あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

ディスユートピア

2016-06-17 16:18:18 | 空想コラム
さいきん 廃人になろう ってサイトに入り浸ってる

へえ、おもしろそうなサイトだね

うん、すごくおもしろい

どんなひとたちがあつまってるの?

世界中の廃人があつまってるよ

それは可笑しいね 廃人になろう ってサイトなのに すでに廃人のひとたちがあつまってるんだね

そう 廃人だから 廃人というレッテルに敏感で だれより興味をもって
あつまってくるんだ

廃人っていっても いろいろだとおもうけど どんなひとたちがいるの?

いろんなひとがいるけど 共通するのは みんな疲れ切ってるひとたちばかり
半数は働いてるひとで 半数は引きこもりやニートが多い

どうしてそんなにつかれてるの?

いろいろだよ 実際になんらかの精神疾患をもってるひとも多いけど
家族を養っててエリートのひとも多い

家族をもってて エリートなのに 自分を廃人だとおもってるの?

そう そんな恵まれた自分の境遇を呪ってるひとも多いよ

引きニートとかからしたら 贅沢な悩みに思えるのだろうね

いや だれも 羨ましがらないよ そこにいるひとたちを みんな苦しんでるのがわかるから
どこに転がってもおんなじなんだ それをわかってしまっているから 廃人の心でいるんだ

廃人からぬけだしたいと だれもおもってないの?

おもってないよ 思ってるなら 廃人になろう なんてサイトにはやってこない
おもってないから 廃人なんだ

ぼくには わからないな

きみは廃人じゃないもんね

うん ぼくは廃人じゃないな

廃人 ってキーボードで打とうとすると 廃人の次の予測候補に 「は異常者」って出てくるんだ

多くの人がそうおもってるから予測候補にでてくるのかな

そうだよ 人々の想念をコンピュータが感知してそれを自動的に登録しているんだ

ちょっと ぼくのなまえで打ってみて

○○○○○○○ 打ったよ

なんて予測候補にでてきた?

「は馬鹿な顔」って出てきた

ひどいや

ははは 気にすることないよ

気にするよ

きみの一番の親友のぼくが言ってるんだから 気にすることないよ

そうかな

そうだよ

じゃ 気にしないことにしよう

多くの人のレッテルを逆手にとって きみも「馬鹿な顔になろう」って思ってればいいんだ

そうするとどうなるの?

どうでもよくなる どうでもいいことで悩む必要はないな そう思えてくるよ

それってさ 廃人になろう ってサイトにあつまってるひとたちもそうなの?

そうとも言える みんなどこかで自分が廃人だと思われていることに傷ついている
そんなつまらない価値観を壊したいんだ

でもそれって じぶんがいちばんじぶんを廃人だと思ってるんでしょ?

その通りだよ 自分でそう感じてないなら傷つくこともない

それじゃあ 自分の価値観を壊すために 逆手にとろうとしているんだね

それはまちがってないけど 実際はそう単純じゃないんだ

どういうこと?

それはつまり 自分のその価値観に一番価値を置いているから その価値観を壊すことは自分の存在意義を壊すことに他ならないからなんだ

おかしな話だな 壊そうとしているのに壊そうとしていないってこと?

そう 対立する二つの考えが同時に存在していて矛盾していることに苦しんでいるってこと

でも くだらないという価値観に価値をおいても くだらないという価値観が変化しないのはどうしてなの?

だってくだらないと感じている価値観に価値をおいてるんだから そりゃ変化はさせたくはないし させられないだろう

でも 価値を置くってことは くだらなくはならなくなるってことじゃないの?

だから価値観自体はくだらなくはない くだらないと感じる物事はくだらないまま

それっておかしいよ くだらないものがあるおかげでくだらないという価値観が存在していて その価値観に価値を置くんだから くだらないものもくだらなくはならないはずだよ

くだらなくならなければ 価値は感じられないよ くだらないとは感じないという価値観には価値は置くことはできない

つまりそれって くだらないと本当は感じてないけどくだらないと感じていることにしているってことじゃないの?

だれが?

きみだよ

いや 真にもってくだらないよ 廃人とか きちがいとか 暗い人間 明るい人間 異常者とかいうレッテル ラベル貼りはね

そう感じることにきみは価値を置いている でもそれは本当はくだらなくなんかないって思ってるからその逆手の価値観に価値を置けてるんだよ

くだらなくなんかない?それはつまり廃人である自分というレッテルを貼っている自分を本当は肯定しているってこと?
気持ち悪いよ、そんなナルシストにはならない

でも「気持ち悪い」「ナルシスト」っていうレッテルを貼ることがくだらなくて、その価値観に価値をおいてるんだろう?

そうだよ

きみはくだらないなんて本当は思ってないよ 感じてないね

レッテル貼りがくだらないと思ってないってことはそのままレッテルを貼って価値を決めているってこと?

ちがうよ きみはレッテルすら貼ってないんだ 自分を本当は廃人だとは感じてないんだよ だからどんなレッテルを貼ろうが関係ない どうでもよくなる くだらないと感じてないからくだらないという価値観が面白くって価値を置いてるんだよ

自分は本当は廃人だけど廃人とは感じたがってないってこと?

きみは自分を廃人だと思ってるの?

ぼくは……どうでもいい そんなこと

でも「廃人」というレッテルに敏感なのは確かだよね

そうだね 自分のことを言われているように感じるよ

傷ついている そんなレッテルはくだらないと そう感じようとしている

感じてないから感じようとしているのか

きみは 自分を廃人だとは思ってないから 廃人だと思おうとしている

そして 廃人とかいうレッテル貼りはくだらないよなという価値観に価値を置くことを自分の存在意義にして生きることを今やってるんだ

それじゃ「廃人になろう」のサイトに集まってくる人たちも 本当は廃人だと自分で感じている人たちじゃないの?

そうだよ 自分を廃人とは感じてないけど きみと同じように廃人になりたがっている人たちなんだ

廃人になりたがってるなんて 本当の廃人からしたら贅沢な悩みに映るんだろうね

本当の廃人はきみたちのことを見てこう思うはずだよ
「ああ かつての 自分だ」ってね

ぼくたちは 本当の廃人へ向かっているんだね

そう 賢者のような廃人へ

うん なんだか生きる勇気が湧いてきたよ ありがとう
お もうこんな時間 ちょっとスーパーへ行ってくるね家に何にも食べ物がないんだ

















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2016-06-16 13:41:28 | 空想コラム
今RadioheadのDaydreamingを聴きながら目の前を白い雨雲が早く流れているのを見ている。
煙のような雲がどこへ流れ着くのだろう。

次の曲「Decks Dark」もすごく好きになった。



しまつた、プロポーズは日本語ではなかつた。(今頃気づいた)余がとんでもない馬鹿で天然だということが皆様にばれてしまう。
しまつた事を書いてしまつたあ。
もう、こうなつたら、自棄だ。
余は今日から即興詩人になることにした。
さつそく、詩が浮かんだので書いてみるマロミ〜。
(昨夜また「妄想代理人」を全話いっぺんに観て8話と最終話で泣いたよ)





「影」

人間つて、よく、逃げるつつつて言うが
いつたい、なにから逃げる?
ははは、んなもん決まつとる。
そは、影だ。
それを良く人間つて現実逃避とか言うよね。
では訊くけども、現実つてなに?
よーく、よーく、考えてみたい。
現実逃避した場所はほんまに現実ではないのか。
では何処にいる。
❶空想の世界
❷妄想の世界
❸夢の世界
❹虚構の世界
❺死の世界
❻天国
❼地獄
❽漫画の世界
❾ゲームの世界
➓小説の世界
11.映画の世界
12.アニメの世界
13.ヴァーチャルの世界

