「なんと(710)立派な平城京」のゴロ合わせで覚えた平城京が、
「国営平城宮跡歴史公園」「県営平城宮跡歴史公園」となって、どんどん、いろいろなものが復原されている2022年に、その跡地に行ってみると
「なんと(710)もだだっ広い平城京」とゴロ合わせを替えたいほど
広い!広い!!だだっ広い!!
さてさて、連日綴っている「平城宮跡歴史公園」の続き
平城宮跡遺構展示館、平城宮跡推定宮内省に寄った後は
「朱雀門」へと
もちろん、だだっ広いので、この真夏の炎天下、歩くなんていった無謀なことはしません!!
平城宮跡遺構展示館のそばの駐車場から、「朱雀門」のある「朱雀門ひろば」の近くにある駐車場へと
あの…この「朱雀門ひろば」の近くにある駐車場だけ、有料で500円…
でも、ここまで停めてきた駐車場は全部、無料だったし、ハコモノも無料…かつ、この「朱雀門ひろば」はみどころいっぱいなので、この500円はもったいない気がしない…だって、遠くの駐車場に停めてたら、この「朱雀門ひろば」まで歩いて片道10分、往復20分のロスになるし…
ここは500円払ってでも、朱雀門をみるなら「朱雀門ひろば」の近くにある駐車場に停めるのがオススメ
さて、この駐車場に停めて、平城宮跡歴史公園、要は、そのだだっ広い平城宮跡にある「朱雀門」へと
さてさて、この「朱雀門ひろば」には朱雀門の廻りに、メインの展示史料がいっぱいの「平城宮いざない館」といったハコモノの他に「天平つどい館」、「天平みはらし館」、 復原遣唐使船 のある「天平うまし館」、「天平みつき館」などのハコモノが密集してあるんですが
時間は1時半過ぎ…ここまで、何も食べていなかったのよ…
でも、このハコモノの中の「天平うまし館」が、唯一、飲食できるスペースのようで…というよりも、だだっ広い平城宮跡歴史公園の敷地内で飲食できるスペースはここだけ
あの…もちろん、平城宮跡歴史公園の敷地外になるけど、「朱雀門ひろば」の近くには飲食できるスペースはいっぱいあるんですけど…
せっかく「朱雀門ひろば」にきたからこの「天平うまし館」で食べようかなと…
まあ、めちゃめちゃ混んでたら、たぶんやめてたと思うんですけど…時間も午後2時前…そんなに混雑はしていなくて…
さてさて、レストランとカフェが並んでありまして、レストランはお値段もやや高めの設定で、しっかり食べれるよう…
でも、ここで食べちゃうと、ゆったりくつろいでしまって、その後のハコモノを廻っている途中で、閉館時間になっては、ちともったいないかなと思って…
気軽に食べれそうなカフェの方へ
「IRACA COFFEE」
珈琲と一緒に…このメニューが気になった
「シルクロードカリー」
はい、舌でシルクロードの旅気分を満喫しました…笑
いやあ、ここ空調も効いてて…外は炎天下でしたので、ほんと、休憩がてら、実に心地よいスペースでした…
隣の席のオジサンたちからの声が耳に飛び込んでくる…
「儲かり―(カリー)まっか」「ぼちぼちでんな」
「(シルクロード)カリー」だけにね???
さてさて、天平うまし館前には、海に面しない奈良県だけど「復原遣唐使船」があって、これ、無料で乗ることができちゃうんだな…
海に面しない奈良県に、この「遣唐使(けんとうし)船」…ここに復原すべきか、どうしようか、そうとう「けんとうした(検討した)」に違いない???
このスモークの演出、めちゃいいよね!!
こうやって、眺めてると、動かないことは分かってても乗りたくなっちゃいますよね…
ここは、安倍仲麻呂になった気分で…山上憶良になった気分で…乗船をば…なんせ無料なので…笑
復原にあたって…の解説パネル
「吉備大臣入唐絵詞」の絵を参考に復原した遣唐使船は、1隻の推定長さ25~30m・150人乗り…奈良時代の資料に「約600人を4隻の船で派遣した」との記録があったようで、4隻でまとまって航海へと…150人分の水と食料、荷物などを積載して…
しかし実際に復元された遣唐使船にのってみると、この船に150人も乗って、さらに食料や荷物等を積載すれば、そうとう窮屈な感じも…
復原遣唐使船の甲板に立てば
150人も、この船に乗ったなんて、とてもじゃないが、そう思えない…狭さ
この雑居部屋が寝泊まりできるスペース…10人も寝れないほどのスペースのようにも感じられちゃう…
賄い部屋…といっても、ここで調理してたというには、程遠い…でも、お湯は沸かしていたんだって…火事になった記録も残っているよう!
