
表現者は表現者らしく。
※ここからネタバレあり
いつかと平井は、閉鎖されている大学の構内に忍び込み、平井が描いた画、大きすぎて運び出せず、大学に置き去りになっていた画をハンマーやのこぎりを使って破壊し、持ち帰ります。
そうしていつかは、その破壊した平井の画と、自分が描いた画に大量のリボンをつけて、一つの作品とします。
誰にも見せる機会のない、どこにも発表する機会のない作品。でもその作品には、いつかの、平井の、そしてすべての表現者たちの想いが込められていました。
声高に主張するのではなく、誰かをやり玉にあげるでもなく、世間に怒りをぶちまけるでもなく。
表現者は表現者らしく
「作品」で語るのだ。
この、いつかが完成させた作品が映し出されたときに、私は強烈な「圧」のようなものを感じて、思わずたじろいでしまいました。なにかこう、物凄い「熱量」というか「圧力」を感じて、気圧されてしまったんです。
それはただの怒りではない。こんな状況下にあっても、それでも負けないんだ!前へ進んでいくんだ!という強い意思。
そこには本当に、のんの想いが込められていたんですね。その最後に映し出された作品に、この映画の主題すべてが凝縮されていました。
見事、と言う他ありません。
映画としてはところどころツメが甘いかな?と思わせるところもあります。大学に忍び込んで警備員に発見されそうになって逃げるシーンなどは、もうちょっとスリリングに、かつコメディ・タッチで描いたら、もっと面白くなったのにな、とか。ちょっと残念なシーンもありますけどね、でも
劇場用作品第1作にしてこのレベル!大したものです。いったいこの方はどれほどの才能をその内に秘めているのだろう。
なにやら、空恐ろしくさえなりますね。
芸術芸能は、不要不急なんてものではない。それによって人生を支えられてきた人たちはたくさんいる。
人と動物とを分かつ大きな要素、それが芸術芸能。
どうか人として、芸術芸能を、エンタテインメントを
もっと大事にして欲しい。
あっ、これは、のんというより
私個人の想いです(笑)。
なかなか良い作品でした。