まあこんなところじゃないか。
現実逃避というからには、そこは現実ではないはずだ。
何故なら現実から逃避した処がまた現実だつた場合、何してんねん、という話になる。
それ逃避やなくてただこつちの現実からあつちの現実へ移動しただけですやんけ。
そは、逃避と言うべからず。
それは逃避ではない。
現実を直視しろ、そうよく言うけれども
現実と、そうではないものの区別つてどうなつてるんだ。
現実と幻想
現実と理想
とよくいうけれども
「幻想ばかり見ていないで現実を受け容れろ」そうは言つても、現実つてなんだろう。幻想つてなんだろう。
🆗ここを解りやすく区別しよう。
現実=不快なもの
幻想=快いもの
こうしよう。はつきりとした区別だ。要は現実と幻想の区別は自分で決めるものであり、その感覚と感情が知つている。
とどのつまり、人間は不快なものは現実と呼び、快いものは幻想で括りたい性質を持っている。
しかし、その区別は簡単に崩れてしまうものなのである。
何故ならば、ああ俺は今幻想を見てるよな、これじゃあダメだ、現実を見なくては。そう言つて今の自分はダメなんだと思うことで、幻想の中に居ながら快さを手放そうとするからである。
幻想=快いもの
これが破壊される。人間は幻想を快い皮を被った快くないものとしてそれを壊そうとする。
しかし快くないものとは即ち、現実である。
現実=快くないもの
人間は幻想を壊そうとして現実を壊そうとする。
実は、ああ俺は幻想を見ている。と気づいた瞬間から現実になるのに、その現実を壊そうとする。
幻想をいつまでも見ていてはダメだと。
でも彼は幻想を本当のところで見てなどいない。そこは苦しい場所であり、そこは現実的である。
現実から逃避しているのではなく、現実を見るために彼は幻想を見ようとしている。
幻想=理想
理想があるが為に、現実は苦しいものになる。
幻想を思い浮かべれば思い浮かべるほど、人間は現実から逃げられなくなるのである。
現実に拘束され、現実でしか生きてはいけなくなる。
皮肉な話、現実から逃避するほど現実に暮らすことになる。
苦しく逃げ出したくなる世界。
なんでそうなるかというと、幻想とは空っぽでなんにもないというのを人間は潜在的にわかっているからである。
だから不快なものから逃げて快いものを手に入れようとするが、快いものはまるで砂塵でできたパンのように手に入れた瞬間から崩れ始めるので、それを食い止めようと苦しんでもがき始める。
人間とは何処へ行つたつて、何をしたつて、現実からは逃れられないようにできている。
快いものにずっと浸って生きることが叶わない。
現実を生きなければならないのではなく、人間は現実を生きたいと思つている。
それは現実にこそ喜びがあることを人間が知っているからである。
本当に現実逃避している人が在るなら、その人は喜びも苦しみも不快も快さもなんにもないところで生きている。
感覚をすべて失ったところに生きている。
それは死の世界か?ノン。そんなこと死んでみないとわからない。
死ぬことは、それは逃避とは言えない。
むしろそれまでより遥かに苦しむかもしれない可能性がなきにしもあらずなのだから。
現実とはまるで、自分の影だ。
逃げても逃げてもついてくる。
楽な場所へ、明るい方へ逃げるほど影は薄くはなるのだけれども、その薄い影は消えることはない。
むしろ安易な明るみへ逃げることによって現実という影は不気味にも薄く笑いかける。
楽な場所、安易な明るみとは即ち、安易な快さを求めることである。
簡単に快さを求めようとすればするほど薄気味悪い自分の影がそこにぼわっと立っていて
気色悪さは消えず、結句人間は薄っぺらい快さしか感じられない。
どうしたらいい?
苦しいよ。自分の影から逃げることができない。
この影を消す場所、影を消す場所…
光と影がもやもやと区別されたその空間に私は一つ真っ暗な巨大なドームを見つけた。
近づくと得体の知れないブラックホールのように私を吸い寄せる。
この中に入ればきっと影は消えるだろう。こんなに真っ黒な空間なのだから。
私はその大きな闇の中へ入った。
最初は何も見えなかった。
私の影は消えたのではない。
私の影はこの巨大な闇と一体化し私を包み込み始めた。
おおよそ私はそれを予想していた。
しかし仕方がなかったのだ、此処以外に私の居場所は見つけられなかった。
巨大化した私の影は私を休ませる一瞬さえ与えはしなかった。
今までの苦しみはちっぽけだと感じるほどの苦しみの中で息をし続けていると、次第にその空間の中に様々なものが見え出してきた。
それらは私の苦しみをさらに深めるものばかりだった。
しかしそれらは同時に愛おしくてならないものばかりだった。
私は私の巨大なる影の中に生きて苦しみながら愛おしいものたちに囲まれていることの喜びを感じている。
その喜びは日々増大している。と同時にこの空間の影も日々膨張しているようだ。
私はこうして自分の影を育てながらその影の中でしか見つけられなかったものたちと共に生きることが何よりも喜びであり、また何よりも苦しくて仕方ないのである。








私と私の影の写真








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Kill A People Love ~愛が人を殺す~

2016-06-15 19:58:29 | 存念
理想のぷろぽーうって言うと、ぷろぽーうって何?
私は日本語をしっかりと話せないのかっ。
理想のプロ―ポーズというと、私はなんといってもアレですね。
あのアニメの中のプロポーズです。
「妄想代理人」っていう今敏監督のシリアスなアニメの第三話のあのプロポーズが
私は大好きで、いいな、すごくいいプロポーズだなと思うんです。
でもまたこのプロポーズする男性がそれを狙ってたらダメなんですよね。
ごく自然に、本人が本当にふっと思いついてプロポーズするというような
狙って出せるプロポーズじゃないんですよね。
真剣に好きなあまりに「お茶、淹れてもらえませんか」と同じ調子で言ってしまった。
みたいなプロポーズなんです。

ただかなりシリアスなアニメなので、ちょっと何度も観る気になれないという
あそこだけ観てもしょうがないし、観るなら全編通して観なくちゃダメだし
ダメだので、勇気が要ります。

このアニメはほんと、シリアス過ぎるんだよな……好きなアニメなんですけれども。
でもこのアニメはこの世の真理が隠されているようなアニメで、それだけにとても深いアニメなのです。

疲れた現代社会を癒す人気マスコットキャラクター「マロミ」をデザインした鷺月子は、ある夜、通り魔少年バットに襲われた。突如世間に現れた少年バットは次々と人々を襲いはじめ、市井の人々を恐怖へと陥れていく。しかし、幾人も被害者が出、多くの目撃者がいるにもかかわらず、少年バットは一向に捕まりそうになかった。
少年バット事件を担当する刑事の猪狩慶一と馬庭光弘は、捜査を進める中で、被害者の持つ『不思議な共通項』に辿り着く。


というストーリーで一見少年犯罪のアニメかと思われるかもしれませんがまったくかけ離れたテーマなんです。
不思議でぞわぞわと来るある意味犯罪とかの何百倍もの怖い話です。

人間の価値観、概念などをぶっ壊すようなテーマと言えます。

そうゆうものをお求めの方は是非ご覧になったほうがいい。すごく面白いアニメです。
しかも音楽は平沢進です。

でもそのプロポーズだけが気になって仕方ないという方はこの第三話の


【妄想代理人】【第3話】『ダブルリップ』



これだけ観てみてください。(セックスシーンの音声から始まるので音量には気を付けてください汗汗汗)
人間の闇、そんなものを覗きたい人もこのアニメは面白いと思います。
なんかちょっと笑ゥせぇるすまんっぽい言い方な気がしたけど
笑ゥせぇるすまんも怖い漫画だよなぁ…

