あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

🌓肛門期サディズムの復讐🌓

2017-05-06 16:35:17 | 想いで
余は肛門を愛している。

のだらうか。
何故か”肛門”というものに惹きつけられるのである。
”男根”という言葉よりも”肛門”。
”性器”という言葉よりも”肛門”という言葉に魅了されるのである。

口唇期的性格

フロイトが提唱した心理性的発達理論という口唇期、肛門期、男根期(エディプス期)、潜伏期、性器期という5つの成長段階の余は特に肛門期と男根期に問題があるように想う。

1、口唇期(0~2歳)
2、肛門期(2~3歳)
3、男根期(3~6歳)
4、潜伏期(6~12歳)
5、性器期(12歳~)


余の母上は余が2歳のときに乳がんが見つかり、見つかったときは既に末期状態であったので入院することになった。
そして余は2歳~4歳まで、余がどこで何をしていたかを家族の誰も憶えておらないという余にとっての謎深き空白の期間があるのである。
家族は皆、母の看病に忙しく、余を構う余裕がてんでなかったようである。
なので厳密に言うと、口唇期、肛門期、男根期に問題が見受けられる。

余は確かに酒が手放せない、攻撃的になることが多い、愛する存在には依存的であり慢性的な愛情飢餓がある。
肛門期はトイレ(排尿、排便)のしつけを親からされる必要があるが、母は入院しており父と姉は仕事、兄は小学校に行っていたので、いったい誰が余のトイレのしつけを行なったのか。
余はそないだ家で一人でおり、亡霊か何かの存在にトイレのしつけをされてでもいたのか。
それとも一日中糞便を捏ね繰り回して、芸術作品でも創作していたのであらうか。
そのときに、自分の肛門に耀かしい興味を持ってもおかしくはあるまい。
肛門期に問題があるとはすなわち、肛門に著しく興味をそそる何事かを経験したということではないだらうか。
でないとおかしいじゃないですか。
なんで余は肛門にときめいてしまうのですか。
何故、男根よりも、肛門に眼がいくのですか。
しかし今日の夢で余は何故か「ちんぽ」という言葉を何遍も会話の中で連発しておった。
つまり余は、「肛門」の次には、「ちんぽ」という言葉がおもろいらしい。
これも男根期に「ちんぽ」にまつわる面白い体験をしたのかもしれない。
しかし余には”ちんぽ”は生えてはおらない。
余は”肛門”はあるが、”ちんぽ”はないのである。
口惜しきかな。余は”ちんぽ”というものに憧憬と羨望を抱いていることは確かである。
しかし余は女であることを手放すつもりもなく、女を棄て、男になりたいというわけではなく、性差を超えた次元でのペニスの獲得に執着していると言えよう。
何故、余のなかに、性差を超克したペニスがいつでも誇らしげに直立に起立しているのか。

「ユング自伝①」を読み始めているが、ここに面白いユングの幼年時代の記憶が記されていた。

ユングは三歳と四歳のあいだに、一生涯、彼の心を奪う夢を視た。
彼は牧場の地下の階段を下りると、おとぎ話に出てくるような王様の見事な玉座に長さ4,5メートルの太さ約50~60センチメートルほどの奇妙な皮と裸の肉でできたてっぺんに一つ目のある物体がまっすぐ上を見つめて立ちはだかっているのを見つけ、恐怖におののく。

ユングはずっと後になって、あれは”ファルロス(男根)”であり、さらに儀式のファルロス(ファロス、崇拝の対象である男根)であったことを覚る。

そしてユングはこのファルロスが人喰いの地下の神であり、葬式の日に共同墓地に現る不吉な黒いフロックコートを着た陰気な黒いカトリック僧の男たちとイエスの宗教的(儀式的)イメージがすべて同一の存在として回帰し、幼いユングに消し去ることのできない闇を知らしめ、それは”死の神”としてその後、彼のまえに立ちはだかり続けるのである。

儀式とはすべて神なる存在に向けて、「わたしはあなたを愛しています。あなたのいうことをすべて護ります。ですからあなたもわたしたちを見護り、お恵みをお与えください」と神への忠誠なる愛を表現するための行為である。

