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あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

幼子

2017-05-11 23:42:25 | 

Nicoletta Ceccoli






きみの食べ物はだあれ?

ぼくらの食べ物はママの栄養!

きみのいのちは誰のもの?

ぼくらの命は神さまのもの!

きみの涙はなんの味?

ぼくらの涙はママの血の味!

きみの一生はあとどのくらい?

ぼくらの一生は・・・・・・

彼らはそっくりなそのちいさな顔を見合わせてかんがえました。

でもこたえは見つからない。
神さまちっともおこたえしなかった。

彼らは美しい羽根でいつ飛び立つことができるだろう?
神さまなんにもおこたえしなかった。

きみを殺すことなんてわけないさ。
だってほんとうにちいさいんだもの。
殺したって、呪ったりしないと誓ってね。
だってほんとうに虫けらみたいだもの。
殺したって、水子になったりしないでね。
だってほんとうにできものみたいなんだもの。
あたしのお腹のなかにできた。
あんたたちは緑のできものみたいなんだもの。
蝶々になっても追っ駆けたりしない。
ふたりでなかよくごきげんよう。
あたしはひとりで暗い海の底、ふかぁくふかぁく沈みたい。

あんたたちはまだ生まれてない。
あたしの四角い部屋のなかでしか、生きられないんだから。

ぼくらを閉じ込めたのは、だぁれ?
あなたはぼくらのママかしら。

もうすぐ蛹になるからね!
ママはぼくらを愛してるでしょう?

もうすぐ羽化するからね!
ママはぼくらを愛してる?
ぼくらはふたりでひとつの魂。
ぼくらはつがいとなり、生まれる子供たちはすべてママの涙となってこぼれおちる。
どうか見失わないで待っててね。
ママの涙のすべてがぼくらになることを。







我が家に居る羽化を待つ紋白蝶の幼虫たち。









Anymore

2017-05-09 20:32:56 | 
あなたはわたしにとって、最も愛する存在の融合体。
あなたはわたしにとって、母であり、父であり、子であり、わたしのすべてを捧げる夫であり、わたしだけの天使のよう。
あなたはわたしにとって、わたしとわたし以外のすべての融合体。
これ以上、何処かひどい処はあるのかしら。
あなたはわたしの血の海で泳いでいる。
これ以上、何処かひどい処はあるのかしら。
わたしはあなたをもうすぐ殺してしまう。
これ以上の悲しみが、何処かにあるのかしら。
わたしはあなたをこの手で残酷に処刑する。
これ以上、何処へゆけば。
あなたはわたしにとって、此の世の素晴らしい事象の融合体。
あなたを殺す以上、わたしはこれ以上のすべての美しい存在を、この手で殺すでしょう。
もう永遠に逢えないあなたをこれ以上、苦しむことのないように。
あなたはわたしにとって、死と生の融合体。
これ以上、何処へゆけば・・・・・・?












björk: stonemilker (360 degree virtual reality)
















堕胎

2017-05-07 20:35:35 | 
わたしたちは生まれることなく、死ぬのだろうか。
この地球が、ひとつの胚盤胞であったことを、わたしは想いだした。
海は羊水であり、海と繋がる臍の緒を通してわたしたちは母の栄養を吸収している。
わたしたちの母は誰なのか、わたしたちという生命を宿す母はきっとわたしたちに似た形の巨大なる生命であるはずだ。
それは何故かと言うと、仔猿は針金だけで作られし母猿像よりも柔らかい毛で覆われたあたたかい体温のあるぬいぐるみの母猿像のほうを母親と認識するからである。
つまりわたしたちの母親は、わたしたちに似た存在でなくてはわたしたちに母親と認識することは不可能なのである。
わたしたち生命は確かに一つの胚から成長したが、わたしたちの形は様々だ。
どの形のわたしたちであっても、母はわたしたちに母親とわかるような姿であることを望むのはわたしたちではないだろうか。
わたしたちにとって、母であることをわかる母が、まさしく母だ。
わたしたちはまだ母の胎内におり、まだ生まれることを知らない。
まだ生まれてもいないのに、わたしたちは次々に死んでゆく。
母の胎内で、息絶えてゆく。
わたしたちの死の間際の悲しき声を、母が聴いていないことがあるだろうか。
何故わたしたちは生まれるまえに死に絶えてゆくのか。
生まれるまえに死ぬこと、それはわたしたちの母による堕胎ではないだろうか。
どうか生まれることなく死にゆくわたしたちと共に悲しんでください、愛する母よ。
わたしたちは皆、あなたの御顔を見ることも叶わず朽ち果ててゆくのです。
わたしはあなたの腕に抱かれる日を夢見ながらあなたに堕ろされる日が見える。
それはわたしという生命の、本当の絶望なる終末である。