人間の闇を描いた漫画……「惡の華」って漫画も途中まで読んでたけれども、一体どういう終わり方をしたんだろう。
そういえば楳図かずおの「洗礼」って漫画も最後まで読めてない。
望月峯太郎の「ドラゴンヘッド」は昔に読んでものすごく面白かったですね。
こういうテーマの小説は一度は書いてみたい。
極限状況で人がどう化けるか、というのはよくテーマにされているけれども
化け方というのも一人一人違う化け方なんじゃないかと思うし、それを想像だけで作り上げていく作業というのは
非常に難しくて面白いと思います。

「人間の闇を描いた漫画、鬱になる漫画」で調べてましたが
私の一番好きな華倫変(かりんぺん)の漫画を挙げている人が一人もいなかった。
あんな漫画を描ける人はもう現れないんじゃないか。
華倫変という人は、まさに極限状況で描き続けた稀有な鬼才の漫画家でした。
人間のどうしようもない闇を描いているのにあんなに切ない気持ちになる漫画は他にありません。
あんなに美しい切なさのある漫画は他にないなぁ……

なぜ美しいかというと、ものすごく深い悲しみで描かれているからです。
なぜ深い悲しみは美しいのかというと、悲しみで普遍的で代表的なものというと、
愛する者を失うこともあると思いますが、愛されないことの悲しみだと思うんです。
これは自分含めての。
自分が自分に愛されないことの悲しみ。
なぜ悲しいかというと、愛されたいと人間は願っているからです。
愛されたいのに愛されていないことの悲しみ。
愛されたいと望むこと、愛を求めること自体が私は愛だと思っています。
なんでその悲しみ(愛)は美しいかというと、愛というものを美しいと人間は感じる本能があるからだと思うんです。
その愛が深いほど美しいと感じるように人間は創られている。

マザー・テレサは「この世で一番大きな苦しみは、一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです」と言いましたが、大きな苦しみは大きな悲しみと言い換えていいと思います。
これは実際そういう人のことではなく、そうだと自分で感じている人という意味だそうです。
「誰からも自分は愛されていないように思う」その「誰からも」というところに自分も入っているわけです。
それが苦しいほど、その人は愛を求めていることになります。
愛を求めることは愛であるので、その人、その存在自体が愛です。
自分が憎い、自分が嫌い、だと感じている人もそれは苦しいことですから、その苦しみ自体が愛であることの証なのです。
深い自己憎悪、自己嫌悪から様々な問題や犯罪は起こりますが、それも愛の仕業なのです。
「愛が人を殺す」「Kill A People Love」をGoogle翻訳すると「人々が愛して殺す」と出ました。

愛はこの世で一番苦しく悲しいものであり、一番美しいものなのです。






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シド アンド ナンシー

2016-06-15 02:35:58 | 映画
こんばんは。今、布団の中にいます。布団の中といっても、薄いブランケットを掛けてる状態なので、実質、布団の半中という感じです。寝そべりながらスマホで投稿してみようと思います。

することがなくて寂しいので好きな映画の話でもしようかなと思います。

私が好きな映画はいくつもありますが、一番好きな映画はアレックス・コックス監督、ゲイリー・オールドマン主演のシド・アンド・ナンシーという86年の映画です。



これは70年代後半にパンクブームを引き起こしたSex Pistolsというバンドの夭折したシド・ヴィシャスというベーシストと、シドが誤って殺してしまったナンシーという恋人の破滅的な恋愛を基にした映画です。

この映画は私はお酒なしでは観れない映画です。
つまり正常な感覚ではとても観ていられないほどに私にとって悲しい映画なのです。

観終わった後はいつもずっと泣きじゃくりながら錯乱しています。

ある時はあまりに錯乱して夜中に頭をハサミで坊主にしてしまい、髪の毛をいっぱい身体につけたまま寝て、起きたらノートパソコンの上にもっさりと切った髪の毛が乗っかっておりギョッとしたことがあります。

この映画はなんといっても若かりしゲイリー・オールドマンの演技が神演技で素晴らしい。神演技でしかも神脚本で神撮影です。

物語はドラッグがなければ出会わなかった二人がドラッグによって破滅していくという悲劇です。

どっちかがドラッグやってなかったら、おい、そんなことはやめろ、と言えるんですが、二人とも中毒になって、それが苦しくてたまらないことがよくわかってるから、やめようとも言えない。
ドラッグをやるのは快楽が欲しいからじゃなくて、生きてるのが苦しいから手を出してしまうのです。
愛する人が側にいてもドラッグがやめられないくらいに生きてることがつらいからなんですね。
苦しみを和らげるためにドラッグをやる、でもそれが中毒になればさらに苦しくなっていく。
苦しんでいる人間がそうして破滅していく姿を観るのは本当につらい。
二人は愛し合いながら死へ向かって真っしぐらに堕ちていくのです。
それがあまりに美しくて悲しく、感動するのです。

そしてこの映画はすごく、リアルだなあと感じるんですよね。
自分の中で神映画ですね。
観てない人は是非観てもらいたい映画です。
でも錯乱する怖れのある人は命懸けで観てください。
かなり、重い映画だと思います。



ぼくを癒すものたち(るんるん♪)

2016-06-14 16:16:56 | ザ・シムズ3
昨日ひさびさにシムズ3をやったら癒されました。
そして今日、お日様🌞にあたりながらベランダの育てた草を触ったらまた癒されたあまねです。こんにちは。
Sims3ってどんなゲーム?っていうと、自分で好きな顔、容姿に作ったシム(人間やペット)を
自分で好きに建てられたりリフォームできちゃう家、また自分で作った街にも住まわせられて
その生活ぶりをただ眺める、というゲームです。

自分で作ったシムが朝起きて飯食って糞してシャワー浴びてゲームやったりお庭でガーデニングしたり
恋人と会話したり、そんな様子をただただ眺めて「ははは」「ぽほほ」と一人で部屋で笑っているというゲームです。

ただ生活を眺めているだけで、なんでこんなに癒されるのか不思議なものです。





こんな感じで自分で作ったおっさんがテレビを見ている姿を眺めて微笑むという異様なゲームです。

家具の色も一つ一つ細かく色を自分の好きな色にできたりして、インテリア好き、建築好きの人には
たまらないゲームだと思います。

何を隠そう私もインテリアマニアで建築マニアです、自称。
シムがシャワーを浴びたりしてるところをいやらしい目で見ているわけではありません。
それに局部はモザイクがかかって見えない仕組みになっております。
誤解しないでください。
むしろ恥ずかしいから目を背けています。
本当です。
変な誤解はやめてください。





見てください。私のシムが飼っている猫です。水槽に入っているマグロを眺めています。
何故か釣ったときはでっかかったのに水槽に入れたら縮んでしまったマグロです。

奥の家はシムの恋人の男が住んでいる家です。ゲイカップルなのです。
すぐに会えるように隣に引っ越してきました。





シムが馬の夢を見ている間に猫は爪を研いでいます。なんというのほほんな風景なのでしょう。
しかもおっさんのくせにくまちゃんのベッドに寝ています。恥ずかしくないのでしょうか?





カメラをズームアウトしていくとこんな感じです。
家の前にアイスクリーム屋さんの車が止まっています。





こんな感じでのどかな風景に囲まれております。でもこの町も昨日引っ越して新しい町に今は住んでいます。

こんな家に住みたいなっ。こんなところに住みたいなっ。
そんな人間の願望を疑似体験できる人生シミュレーションゲームというわけです。

外の世界を存分に味わえない引きこもりにはもってこいのゲームです。
こうして苦しいことから現実逃避して癒されているのです。
そうでもしないと心が「牛乳に浸して一週間夏の廊下にほったらかした雑巾」みたいになるからです。





もぐもぐ、もぐんちょ、もぐんちょ。






​うちのみちたくんです。8歳です。人間でいうと65歳くらいです。
何故か大好きな大麦若葉を食べているにも関わらず不満そうな顔です。


​みちたくんの糞を肥料にして、元気に育ちまくった大麦若葉をみちたくんが食べております。
そしてまたまたみちたくんのうんちを大麦若葉が食べて、その大麦若葉をみちたくんが食べて
そのうんちをまた大麦若葉が食べ……と延々と繰り返すつもりです。






さつまいもも蔓がどんどん伸びてきています。
蔓は食べられるそうなので、もっと伸びたらなんかして食べてみようかなって思ってます。




p.s.題名の言葉の後に(るんるん♪)とつけるのは最近婚活サイトで知り合って
最後は呪詛を吐き続けて終わった人のプロフの書き方の真似です。どうしているか、心配です。(るんるん♪)






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リヴァース・スピーチ

2016-06-12 15:48:21 | コラム
水不足解消へは今年未だに発生していない台風が鍵を握る!?