そうです。早くも気づかれた方は多いと想いますが、男根(聖木)崇拝とは珍しいものではなく、日本にもいくつか残っていますし、旧約聖書の時代からもありました。多分それよりも遥か昔から人々は男根を崇拝していたのではないでしょうか。
ファルロスは外尿道口からはおしっこを排出しますが、同時に新たに生命を創造するための精液が同じ尿道を経由して放出されます。

この地球上に人類を絶やしてはなるまいとして、逞しくも立ち聳えるファルロスを打ち眺め、昔の人々はその素晴らしき現象に神を見いだしたのやもしれませんね。
しかしそんな神々しき生殖器官も、現代では例えばネットに画像を貼った途端に非難殺到して通報され削除されるという始末であります。

神として崇め奉るべきものをなにゆえ”いやらしく卑猥なもの”として認識されるようになってしまったのでしょうね。
まあ余は好きでもない人のファルロスを打ち眺めたいとは想えませんが、忌み嫌う必要もありません。
もっとも、芸術作品において表現されたる生殖器官、また結合というテーマはこれは非常に多く、わたしは大好きです。

生殖という現象が神秘なる官能的な人間の純粋な喜びであることを知るなら、それを芸術作品に昇華させようとする表現者の情熱は美しく、無限の可能性に満ちています。
わたしがビョークのアルバムで最も完成度の高いと想っている「ヴェスパタイン」が”愛とセックス”をテーマにしたアルバムであることは、個人間の深い愛は個人間でのプライベートな愛におさまらずしてこの世のすべてへのあたたかい愛の歌になるということを証明していると感じてとても感動します。

これと、神への愛を伝えるための儀式というもの、そして崇拝する対象がなんであれ、それを神として崇めることは同じことだと感じるのです。
神への愛とは、個人的な愛ではなく、神の愛によって自分が生かされるようにと、神にすべてを捧げて神に仕えつづけるという無私なる愛です。

ファルロスが聳え立つ日が訪れなくなるならば、この世は滅び去ってゆくのである。
余が、嬉しそうに「ちんぽ」と繰り返すとき、それは「神を愛しています」と唱えているのと同質なのである。

では、「肛門」についてはどうかと訊ねるなら、これもまったく「神を愛している」と神に向かって叫んでいるのである。
そして、「肛門」ならば余にも存在する。
ビョークの元パートナーであるマシュー・バーニーは、人体器官を様々なものへと変成させてゆくプロセスを神秘的に表現し続けている現代美術家だ。
そのバーニーは、理想とする「さまようケツ」について語ったという。(美術手帖1995年7月号より)

またマルセル・デュシャンの作品に似て、バーニーの作品を支える神話にも性の問題、つまり男と女の差異が関わっている。
バーニーのこの神話の扱い方の新しさは、ふたつの性をいちどきに想い起こさせ、その距離を維持して、両性間にセクシュアルな交歓が行なわれているという印象を与えつづける能力にある(1991年作の壁をよじのぼるヌードは、「高い敷居:肛門サディズムの戦士の飛翔」と命名された)



🌓ふたごのケツ🌓


その間にも、アーティストとしての個性がしだいにかたまりつつあった。
サンフランシスコ現代美術館で「新作」展が開かれた1991年ともなると、タイトルはおおげさでドゥローイングはあいまいだったけれども、独特な表現が形成されつつあるというたしかな手応えが感じられるようになった。
タイトルは詩となり、相互の結びつきはとめどなくふくらんで、ついにはどの作品をとっても他のすべての作品の一部のように思えるようになり、おどけた感じがして、ジョークは淫らさを増した。
挿入、自慰、便秘、さらには濡れ濡れといった言葉が目立つとともに、わかりにくい語呂合わせもちりばめられた(「高い敷居」ならなんとか見当もつけられるが、「痔的気晴らし屋」だの「盲目の会陰〔訳注:肛門から、女性では後陰唇交連まで、男性では陰嚢までの部分〕」となるとお手上げだ。)