🌓肛門期サディズムの復讐🌓

2017-05-06 16:35:17 | 想いで
余は肛門を愛している。

のだらうか。
何故か”肛門”というものに惹きつけられるのである。
”男根”という言葉よりも”肛門”。
”性器”という言葉よりも”肛門”という言葉に魅了されるのである。

口唇期的性格

フロイトが提唱した心理性的発達理論という口唇期、肛門期、男根期(エディプス期)、潜伏期、性器期という5つの成長段階の余は特に肛門期と男根期に問題があるように想う。

1、口唇期(0~2歳)
2、肛門期(2~3歳)
3、男根期(3~6歳)
4、潜伏期(6~12歳)
5、性器期(12歳~)


余の母上は余が2歳のときに乳がんが見つかり、見つかったときは既に末期状態であったので入院することになった。
そして余は2歳~4歳まで、余がどこで何をしていたかを家族の誰も憶えておらないという余にとっての謎深き空白の期間があるのである。
家族は皆、母の看病に忙しく、余を構う余裕がてんでなかったようである。
なので厳密に言うと、口唇期、肛門期、男根期に問題が見受けられる。

余は確かに酒が手放せない、攻撃的になることが多い、愛する存在には依存的であり慢性的な愛情飢餓がある。
肛門期はトイレ(排尿、排便)のしつけを親からされる必要があるが、母は入院しており父と姉は仕事、兄は小学校に行っていたので、いったい誰が余のトイレのしつけを行なったのか。
余はそないだ家で一人でおり、亡霊か何かの存在にトイレのしつけをされてでもいたのか。
それとも一日中糞便を捏ね繰り回して、芸術作品でも創作していたのであらうか。
そのときに、自分の肛門に耀かしい興味を持ってもおかしくはあるまい。
肛門期に問題があるとはすなわち、肛門に著しく興味をそそる何事かを経験したということではないだらうか。
でないとおかしいじゃないですか。
なんで余は肛門にときめいてしまうのですか。
何故、男根よりも、肛門に眼がいくのですか。
しかし今日の夢で余は何故か「ちんぽ」という言葉を何遍も会話の中で連発しておった。
つまり余は、「肛門」の次には、「ちんぽ」という言葉がおもろいらしい。
これも男根期に「ちんぽ」にまつわる面白い体験をしたのかもしれない。
しかし余には”ちんぽ”は生えてはおらない。
余は”肛門”はあるが、”ちんぽ”はないのである。
口惜しきかな。余は”ちんぽ”というものに憧憬と羨望を抱いていることは確かである。
しかし余は女であることを手放すつもりもなく、女を棄て、男になりたいというわけではなく、性差を超えた次元でのペニスの獲得に執着していると言えよう。
何故、余のなかに、性差を超克したペニスがいつでも誇らしげに直立に起立しているのか。

「ユング自伝①」を読み始めているが、ここに面白いユングの幼年時代の記憶が記されていた。

ユングは三歳と四歳のあいだに、一生涯、彼の心を奪う夢を視た。
彼は牧場の地下の階段を下りると、おとぎ話に出てくるような王様の見事な玉座に長さ4,5メートルの太さ約50~60センチメートルほどの奇妙な皮と裸の肉でできたてっぺんに一つ目のある物体がまっすぐ上を見つめて立ちはだかっているのを見つけ、恐怖におののく。