正直、肉を大量に消費している先進国であるこの日本が深刻な水不足に陥ればいいんじゃないかと思いました。
そんなことでも起きないと、人々は深刻な肉食問題の危機感を感じることができない。
ああもうほんとうにやばい。となってからじゃないと、気づくことができない人がほとんどだからです。

これは私の、本音です。

リヴァース・スピーチというのをご存知ですか?

リバース・スピーチ
学研「ムー」2001年4月号掲載


自分が発した音声を逆戻しで再生してみるとそこには自分の本音のメッセージが現れると言われています。
これは人間というものがまずは言葉を右脳で逆再生の言葉で作り上げて、それから左脳でそれをまた逆再生して言葉として発しているからだそうです。
赤ちゃんが言葉を発する前に「あーあーうーうー」などと訳の分からない言葉を発していますが、あれも逆再生してみると
ちゃんとした意味の分かる言葉を発しているようです。
赤ちゃんはそのまま逆再生の言葉で意味を理解しているためにそのようなことになるのでしょう。


「このまま雨が降らなければいいのになあ。台風がもうずっとこなければいいのになあ」と言った音声をiPhoneの「Reverse Vid」というアプリで逆再生して撮ったものがこれです。
https://streamable.com/jlqu

まるで赤ちゃんの発する言葉と同じように聞こえませんか?それは私の声がロリ声だからというわけではありません。
どこかお経のようにも聞こえます。
そしてこの私の本音のさらに本音の中に「何万もの」という日本語が聞き取れました。
いったい何のことを言ってるのでしょう……。

自分の本音が一体どこにあるのか?それが気になる人はこのアプリで逆再生を何度かしていると
聞き取れるメッセージが現れるかもしれませんね。

でも「苦しくてこの状況から抜け出したい」と言った人の逆再生の言葉に「もっと苦しみたい」という本音が現れることがよくあるようにその本音が自分にとってさらに悩みの種になる可能性もあります。

私の本音は一見残酷のように思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、このまま行くと、それ以上に多くの人や生き物たちが苦しんで死んでいくと思うからです。
最悪な事態を食い止めるために、早いうちに深刻な事態が起きて、多くの人が今から変化していくことが必要なのです。

このまま肉食産業や牛乳と鶏卵産業、農薬植物の産業を続けていくと世界は破滅していきます。
肉食(畜産)が影響を及ぼす「地球環境・食糧危機」と「動物虐待」と「生活習慣病」

もしかしたらさっきの自分のリヴァース・メッセージは「雨がこのまま降らなければ、何万もの人々が死ぬだろう」という潜在意識の言葉が表れていたのかもしれない。

でもこのまま深刻な問題を避けて通っていけば未来には何万どころか、何百万、何千万、何億、何十億、という人たちが被害に合い、地球はもう再生不可能の状態になるかもしれない。
一体どうしたら多くの人たちが気づくことができるのだろうか?

雨は恵みだ、それは間違いない。しかし雨がこうして降ってくる御陰で地獄に通じた道を人々が歩まねばならないのだとしたら、この雨はまるで、未来の水不足、食糧危機で起こる紛争、戦争、殺人のために流れる多くの人の血の雨のようではないか。

地球の警告

2016-06-11 23:24:08 | 人類への警告
あと25年で「30億人分の水が足りない」状況になることを報告したウィキリークスがリリースした機密文書 : 原因は世界中で進行し続ける過度な肉食

30億人分って、3人に1人くらいは水が足りない時代がやってくるってことですね。
たった25年とかで地獄絵図のような時代がやってくるかもしれない。


牛肉、牛乳、トマトなど、生産に大量の水を必要とする食品(PDF)の価格が、水不足を反映し始めている兆しがある。

出ましたね。トマトの生産にも大量の水を必要とする。それでRadioheadの「Burn The Witch」の警告的なビデオにトマトが出てきたわけか……?





農薬野菜は質より量という栽培方法なので、無農薬野菜と農薬野菜、同じ栄養分を摂ろうとすると栄養価の低い農薬野菜のほうが多く摂らなければならず、多く栽培しなくてはなりません。
少ない量で同じ栄養価が摂れるわけですから、よって水の量も農薬野菜よりも無農薬野菜のほうが使う水量が少ないわけですね。
また農薬や化学肥料を洗い流すのに大量の水を消費せねばなりません。






肉よりも野菜、乳製品や卵を買わない、農薬野菜よりも無農薬野菜を選択しなければならない時代が刻々と近づいてきています。





毎日毎日爆音で発せられ続けている警告はいま飢えで苦しんでいる人たちや動物たちの絶叫でできています。
でも多くの人がそれに気づかない。





資本主義、今が良ければそれでいい、自分が良ければそれでいい、という洗脳にかかってしまっているからです。
でも今60歳の人だって、25年後にまだ生きてるかもしれない。
25年後の今、自分がどういう世界に生きているか想像してみましょう。


脳内タイムスリップしてみましょう。
どういう世界がそこにあるか。喉がああ乾いたな。お茶でも飲むか。と冷蔵庫を開けてみるが、そこには一切飲み物がない。
どないなってんねん。と。茶を沸かすか、と水道をひねる。一滴も流れてこない。な、あほな。と途方に暮れる。
う~ん頭が痒いな。風呂入るか。シャワーを浴びようと風呂の水道をひねるが、そこもまた出てこない。
トイレで糞したくなり糞をしたものの、レバーを何度回せど水が流れてくれない。糞は何日も便器の中にほったらかされ、蛆虫が湧いてくる。
ネットでミネラルウォーターを注文しようと検索してみたがどこの店も売り切れである。
外に出てスーパーで水か茶ァを買おうとしたらば、どこのスーパーも売っておらない。
なんでやねん。どないしたらええねん。喉が渇いて死にそうだ。しかも水分を摂れそうな胡瓜とか果物系もまったく売ってない。
それもそのはず、3人に1人は水に飢える時代がやってまいりましたので、その時代に脳内タイムスリップしておりますのであたり前やんけど阿保。とおっさんは自分で自分の頭にツッコミを入れました。
というか、60歳のおっさんが25年後にタイムスリップしてるので、今は85歳の爺さんです。
元気です。でも飲む水がない。
喉がからっから。自分の腕切って、血ィ飲んだろか、と思い始めるほどヤバイ精神状態になってきています。
「喉乾いた。喉乾いた。水、水、水、水、水……」と言いながら往来を歩いていましたらば、なんと目の前にコーラかペプシ系の炭酸飲料を美味そうに喉を鳴らして飲んでおる見た目金持ちの坊ちゃん風な装いの若旦那がおるではないか。
この機を逃してなるものかァっと思いワシはその若旦那に「ごるぁっ」と叫びながら突進していき飲み物を奪いさらしてけつかった。
ごくっごくっごくっ。ぷっはーっ。こんな美味いもん飲んだのは生れてはじめてじゃわい。
そう思いながら飲んでると後ろからどたまを鈍い音と同時に衝撃が走りワシはその場にぶっ倒れった。
頭から生温かい血がどくどくと流れているのがわかる。
う~ん、この血、飲みたいな。まだ飲み足らない。そう思いながら意識が遠のいてった。