バーニーが肛門サディズムというとき、それは人間の「性差をなくしたいという衝動」を意味していた。

一定ではない、いかようにも変わりうる曖昧なもの、あるいは曖昧なものが形をつくるその過程に関心を寄せるのは、バーニーのこれまでの作品に一貫している。
さらに、このヴィデオ作品(クリマスター4)を自ら「生殖器(発達)前の」と形容していることを考えれば、バーニー版「ヰタ・セクスアリス」と読めたこの物語も、男らしさの儀式であるより、男女の性を超えた摩訶不思議なそれだからこそ逆に可能性ある境界線の外といったものを暗示しているようだ。
「生殖器前」とは、男女を区別する生殖器が未分化な7-10週目の胎児の段階をいうのである。

こうして、男女の性であるより子どもの性に近いバーニーの領分は、エロティックなるも無垢であり、たとえば初期の裸のパフォーマンスと女装の組み合わせにしても、映像から受ける印象は、遠いギリシャの昔、クーロス(少年像)は裸で、コーレ(少女像)は衣装をまとって表現されたというその程度の区別でしかない。

もっとも、男女の性を超えるとは、しばしば倒錯的なことを意味するものだ。
バーニーのトンネルのひとり舞台を眺めていると、サド伯爵の「すべての性のファンタジーは母の子宮に源がある」なる託宣から、六ヶ月の胎児のまま父ゼウスの太腿に縫い込まれ「男の子宮」から生まれ出たディオニソスの誕生秘話まで、性や生にまつわる古今東西の数奇な物語がさまざまに浮かんでくる。



マシュー・バーニーの作品にわたしが魅了されてしまったのは、わたしが表現しようとしている世界と彼の表現しようとしている世界が驚くほど似通っているためであったことがわかった。
わたしも確かに、いや、余も確かに、生殖器前の表現を常にしようとしている。

男女差(ジェンダー)を生々しく感じるものはわたしのなかでは優れた作品ではない。
もっとも官能的で恍惚なるものとは、男女差を超えたところにこそ在ることを知っているからである。
性の官能とは、拘れば拘るほど、愛すれば愛するほど性差を超え行くものなのである。

わたしが性を表現するとき、それは性別を超えていなくては面白くないのである。
その為に、わたしは女でも男でもなく、また中性としての性に拘泥しているわけでもなく、なんにでもなりたいようになれる、これが美しき生命の神秘なる性というものであるのだと感じる。

わたしは確かに「ケツ」が好きですし、「ケツの穴」が好きですし、「ちんぽ」も好きですが、同時に「ヴァギナ」や「クリトリス」にも同じほどに恍惚なる神の喜びを感じています。
わたしは如何に自分が性のしがらみから解放されることができるかが今生での人生のテーマであると感じています。

とりあえず、わたしのこの激烈な性に対する執着の深い性格を考えると、2歳から4歳までの空白期間に、性にまつわる決定的な体験をしたように想像せざるを得ない。
そのあいだに、わたしは何者かによる性的な体験をさせられた可能性は高いと考えられる。

誰かはわからぬが、そのときちょうど兄は性的な好奇心に溢るる9歳と10歳時であった。
またわたしは5歳の頃には従兄弟の男の子と11歳時の兄の二人から同時に性的な欲求を向けられ捕まえられて泣き喚いていた記憶(具体的には二人に取り押さえられ、パンツを脱がされ、ケツを丸出しにされたのである)があり、また10歳時の頃は兄からよく性的な欲求を向けられ、嫌がって逃げ出しトイレに閉じ籠っては父が帰ってくるまで脅えていたのである。

あとはわたしはエホバの証人の母(母はわたしが4歳と9ヶ月のときに他界)から、母の元気なとき(わたしが2歳までの頃のはず)にエホバの証人の子どもへのしつけ方法である愛の鞭(うちは革ベルトを三重に折った鞭であった)によって、生ケツを何遍と叩かれていたこともわたしのケツ好きと関係していると考えて良いだろう。


とりあえず・・・マシュー・バーニーの「肛門サディズム」を象徴している映像からの画像を貼って今日は記事を終えようと想います。


「Cremaster 3(2002)」より







これはバーニーのケツの穴から腸みたいのが出てきてそこから殴りつけられてへし折られた歯が出てくるシーンです。
とても意味不明でサディズムな肛門を表現している芸術的なショットだと想います。