ユングはずっと後になって、あれは”ファルロス(男根)”であり、さらに儀式のファルロス(ファロス、崇拝の対象である男根)であったことを覚る。

そしてユングはこのファルロスが人喰いの地下の神であり、葬式の日に共同墓地に現る不吉な黒いフロックコートを着た陰気な黒いカトリック僧の男たちとイエスの宗教的(儀式的)イメージがすべて同一の存在として回帰し、幼いユングに消し去ることのできない闇を知らしめ、それは”死の神”としてその後、彼のまえに立ちはだかり続けるのである。

儀式とはすべて神なる存在に向けて、「わたしはあなたを愛しています。あなたのいうことをすべて護ります。ですからあなたもわたしたちを見護り、お恵みをお与えください」と神への忠誠なる愛を表現するための行為である。

そうです。早くも気づかれた方は多いと想いますが、男根(聖木)崇拝とは珍しいものではなく、日本にもいくつか残っていますし、旧約聖書の時代からもありました。多分それよりも遥か昔から人々は男根を崇拝していたのではないでしょうか。
ファルロスは外尿道口からはおしっこを排出しますが、同時に新たに生命を創造するための精液が同じ尿道を経由して放出されます。

この地球上に人類を絶やしてはなるまいとして、逞しくも立ち聳えるファルロスを打ち眺め、昔の人々はその素晴らしき現象に神を見いだしたのやもしれませんね。
しかしそんな神々しき生殖器官も、現代では例えばネットに画像を貼った途端に非難殺到して通報され削除されるという始末であります。

神として崇め奉るべきものをなにゆえ”いやらしく卑猥なもの”として認識されるようになってしまったのでしょうね。
まあ余は好きでもない人のファルロスを打ち眺めたいとは想えませんが、忌み嫌う必要もありません。
もっとも、芸術作品において表現されたる生殖器官、また結合というテーマはこれは非常に多く、わたしは大好きです。

生殖という現象が神秘なる官能的な人間の純粋な喜びであることを知るなら、それを芸術作品に昇華させようとする表現者の情熱は美しく、無限の可能性に満ちています。
わたしがビョークのアルバムで最も完成度の高いと想っている「ヴェスパタイン」が”愛とセックス”をテーマにしたアルバムであることは、個人間の深い愛は個人間でのプライベートな愛におさまらずしてこの世のすべてへのあたたかい愛の歌になるということを証明していると感じてとても感動します。

これと、神への愛を伝えるための儀式というもの、そして崇拝する対象がなんであれ、それを神として崇めることは同じことだと感じるのです。
神への愛とは、個人的な愛ではなく、神の愛によって自分が生かされるようにと、神にすべてを捧げて神に仕えつづけるという無私なる愛です。

ファルロスが聳え立つ日が訪れなくなるならば、この世は滅び去ってゆくのである。
余が、嬉しそうに「ちんぽ」と繰り返すとき、それは「神を愛しています」と唱えているのと同質なのである。

では、「肛門」についてはどうかと訊ねるなら、これもまったく「神を愛している」と神に向かって叫んでいるのである。
そして、「肛門」ならば余にも存在する。
ビョークの元パートナーであるマシュー・バーニーは、人体器官を様々なものへと変成させてゆくプロセスを神秘的に表現し続けている現代美術家だ。
そのバーニーは、理想とする「さまようケツ」について語ったという。(美術手帖1995年7月号より)

またマルセル・デュシャンの作品に似て、バーニーの作品を支える神話にも性の問題、つまり男と女の差異が関わっている。
バーニーのこの神話の扱い方の新しさは、ふたつの性をいちどきに想い起こさせ、その距離を維持して、両性間にセクシュアルな交歓が行なわれているという印象を与えつづける能力にある(1991年作の壁をよじのぼるヌードは、「高い敷居:肛門サディズムの戦士の飛翔」と命名された)