若旦那は若旦那で当時は2016年の時は0歳の赤ん坊だったけれども、赤ん坊も一緒に脳内タイムスリップしてみたので、そうやって想像してたらば、変なジジイが俺の、俺様の約一億円で買うたペプシを横取りしやがるやんけ?あんなジジイ殺して正解。っていうか?俺が殺してなかったら多分あいつ俺か誰か殺してでも絶対飲みもん奪い去らしてけつかってやがったでな、きっと。
うん、ほんとマジ殺して正解。あ、まだぴくぴくと動いてけつかる。若旦那は持っていた石でもう一度思い切り頭をぶん殴った。
鈍い音がして爺はそれきり動かなくなった。ははは、ざまあみさらせ、あほんだら。
しかし若旦那もそんな金があるわけでもなく、最後には頭がおかしくなって人を殺して内臓を引っ張り出しそれを裂いて血を吸ってるところを警官に見つけられ逮捕された。

「正義感が強く馬鹿真面目」で通っていた警官も最初のうちは自分の出した精液と尿を飲む毎日だったが、やっぱり綺麗な水が飲みたくなり、銃で警察署内の人間を全員撃ち殺し、一人一人の家に行って水を探そうと思ったが、殺した同僚の持ち物から家鍵を探っていると同僚の妻が小さな子供を抱いてこちらに向かって微笑んでいる写真を見つけて我に返り、自分の口の中に銃口を突っ込み引き鉄を引いた。

悪夢を見て目が覚めた赤ん坊は自分の未来を見たような気持になり大変苦悩した。
やがてその赤ん坊が成長し母親と父親に向かって最初に口に出した言葉というのが「にく、くうの、やめろ」だった。

SOFT BALLET

2016-06-11 19:39:35 | 音楽




50歳とか言っても、まだまだ全然若いと、藤井麻輝みたいな人を見ると思いますね。
純粋で仕方ない人って年取らないですよね。
感情を抑えることなく人々の目も気にせず外に出したり。
そういう人はたびたび人を困らせ傷つけて苦しめてしまう。
でも裏がないから憎めない、孤独だけれど人に愛されやすい。
すごく魅力的だなと思います。

でもそういう人はなんでも表に出すので、時に取り返しのつかないことをしてしまう。
感情に正直で、それを誰に対しても隠すことが苦手な人がいるんです。
藤井麻輝見てると、まるでうちの兄を見てるみたいに思えてくる。
見た目も雰囲気も性格も似てる。
私も兄にさんざん言われてきました。
でもそれは愛情の裏返しなんだと私はよくわかっています。
本音をあえて言う、それは実は相手に対する愛情なんだと私は思うんです。
相手は確かに傷つく、私も相当傷ついて、無意識のところでトラウマにもなっているかもしれない。

でもそんなあまりに不器用な愛情でしか人を愛せない人がいるんです。
私はそんな兄のことが今でも大好きだし、家族だけれどそんな兄は美しいとさえ思います。
なんでかというと、そんな人は感情を表に出し人を傷つけるたびに自分自身も深く傷ついている人間だからです。
相手を傷つけるとわかってても、それがやめられないんです。
藤井麻輝は今とんでもなく苦しんでると思います。

スピリチュアルの世界では親が子供の魂の成長のために自分が早くに死ぬことを生まれる前から決めて生まれてくるんですよね。
藤井麻輝と森岡賢の縁もそんな深い縁なんだろなと思います。
森岡賢の深い愛情がこんなに藤井麻輝を悲しませる結果になったんじゃないかと思います。

人間の運命というのはすごく悲しくて、素晴らしくて美しいです。

昨日はここでダウンしてしまい更新できませんでした。

森岡賢と藤井麻輝はSOFT BALLET(ソフトバレエ)ってバンドで遠藤遼一がボーカルで86年から活動してたのですが
81年生まれの自分はほぼ存在を知りませんでした。
でも聴いてみると「BODY TO BODY」って曲を覚えていました。


Soft Ballet - Body to Body



ちょうどその時代で彼らと同年代の姉に昨晩訊いてみましたところ、やっぱし「ソフトバレエならアルバム、2,3枚持ってるで」と返ってきました。
当時でもSOFT BALLETは他とはちょっと一線を画した変わったバンドという印象があったようです。

平沢進が大好きな私はヒラサワと最近一緒にライヴをやっていて、インタビューなどを読むと二人とも大変苦労してきたことを感じられ、結構気になっていて陰ながら応援していたminus(-)のメンバー森岡賢の訃報を聞いてショックを受けたのですが、心配なのは残された藤井麻輝という50歳にしてあまりに純朴な男のことです。

東日本大震災が起きて「音楽で復興を」と叫ばれる中に、それよりまず原発に行って働いて助けになろうと考えるミュージシャンが一体この世界に何人いるか?
信じられないくらいに捨て身で真面目で人情味に溢れた人間です。
結局家族に反対され建築現場で働きだしたが、なんでも完璧にやりこなそうとする彼はいい加減に仕事をこなす人間たちと衝突し、その後、山に籠ってすべての人間との連絡を絶ち、山を歩き飯食って寝る、という考えられない生活を約7か月過ごす。

スマホ・SNS・ネットが手放せられない人がほとんどと思えるこの時世でよく7か月もそんな生活ができたなと思いますね。

SOFT BALLETのデビューアルバム89年の「EARTH BORN」を今聴いていますが、youtubeで観たときはちょっと古さを感じたのが、じっくりとアルバムで聴くとかなり良いんだよなぁ……。




昔にも一緒にやってたんですね。
minus(-)のアルバム、お金なくても買っときゃよかったと今更後悔しています。

愛が深いほど傷つけてしまうことがあるんです。
それを、私は言いたい。
傷つき果てているであろう藤井麻輝にも言いたい。
がんばれ、がんばれ、と多くのファンと一緒に心の奥から振り絞った声で声援を送っています。









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Catharsis

2016-06-09 17:25:07 | 音楽



昨日はいつもは一杯のお酒を二杯飲んでいました。ツルメリン錠って気分のあまねです、こんにちは。
あれだけぼろ糞に抜かしていたレディオヘッドの新作をもう通しで19回は聴きましたが
聴くほどパワーをもらえているような心地になっています。

今までは劇的にカタルシスを覚えるような曲をたくさん書いてくれたレディオヘッドですが
今作は劇的なカタルシスは何処にも起こらない。
でも何回も何回も聴いていると、それまで感じていた気の抜けた寂しい感覚を超えて清々しさに近い感覚を覚えてき始めています。
これはまるでじわじわと知らないうちにこの身を侵食しだすウィルスのように広がってくる一つのカタルシスの状態だと言える。
今作は腑抜けの殻を被っていた怪物であったというわけです。

思わばレディオヘッドではKID A以来のどうしようもなく胸を苦しめる作品でした。
そういった意味でもこの作品は怪物作品です。
最初に聴いたときはこれといって何も残らず、いいアルバムとはとても思えなかった。
それが聴いていくうちにどの曲も素晴らしいと感じ始め癖になりだしている。

でもそれはある意味、麻痺しているのかもしれない。
きつい薬を飲んで、最初は副作用が強く起きていたが、徐々に何も起こらなくなってきて効き目を実感できるようになってくる薬のような。
ドラッグも最初は吐いたりして非常に苦しみを伴うが、だんだんと慣れていき快楽だけを感じるようになっていく。
負の感情といわれる、悲しみ、寂しさ、苦しみ、という感情が強く入っている作品もまた、同じ作用を引き起こすのやも知れまい。
それは間違いなく、カタルシスです。

カタルシスとは恍惚な感覚に浸り、幻覚を見ているような心地になる。
感覚が麻痺して起こる快楽と同じで、言い換えるなら強い痛みを緩和する脳内麻薬エンドルフィンのような作用と同じなのかもしれない。