遣唐大使の部屋は特別に
のぞいてみました…
誰もいませんでした…(当たり前)
網代帆
主舵
船尾へと
碇の解説パネル
遣唐使船の構造の解説パネル
遣唐使船の積荷の解説パネル
150人、乗るには狭すぎる―!!これが、正直な感想…
乗船して、唐に向かった人たちは「ほんとうに…とうに無事つけるのかな…うわっ!とうとう、嵐がやってきた…」
きっと、航海しながら後悔してたに違いない
遣唐使船から眺める「天平うまし館」
さてさて「天平うまし館」には、「遣唐使の解説コーナー」がありまして
航海(こうかい)したことを後悔(こうかい)してたかもしれない
遣唐使人物列伝がここにパネルで公開(こうかい)
山上憶良(やまのうえのおくら)
702年の遣唐使の随員として渡唐…帰国後、筑前守にまで昇進…柿本人麻呂や大伴旅人らと交流を重ね、「貧窮問答歌」など社会性のある歌を数多く残した歌人としても有名…
役所は、唐にちゃんと優秀な人材をおくらない(憶良ない)と…もとい…送らないとと思っていたことでしょう
多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)
717年に玄昉、吉備真備、安倍仲麻呂、井真成らを率いて渡唐…4隻体制となった最初の遣唐大使…往復とも一人の犠牲者もなしという快挙を遂げたとのこと…720年、持節征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷の乱を平定…
この人の快挙は「あがたもり」もとい「ものがたり」として、言い伝えられていったことでしょう??
犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)
最後の遣隋使として614年に渡り、630年の第1回遣唐使に薬師恵日らと共に遣唐大使として再び派遣された人…
相当、飲んべえだったかも…「のみすぎ」??あ、「のみたすき」でしたね
薬師恵日(やくしえにち)
渡来人を先祖に持つ薬師。593~628年に唐に遣わされ、医術を学び帰国…唐との交わりの必要性を建言し、630年に遣唐使・副使として再び海を渡ったそうな…
彼は、きっとこの航海の記録を「えにち」??もとい「えにっき(絵日記)」に描いていたことでしょう??
高向玄理(たかむこのくろまろ)
遣隋使、遣唐新羅使、遣唐使として3回渡航した人物…遣隋使の時は30余年滞在して帰国。乙巳の変では国博士となり、最高顧問に昇進…654年遣唐使として滞在中に死去…
相当、苦労したんでしょう…だから、くろうまろ…もとい…くろまろでした…
粟田真人(あわたのまこと)
大宝律令の撰修に参画後、653年の遣唐使に留学僧として同行…702年、遣唐大使として再び渡唐。唐の則天武后から人柄、礼儀、知識の賞賛を得て帰国。中納言、正三位と昇進…
これは「まこと」の話
安倍仲麻呂(あべのなかまろ)
717年、吉備真備らとともに入唐…その才を玄宗に認められ、秘書監兼衛尉卿まで昇進。李白、王維らの文人たちと交わり、帰国の宴で詠んだ「天の原ふりさけ見れば…」は有名。結局、暴風に遭い、日本の土を踏めずにかの地で死去…
たぶん、友達がいっぱいいたんだと思われます…あべのなかまだろう(安倍の仲間だろう)??
藤原清河(ふじわらのきよかわ)
752年に遣唐大使として渡唐。唐では清河と称し、玄宗の信を得て、唐朝の高官となり…幾度となく帰国を目指すが、暴風雨や安史の乱に妨げられ、唐で没する…
キモかわいい人物だったのでしょうか…もとい…きよかわいいでした…
そんな航海するのに、後悔するほど大変だったと思われる遣唐使船
「せんと」くんに乗ろうよ!と誘ったら
その大変さを知っているのか、乗りま「せんと」!…笑
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