🌓ふたごのケツ🌓


その間にも、アーティストとしての個性がしだいにかたまりつつあった。
サンフランシスコ現代美術館で「新作」展が開かれた1991年ともなると、タイトルはおおげさでドゥローイングはあいまいだったけれども、独特な表現が形成されつつあるというたしかな手応えが感じられるようになった。
タイトルは詩となり、相互の結びつきはとめどなくふくらんで、ついにはどの作品をとっても他のすべての作品の一部のように思えるようになり、おどけた感じがして、ジョークは淫らさを増した。
挿入、自慰、便秘、さらには濡れ濡れといった言葉が目立つとともに、わかりにくい語呂合わせもちりばめられた(「高い敷居」ならなんとか見当もつけられるが、「痔的気晴らし屋」だの「盲目の会陰〔訳注:肛門から、女性では後陰唇交連まで、男性では陰嚢までの部分〕」となるとお手上げだ。)



バーニーが肛門サディズムというとき、それは人間の「性差をなくしたいという衝動」を意味していた。

一定ではない、いかようにも変わりうる曖昧なもの、あるいは曖昧なものが形をつくるその過程に関心を寄せるのは、バーニーのこれまでの作品に一貫している。
さらに、このヴィデオ作品(クリマスター4)を自ら「生殖器(発達)前の」と形容していることを考えれば、バーニー版「ヰタ・セクスアリス」と読めたこの物語も、男らしさの儀式であるより、男女の性を超えた摩訶不思議なそれだからこそ逆に可能性ある境界線の外といったものを暗示しているようだ。
「生殖器前」とは、男女を区別する生殖器が未分化な7-10週目の胎児の段階をいうのである。

こうして、男女の性であるより子どもの性に近いバーニーの領分は、エロティックなるも無垢であり、たとえば初期の裸のパフォーマンスと女装の組み合わせにしても、映像から受ける印象は、遠いギリシャの昔、クーロス(少年像)は裸で、コーレ(少女像)は衣装をまとって表現されたというその程度の区別でしかない。

もっとも、男女の性を超えるとは、しばしば倒錯的なことを意味するものだ。
バーニーのトンネルのひとり舞台を眺めていると、サド伯爵の「すべての性のファンタジーは母の子宮に源がある」なる託宣から、六ヶ月の胎児のまま父ゼウスの太腿に縫い込まれ「男の子宮」から生まれ出たディオニソスの誕生秘話まで、性や生にまつわる古今東西の数奇な物語がさまざまに浮かんでくる。



マシュー・バーニーの作品にわたしが魅了されてしまったのは、わたしが表現しようとしている世界と彼の表現しようとしている世界が驚くほど似通っているためであったことがわかった。
わたしも確かに、いや、余も確かに、生殖器前の表現を常にしようとしている。

男女差(ジェンダー)を生々しく感じるものはわたしのなかでは優れた作品ではない。
もっとも官能的で恍惚なるものとは、男女差を超えたところにこそ在ることを知っているからである。
性の官能とは、拘れば拘るほど、愛すれば愛するほど性差を超え行くものなのである。

わたしが性を表現するとき、それは性別を超えていなくては面白くないのである。
その為に、わたしは女でも男でもなく、また中性としての性に拘泥しているわけでもなく、なんにでもなりたいようになれる、これが美しき生命の神秘なる性というものであるのだと感じる。

わたしは確かに「ケツ」が好きですし、「ケツの穴」が好きですし、「ちんぽ」も好きですが、同時に「ヴァギナ」や「クリトリス」にも同じほどに恍惚なる神の喜びを感じています。
わたしは如何に自分が性のしがらみから解放されることができるかが今生での人生のテーマであると感じています。

とりあえず、わたしのこの激烈な性に対する執着の深い性格を考えると、2歳から4歳までの空白期間に、性にまつわる決定的な体験をしたように想像せざるを得ない。
そのあいだに、わたしは何者かによる性的な体験をさせられた可能性は高いと考えられる。