つまりそこに在る苦しい感情、悲哀や寂寥感や空虚感、喪失感などが強ければ強いほど苦しいわけだから、
苦しいほどにそれを緩和しようという作用が引き起こされ、そして甘美で恍惚な深いカタルシスが起こり出す。

それもすぐは起こらず、十分この苦しいものを味わってから起こり始める。
それは苦しみを長く感じるほど大きく救われた心地になることだろう。

だから苦しみを長く感じていられる人は幸せです。
そのあとにはとんでもなく大きなカタルシスに包まれるはずだからです。






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Extreme state

2016-06-08 23:20:19 | 日記
こんばんは。さっきまでシリアルキラーのネットサーフィンをしていて落ち込んでいましたが
ご飯を食べてお酒を飲んでレディオヘッドの新譜を聴いているうちに早くも元気になったあまねです。



できればやめたかった。でもやめられなかった。
 わたしには他に何の喜びも幸せもなかったのだ。



これは今まで何度か調べたことがあるが、今日もまた調べていたイギリスのシリアルキラーのデニス・ニルセンが逮捕された後に言った言葉です。
あまりに美しい言葉です。
楽しいことが殺人ではない人、幸せなものが殺人ではない人、すべて彼を非難する資格などない、そう思いました。
自分は楽しいこと幸せを感じることが殺人ではないからやってないだけではないか。
どうしてそんな人たちが彼を非難できうるのだろう。
彼はできるならば殺人をやめたかったんだ。
多くの人と同じような平凡な日常を送ってみたかったんだ。
平凡な日常のなかささやかな喜びを感じながら、お日さまの下で暮らしてみたかったんだ。
でもやめられなかった。
腐敗しきった匂いの充満する部屋で暮らし、赤黒いぬめついた血に手を染めながら喜びを感じて生きるしかなかった。
そこに太陽の光は決して射さない。射しても、光を光と感じることができない。
彼の人生は、人を殺めた瞬間から光を遮る真黒な膜に覆われてしまっているからだ。

彼を非難する人たちは想像することができるだろうか。
一番の楽しみ喜びが殺人でそれをやめたくてもやめられないこと。
もう二度と光の射す場所を生きることはできないその道が、どこまで続いているか、見えないことを。

彼はどこまでその道を歩まなくてはいけないのだろう。
たったひとりで。

そんな寂しい道を歩いている人間が今もたくさんいる。

ほとんどの人間が極限状態に置かれたら人を殺し、その肉を喰らうだろう。
ではこの世界で、目には見えない極限状態の中で殺人を犯して生きている人間の叫びは、なんて言われるかというと多くの人に「異常者」と言われる。

極限状態に生きてるちゅうてんのんに。異常者とか、殺人鬼とか、よく軽く言えるなと思うが、でもいつか気づくよ、極限状態に陥りさえすれば、彼と自分はそう変わりのない人間なんだと。

自分だって食べ物がなくなれば人を三日に一人は殺して解体して頭部を圧力鍋でぐつぐつ煮込みながら果ては鼻歌を歌っているかもしれない。
「うーんやっぱし人間の頭部はカレースープが一番美味いかな」とか言っているかもしれない。
「人間の内臓のモツ煮込みは最高だ」
「人間の脛肉はおでんに入れると格別なんだよな」
「人間の脳みそはわさび醤油で食べると意外と旨い」
「人間の指はそのまま焼いて食うと手羽先食ってるようでいい」
「人肉ステーキはやっぱし腹回り肉のミディアム・レアがいいね、脂乗ってるもんね」
「人肉ハンバーグは大根おろしとポン酢が美味い」
「人肉唐揚げはレモンをかけないよりはかけたほうがいい」
「人肉ハヤシライスにはトマトピューレを入れるのを忘れないでね」
「人肉ラーメンにニンニクはいらない、もし入れるなら、「にんにくにんにく(人肉ニンニク)」なんてことになるが、それでもいいのか、やめたほうがいい、それよりかは「にんにんにくにく」にしたほうがまだいい」

自分の出てるフェスの会場の舞台に肉を焼いている匂いが流れてきて「肉を焼いている匂いがしている。これが人間の肉を焼いている匂いであることを願うよ」と言ったのはザ・スミスのヴォーカル、モリッシーである。

自分は牛の肉も豚の肉も鶏の肉も肉食をやめてからは人肉にしか見えないので、ネットなどでも写真を見るたびに気持ちが悪くなる。

「アミ小さな宇宙人」の世界では「肉なんか食べないよ。考えただけではき気がする。罪のないかわいいニワトリやブタやウシを殺して食べるなんて!なんてざんこくなんだろう……」などと驚かれる。
つまり彼らにとっちゃ地球の動物の肉を食べる人は異常者に映ることだろう。

しかし多くの人は自分が異常者であるとは思わない。
何故なら彼らは多数派であり、少数派ではないからだ。

死刑に賛成する人のほうが多数派であれば、それが正常な考えだと思っている。
殺人者を異常者扱いする人間のほうが多ければ、それが正常な判断だと思っている。

でも誰もが極限状態に置かれたなら、考えは変わるのではないか。
宇宙人アミだって、考えは変わるかもしれない。
それは肉を食べなくても生きていけるから食べないだけだからだ。
人を殺さなくても生きていけるから殺さない。そりゃ殺さないだろう。
人を殺さなくても生きていける人間が殺さなくては生きていけなかった人間を非難するのは滑稽だ。
肉を食べなくても生きていける人が肉を食べなくては生きていけない人を気持ち悪がるのは滑稽だ。
滑稽なんだよ。
ガキなんだ。
あらゆる人々が、ガキなんだ。
俺を含めて。











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6ペンスの唄を歌おう

2016-06-08 00:12:58 | 空想コラム
「6ペンスの唄」

6ペンスの唄を歌おう
ポケットにはライ麦がいっぱい
24羽の黒ツグミ
パイの中で焼き込められた

パイを開けたらそのときに
歌い始めた小鳥たち
「なんて見事なこの料理
王様いかがなものでしょう?」

王様お倉で
金勘定
女王は広間で
パンにはちみつ

メイドは庭で
洗濯もの干し
黒ツグミが飛んできて
メイドの鼻をついばんだ


Sing a Song of Sixpence | Nursery Rhymes | By LittleBabyBum!




これはマザーグースの童謡です。
レディオヘッドの「Burn The Witch」の歌詞にこの「六ペンスの唄を歌おう」という歌詞が入っていて
この謎の深い唄を今から解読したいと思います。

マザーグースというと本当は怖いグリム童話のような残酷な歌をよく作っています。
たぶん小学校でかマザーグースの寺山修司訳の本を借りてきて、気に入ってしまい返さずにパクった思い出があります。
でも歌はすっかりさっぱり忘れてしまいました。

この「6ペンスの唄」も私は残酷な歌であるとみました。
なぜ残酷か、それは黒ツグミパイという料理が残酷な料理であることからもうかがえます。
これはただたんに黒ツグミの肉を入れたパイではなく、ブラックバード・パイという実際にあったと言われている黒ツグミを生きたままパイの中に入れて
そして客の前で切り開き、客を驚かせるというビックリ料理として出されていたようですね。
あんまりに残酷な料理です。パイの中といえど、ものすごく熱くなるはずです。





この唄は、残酷な仕打ちをされた黒ツグミがメイドに仕返しをするという歌であることがうかがえます。
しかしただそれだけではなく、暗号として使われている言葉がいくつかあると言われています。

*24羽の黒ツグミは24時間、王は太陽を、女王は月を表し、時間の運行を意味する唄という説。

この説が面白いなと私は思いました。
24時間というと一日、メイドは一日をパイに詰め、一日から報復をされるわけです。
太陽は見えない場所でお金を勘定し、月は広い間で甘い蜂蜜パンを喰らっています。
いったいどういうことなんでしょう。
太陽といえば太陽神、光をつかさどる神の象徴です。
一方、月は夜に太陽の光に反射して光ることのできる闇をつかさどる神の象徴と捉えることができましょう。