誰かはわからぬが、そのときちょうど兄は性的な好奇心に溢るる9歳と10歳時であった。
またわたしは5歳の頃には従兄弟の男の子と11歳時の兄の二人から同時に性的な欲求を向けられ捕まえられて泣き喚いていた記憶(具体的には二人に取り押さえられ、パンツを脱がされ、ケツを丸出しにされたのである)があり、また10歳時の頃は兄からよく性的な欲求を向けられ、嫌がって逃げ出しトイレに閉じ籠っては父が帰ってくるまで脅えていたのである。

あとはわたしはエホバの証人の母(母はわたしが4歳と9ヶ月のときに他界)から、母の元気なとき(わたしが2歳までの頃のはず)にエホバの証人の子どもへのしつけ方法である愛の鞭(うちは革ベルトを三重に折った鞭であった)によって、生ケツを何遍と叩かれていたこともわたしのケツ好きと関係していると考えて良いだろう。


とりあえず・・・マシュー・バーニーの「肛門サディズム」を象徴している映像からの画像を貼って今日は記事を終えようと想います。


「Cremaster 3(2002)」より







これはバーニーのケツの穴から腸みたいのが出てきてそこから殴りつけられてへし折られた歯が出てくるシーンです。
とても意味不明でサディズムな肛門を表現している芸術的なショットだと想います。








終末論者

2017-05-05 16:06:39 | 随筆(小説)
今日はなんて心地の良い日だろう。
まるで生まれ変わったような心地だ。
きっと素晴らしい夢を見ていたのだろう。
それを書き留めようと想っていたが、まどろみのなかに二度寝したらすっかり忘れてしまった。
あたたかいベランダへ出て、枯れた草を引き抜き、わたしは新しく大麦若葉の種を撒いた。
枯れた根の蔓延るプランターの土にもちゃんと育ってくれるだろうか。
今日はなんて碧落に晴れたそよ風の吹く日だろう。
この地球とも、もうすこしでお別れだ。
もうすこしでこの地球という星も、何者の生命をも暮らすことの叶わない星となる。
海は涸れ果て地は砂漠となる。
産みは彼果て血は裁くとなる。
わたしは罪を、みずから贖う為、この青く美しい星に降り立った。
わたしの罪は重苦しく、もう何度生まれ変わったか憶えてもいない。
何度生まれようとも、わたしはわたしの罪を贖い切れないことを知っている。
それほど深く生きる世界が色を失うほどの罪をわたしに課したのはわたしである。
わたしはこの贖罪の為に生まれる星は、地球以外に存在しないことを知っている。
この地球では、罪を贖いきるということ以外のすべてが叶う。
この地球では、罪を滅ぼさないための種がどこにでも落ちている。
この地球では、何者をも愛さないことがわたしに叶わない。
この地球では、何者かを愛することはすなわち罪の種を撒くことになる。
わたしは滅びたいとは一切願わない。
永久に罪を贖いつづけたいと願うわたしが滅ぼされることは、この世界の愛の滅びを呈している。
わたしはこの世界の愛を信じている。
「愛はけっして滅びない」(コリントの信徒への手紙一 13章8節)わたしが滅びゆくとはすなわち、この世界すべての愛が滅びゆくときである。
永遠に、罪を滅ぼすことのできない罪深いわたしにも、あなたは涼しい霊の風でわたしの頬を懇(ねんご)ろに撫でてくださる。
わたしはもう何をも、見てはいない。あなた以外の何をも。
わたしには見えないのです。
わたしはいつの日かあなたと、この永遠に贖い切れない罪をわたしに課しつづけてくださることを懇願し、あなたはそれを快く許容し、わたしをあなたの国へ迎え入れてくださり、わたしとあなたは契約を締結した。
わたしは今、この地球上すべての生命が滅びゆく日が見える。
とても静かに、一つびとつの命が崩れおちてゆく姿が見える。
あなたはわたしの願いを、けっして裏切らない。
もう何も、見ることはない。
あなた以外の何も。












繭の綻び

2017-05-04 20:07:49 | 
嗚呼、あなたと、セックスがしたい。
暮れゆくあなたはなんと美しいのだろう。
あなたの産声が聴こえてくる。
嗚呼、今!あなたの貌を飛行機が切り裂いた!
あなたは情けのうちにそれを受容し、
点滅する飛行機が、あなたの子宮口へと入ってった。
そこにわたしは乗っているのです。
このやわらかな流線形の白い飛行機を操縦して、あなたの愛に着地しようと試みています。
あなたは暗くなってきた。紅碧の雲の透き間に、白縹色の薄い脣であなたは微笑っている。
あなたは次に脣を閉じて、わたしに何かを言いたげだ。
もう綻ぶことのない傷を、あなたは開こうとしている。
もう滅ぶことのない息を、あなたは抱こうとしている。
もう喜ぶことのない岸を、あなたは開こうとしている。
あなたの夢を、わたしは閉じた。
あなたの傷を、わたしは閉じた。
わたしの傷を、あなたは閉じた。
わたしの夢を、あなたは閉じた。
あなたと交接できるなら、どんな方法でもとろう。
一歩ずつ、わたしはあなたへ近づいている。
二歩ずつ、あなたとわたしは近づいている。
もうすぐあなたは見えなくなるが、わたしは近づきつづける。
あなたが繕ってくれた縫い目を、ひとつひとつほどいてゆく。
そこからすべての内容物が溢れだし、わたしは皮一枚となる。
わたしはひらひらとこの白いからだを翻し、
あなたの子宮に着き、無事に繭となりました。

嗚呼わたしの外界は、あなたの膜とわたしの繭の接合体であった。
これが綻ぶことのないようにと、お祈りせずにはおれません。










腐れおめこの堕ろした胎児

2017-05-04 03:12:27 | 
おまえの言いたいこと、俺はわかってるよ。
ずっとあれから苦しくて痛くて怖いんやろ。
おまえの訴えが、俺にのりうつったんだよ。
俺もわれの首を、引きちぎられる思いだよ。
おまえを堕ろした母親を俺が来世で首引きちぎってやるから安心しろ。
え?そんなこと望んでない?
おまえの首引きちぎった堕胎医の首を引きちぎってやるから安心しろ。
え?そんなこと望んでない?
ほなおまえは何望んでるねん。

胎話士は心を澄ませて水子の霊の声を聴いた。

なるほど、おまえは母親にどうしても産んでもらいたかったんやな。
でも諦めろ。あんな女、母親でもなんでもない。
おまえを殺した女だ。
おまえの首を生きたまま引きちぎってでも、殺した女だ忘れろ。
あんな雌豚より、俺のほうがおまえを愛しているよ。
なに?そんなことあらへん?
っちゃっ、馬鹿言っちゃって、あんな腐れおめこ、どこがええねん。
おまえの母親はなァ、おめこが腐っとんねん。
もう、ずくずくやねん。
もう、どろどろやねん。
もう、びだびだやねん。
おまえも脳みそ腐っとんのか。

触るな、雌豚、雌犬、おまえがこうしてワレの水子の霊を成仏させてほしいゆうて俺を呼んだんやんけ。
静かに胎児と話をしたいからもうちょっと向こうの部屋に行っててほしい。

ほんまに母親を愛しとるゆうならな、もっと地獄の底で業火に炙られるほど苦しめたらんかい。
炎上しつづける覚悟も無いなら人殺すなっちゅう話や。
俺なんかたった10mmほどの細い幼虫の首を、野菜を切ると同時に切断してしまっただけで血の気が引いて心臓がばくばくするほどのショックを受けたよ。
俺のこの感性の半分でもあれば胎児を殺すことなどできへんねやろな。
なに?もう帰ってくれ?あほ言え、俺おまえを天に帰すまで帰られひんねん。
おまえがいつも傍におったらな、新しい男と気持ちよくセックスできへんから厭やねんて。はっ、腐れ戯けが。
おまえはどんな想いで、母親が知らん男とセックスしているところを眺めてるんやろな。
どんな想いで、俺は見てたっけな、もう忘れたわ。
おまえは俺の過去やけど、今晩も知らん男に抱かれる母親のすがたを、親指しゃぶりながら眺めてるんやろな。