つまり光は見えない場所でお金を勘定しており、闇は広間で蜂蜜パン喰らってます。
お金とはなんでしょうか。光の神にとっての金とは、いったい何を表しているでしょうか。
わたすはこれは、カルマ(業)のことだと踏みました。
何故なら、カルマはよくお金に例えられるからです。
カルマを清算するとよく言いますし、聖書にもイエスの言った

「よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない
(マタイによる福音書5章26節)」

という言葉がある通りに、この言葉は最後の一番安い価値のお金(カルマ)を清算するまで、あなたは決してこの地上の次元以外で暮らすことはできない。という意味があると思っています。

つまり光の神は、カルマを誰にも見えない場所で勘定(計算)しています。
神が計算してくれているので、私たちはその計算通りに正確に借りた分を返すということができます。
神の勘定の御陰で借りていない分は返さなくともよいのです。

光の神が計算しているところは決して目にすることができないので、「王様お倉で金勘定」と歌われるわけです。
では闇の神が広い間で蜂蜜パン喰らっている。とは何を表しているのでしょう。
「お城の広間」で検索してみると、窓に囲まれているか、柱や絵画に囲まれてるみたいな場所の画像がいっぱい出てきます。
吹き抜けにしてあったりして広間とは主に
ひろま【広間】
多くは客用・会合用の、広い室・座敷。
という場所なので、ごちゃごちゃ物が置かれていないさっぱりとした広い空間ということになります。

なんでそんな場所で闇の神はひとりで甘い蜂蜜パン食べてんの。
それは、今日は特別な日だからです。なぜ特別な日か後になればわかります。
闇の食事とはいったい何でしょうか?
闇は何を食べているんでしょうか。闇が必要なもの、それはもちろん、光です。
光があるおかげで、闇が闇でいられるからです。
なので闇はひとりで楽しく大好物の光を周りの窓から光が差し込む部屋で光を食べています。
闇にとって、光はとても甘く、ほっぺが落ちるほどの大好物なので、それは光にかざすときれいな黄金色に光る蜂蜜をたっぷりと塗ったパンに例えられました。





それなのにメイドはそんなことは露知らず、王様がきっと喜んでくださると思っている黒ツグミのパイ(一日)をせっせと焼き上げています。
6ペンス銀貨は正しくはわかりませんが当時16世紀で職人の一日の賃金に当たる4700円ほどの価値があったのかもしれません。
一日の報酬の唄を歌おう。ということなのでしょう。
6ペンスの唄を歌いながらポケットにライ麦をたくさん詰め込んで。
ライ麦は寒冷な気候や痩せた土壌などの劣悪な環境にも耐性がある強い穀物です。
ポケットとは昔では物を計量する大きめの袋のことを言ったそうです。
ポケットにいっぱいのライ麦粉さえあれば、一日の食事は十分賄えるでしょう。

焼きあがったパイを開けた途端、24羽の黒ツグミ(一日)は歌い始めました。
小鳥たちはパイの中で焼かれたにも関わらずぐったりともしておらず元気なようです。
おかしな話パイの中であつあつの熱さに耐えながら黒ツグミたちは歌うのです。





黒ツグミたち「王様の前にお出しするのになんとも打ってつけの御馳走ではありませんか?」



日本の黒鶫

さて、このパイは何で作ったかというと24羽の黒ツグミたちと、ポケットに詰め込んであったライ麦粉で焼き上げたのでしょう。
24羽の黒ツグミ(24時間)と、一日を賄うに足りるライ麦粉で作りました。
これはメイド(作り手)にとってとっても大事なものたちです。
もしかしたらば、このパイを王様に届けてしまえば、自分の今日一日の食物はなくなってしまうかもしれないのです。
しかしメイドは王様に喜んでもらいたい一心で自分の食べる分の大事なライ麦粉で作り、そこに自分のさらに大事な一日を投与しました。

メイドは一日のすべてを注ぎ込み、一日中このパイを作っていたということになります。
それだけメイドにとって王様とは大切で愛する存在なわけですね。
王様が大好きで大好きで仕方ないのです。
しかも今ならば女王様は広間で蜂蜜パンを食べていることを実はメイドはこっそりと覗いて知っていたので、今ならこの特製のパイを王様だけに存分に味わっていただけるだろうと思い、急いで必死に作りました。

しかしなんということだろう。パイが焼き上がり早速王様のところへ持って食べていただこうと思って王様を探したら、王様の姿がどこにも見当たらない。
王様はそのときメイドに見つからない場所に隠れてしまったのです。

メイドは悲しんで、涙を落としながら洗濯物を庭に干しに行きました。
一日は過ぎて、夜中でしたが仕方なく、暗い中洗濯物を干していました。
するとあろうことか、そこへ黒ツグミが飛んできて、メイドの鼻をついばんでもぎとってしまいました。
鼻をもぎ取られたら、そりゃ痛い、否、痛いどころの話ではない。
うっぎょーとメイドは叫び、転がりまくりました。





「ついばむ」とはくちばしで突く、といった可愛いものではなく、
ついば‐む
【啄む】
鳥がくちばしでつついて食べる。
という意味なので、これは鼻ごと持っていかれたというような表現に近いと思われます。

メイドは悪意はなかったものの、こっぴどい復讐を黒ツグミから返されてしまったわけです。
一日を費やして、一日の食料で作り上げた一日から報復をされました。
何故なのでしょうか?
それは王様が知っています。

その一日とは、黒ツグミのパイに例えられたとおりに、カルマの種を撒く、ということでした。
メイドが生きたこの一日は、カルマの種を撒くためにあり、一日の食糧であるライ麦はメイドが生きるために必要な、つまりこの一日を生きるために、種を撒くのに必要なものです。
そして一日を生き、一日に必要な種を撒き、焼きあがった黒ツグミのパイはそのカルマそのものです。
種を撒いた後は、実って刈り取るのを待つだけです。
メイドはそのカルマを王様に召し上がっていただこうと思いましたが、王様はもうすでに召し上がっておられるのです。
王様はすべてを知っているので、メイドがどんな一日を生き、どのような種を撒いたかをご存知です。
知っているからそれを正確に算出できるのです。





そして王様が出した結果の通り、メイドは自分で蒔いた一日の種を早くも刈り取ることができました。
パイの中で焼かれた黒ツグミたちは何もメイドに報復をしに行ったわけではなかったのです。
ただ王様の命令によって、王様の出した結果によって、メイドが実った実をしっかりと刈り取られるようにと使命を受けて、メイドの鼻をついばんだのです。

そしてその一日の成果に女王様もしっかりと実は関わっていました。
女王様はメイドの成果のため、メイドに覗かれる場所であえて蜂蜜パンを食べていたのです。
パンとはイエスのからだに例えられるように、なくてはならないもの、絶対に必要なものの例えです。
女王様はただ好物をこっそり食べていたわけではなく、メイドの成果を成功させるために王様とタッグを組んでいたのです。
女王様がひとりで蜂蜜パンを食べているのをメイドが発見しなければ、メイドは王様だけに食べてもらいたい黒ツグミのパイをがんばって焼くことはなかったからです。

24時間(黒ツグミのパイ、カルマ)がなければ人間は生きていくことができません。
また光(王様)と闇(女王様)もなくては生きていくことはできません。
生きることとは、カルマの種を撒いて、それを刈り取る作業の繰り返しであるということがこの歌からも見えてくるようです。

ちなみに後世の人が付け足したといわれる別バージョンではあのあとに唄はこう続くそうです。


国王お抱えの医者が呼ばれ
彼女の鼻を縫い合わす
それは見事な腕前で
縫い目がどこかわからない


でもまたまた別バージョンでは、またもや鼻はもぎ取られるそう。
メイドの一番の喜びが王様に喜んでもらえる黒ツグミのパイを焼くことだった場合、これはなかなかやめられませんでしょうね。