ナラク

2017-05-02 07:40:54 | 
メバチコメバチコドツイタロカ。
メバチコメバチコブンブンブン。
メバチコメバチコドツイタロウ。
メバチコメバチコブンブンブン。
ヤレ、ソラヨ、ソラヨ、ソラヨ。
ヤレンソラヨ、ソラヨ、ソラヨ。

テナガエビのメバチコタロウは今日も海の底、青く青く沈んだよ。
ダレカサンの脳膜大手術、長い前肢メスにして。
神鳴り届かぬ穴の底、真っ暗クラクラオッコチタ。
シラナイサカナがそれ視てた。
アブクヲブクブクそれ看てた。
手を延ばせばトドキ草、イジラシイジラシ環っぱっぱ。
ドツイタロウは蘚ムシタ。
ナミダウカベテ枌おちた。
ナラクは楽々園延々円沿。
嫩どはそれ観て蟲けらく。

メバチコメバチコドツイタロカ。
メバチコメバチコブンブンブン。
メバチコメバチコドツイタロウ。
メバチコメバチコブンブンブン。
ヤレ、ソラヨ、ソラヨ、ソラヨ。
ヤレンソラヨ、ソラヨ、ソラヨ。

メバチコタロウは今日も前肢メスにして。
ドツイタロウをどついたろか。
神様見世物、いつ何時野間に。
哭くけど哭くけどうみかれた。
青い穴にサソワレテ、大事の貝殻オトシタヨ。
ナラクがそれ観てツウジッタ。
カシラを仰いでまじないった。
遣れ、空よ、空よ、空よ。
破れ、空よ、空よ、空よ。
















エントロピー

2017-05-02 00:57:05 | 随筆(小説)
わたしは多くの、数えきれない負い目を背負って生きています。
その負い目というものが、わたしの創造に於ける原動力となる内的要因です。
わたしの世界に、加害者と被害者という立場はありません。
しかしわたしはいつでも負い目を感じて生きていることは、自分がすべてに対して加害者の立場をとっていることと変わりはないのかもしれません。
それもすべて、わたしが創造をつづけていくための意識的な意志のもとにある自分の生き方になります。
わたしの表現するすべては、わたしの負い目から生まれてきています。
わたしから出る言葉はすべてわたしの負い目から出来ているのです。
この負い目というものがわたしの中からなくなってしまったとき、わたしは死んでしまうのだと感じています。
わたしはいつも申し訳ない気持ちで負い目を作らせて貰っています。
負い目を作っていくことはとても楽しく、それも創造的なことだと感じています。
しかしすべてが赦されることではありません。
いくらナラティヴなわたしだからといって、何をしてもいいはずはありません。
わたしはするべきでないことはしなくとも良いのです。
やりたいことだけをやっているとわたしはわたしの創造に自負しています。
といってもわたしは「自負」という言葉は好きではないのですが、「負目」と「自負」って字が似てるなと思って、そこに面白さを発見したのです。
愛を表現するためには、愛を感じ難いものを同時に表現する必要があります。
良いと感じるものを表現するためには良いと感じられないものを同時に表現していかなければならないのです。
それは好意と嫌悪が交じり合うことです。
それは恍惚と不快さの境目が見えなくなることです。
それは実在と虚構がセックスすることです。
それは本質で出来た偶像か、偶像で出来た本質かわからなくなることです。
それは魅惑と反発が共存し、依存し合うことです。
それは*プロジェクトの本質―プロジェクト下での様々な条件を克服するというエントロピー的なシステム―と密接な関わり
がそこに生まれるということです。
表現はすべての条件を克服するエントロピー的なシステムを求めているのです。
何か一つ表現すると、その克服された表現もひとつの条件となります。
表現には終わりはありません。
心から表現を喜ぶ人は、永劫に喜び続けることができるでしょう。
表現の喜びを真に知る者は、滅び去ることを求めることはありません。
わたしが何故、すべての永遠を望み、この地球と生命を心から愛しながら終末論を唱えるのか、あなたにはわかりましたか?
わからない奴は、それまでです。











*マテリアルマシュー・バーニーへのインタヴュー