最初に残酷な歌であると書きましたが、私の辞書にある「残酷」は「救いのある残酷」なので救いの大いにあるお話として解読させていただきました。












痛みを食べる(Eat the pain)

2016-06-07 14:22:38 | 食と社会問題
こんにちわ。さっきまで布団の中にぶっ倒れて全身油汗にまみれていたあまねです。
自分は普段はヴィーガン(完全菜食者)を目指す人間なのですが、
ここのところ食欲に負けてか栄養が足りないからか
寿司やピザや乳製品と卵の入ったパンなどを食べてしまったがために
ひっさしぶりの激しい生理痛にうなされていました。
なんでかと申しますと、この動物性食品と生理痛、または頭痛に大きな因果関係を自分の体を通して
真に発見している人間が私だからです。

証拠に私がヴィーガンになってからは、あれほど毎回苦しんでいた生理痛はピタッとなくなり、常備しておかんければならなかった鎮痛剤も家に置かなくて済むようになったのです。

そして肉(牛、豚、鶏)と乳製品、卵は摂らず、魚介類は食べていた時期も、生理痛は滅多に起きませんでした。

つまり今回の激痛は、乳製品と卵が深く関係しているのではないかと思っています。
最近では、乳製品と女性がかかる病気、乳がんや子宮の病気などの関係性についてよく叫ばれてきています。
または男性の前立腺がんなども乳製品が関係しているのではないかと言われていたりします。

牛乳には多量の女性ホルモン、黄体ホルモンが含まれているので、それを摂ると人間のホルモンバランスがくずれ、さまざまな病気を引き起こしてもおかしくはありません。


また、国内の乳製品のほとんどは輸入のものであり、アメリカでは牛乳を作るのに牛にホルモン剤を摂らせていると言われています。
年がら年中お乳を出していなくてはならないので、通常のホルモンではお乳は止まる作用になっておるから
ホルモン剤を摂らなければそんな乳を出し続けるということができないからなんです。

牛乳は牛の血液ですから当然、そのホルモン剤は牛乳に含まれているので、それを摂る人間の体内に取り込まれます。







また飼料には抗生物質を混ぜて与えられます。
卵を産み続けなければならない鶏に対しても同じことがされています。
スーパーで買う玉子は国内産ですが、それ以外はほとんど安い輸入の玉子です。

しかし国内産のものであっても、原因の一つは異常なホルモンを摂り入れることによって起きていると思うので、この乳製品と卵、それから牛や豚や鶏の肉を断たなくてはなんらかの肉体的苦痛として起きてくると考えられます。







現に肉と乳製品、卵を摂り続けているときは私は頭痛も結構な頻度で起きていて、そのたびに鎮痛剤を飲んでいました。
ところがそれを断ってからというもの、起きても一年に一度とかで、それもちょっとした頭痛ですぐに治るようなものしか起こらなくなったのです。

なので痛い、苦しいのが嫌な方は私は≪肉(魚介類を除く)、乳製品、卵≫を断つか減らすことを薦めます。さらにできる方は、魚介類も減らして菜食中心になることを薦めます。
魚介類も抗生物質漬けで育てられていることが多いし、また痛覚があると思うからです。
これらは様々な成人病、ガンや脳梗塞などに関係していると言われている。
ガンになれば当然痛く、苦しい肉体的苦痛と闘い続けねばなりません。

これは牛や豚や鶏の苦しみ、痛みを人間が摂り続けてきたことのごく自然な因果として起こっているのではないかと思うのです。

肉体的苦痛を食べるから、肉体的苦痛が起きる。とても理に適っている宇宙の法則だと思います。

他者の痛みに目を背けて食べ、痛い苦しいのは嫌だというのは我儘なことです。
嫌なのなら、他者の痛みも自分がなくそうとしなくてはなりません。

さっきの生理痛に苦しめられている中、ああ牛や鶏はこんな苦しみの中にいつもいるんだろうかと思い、当然の報いだと思いました。

未だに健康のために肉や牛乳や卵が必要だと言う人がいるが、もう時代遅れです。
その手には騙されません。赤肉だって発がん性があると解りました。
徐々に今までの栄養学が間違いまくっていたことがわかるでしょう。
だから世界中でベジタリアンが増えてきているのです。







肉や乳製品や卵の栄養必須説はすべて資本主義で儲けるための罠です。
家畜を育てるために大量の穀物を消費し、そのために発展途上国で飢餓が起き続けています。
















ハンバーガー一つ作るのに必要な水の消費量が書いている画像です。
いまだ約7億5,000万人もの人々が、水道も、整備された井戸も利用できず、生きるために欠かせない安全な水さえ手に入れられず、
年間50万人以上の幼い子供たちが汚れた水が原因で起こる病気で命を落としているようです。
そういった事実をメディアが発しないのは資本主義に乗っかってしまっているからです。


自分が食べているものはたくさんの苦しみで出来上がっていて、その苦しみはやがて自分に返ってくるということを実感することができたら、人々はもっと容易く食生活を見直すことができると思うのですが、病気になるまではなかなか気づけない人が多いのは、この事実がなかなか広まっていってくれないからです。

乳牛はお乳が出なくなれば食肉に回され、雄牛は最初から食肉工場行きになります。
鶏も同じです。卵を産まなくなればへ回されるか、処分になります。
そしてオスのひよこは分別されてすぐに処分されます。
処分の仕方は生きたままゴミ袋に詰めて放置か、生きたままミンチにして処分したりします。




自分はこれを知っててもついピザを頼んだり乳製品と卵入りのパンを買ったりしてしまいました。
一つは単純に食欲に負けて、だと思いますが、もう一つの理由にはしっかりと栄養を植物で補えていないために食べたくなってしまうということが考えられます。

お金のないときは無農薬商品より安いものを買ってしまいます。
農薬や化学肥料で育った植物は栄養価が低く、また添加物が入っていれば栄養を吸収しづらくさせます。
なのでそれらを食べていると、どうしても栄養不足から魚介類や乳製品、卵の栄養を身体が欲するのです。

しかし栄養はあれども、身体に悪いものもたくさん含まれる魚介類や乳製品、卵は摂っても身体にいいどころか身体に悪いものであって、だから摂れば頭痛や生理痛となって身体が悪いもの摂ってるぞと教えてくるのです。







身体が欲しがってるのは純粋なビタミンやミネラルだけだからなんですね。
身体は残留農薬や抗生物質や人工添加物などは当然ながら求めません。

できることからやっていきましょう。











Burn The Witch(魔女を火炙りにしろ)

2016-06-06 17:11:14 | 音楽
今日も落ち込んでいる。

Radiohead - Burn The Witch


この「Burn The Witch」のPVと歌詞について考察してみようと思い調べ上げたが
もう落ち込んで嫌になってしまった。

やはりあんまり自分はこういった皮肉めいた表現が好きではないようだ。
こうゆうの作るくらいならもうスミスの「ミート・イズ・マーダー(肉食うな)」みたいな直截的な曲を作ってくれたらいいのにと思ってしまう。

あんまり謎が深いと曲中で指摘されている人物本人がこの曲から問題を指摘されていることにも気づかずに曲を称賛するといった皮肉的な事態が起こりそうで嫌になる。

しかしトム・ヨークは自分の問題は棚に上げて他人の問題について歌うような人間ではないと思うが。
どの曲についても自分自身の問題を世界の問題と繋げて歌っているように思う。

そうするとこの曲は火炙りにされているのはトムであり、火炙りにしているのもトムということになる。
もっとも皮肉な曲である。


Burn the witch
Burn the witch
We know where you live


魔女を火あぶりにします
魔女を火あぶりにします
我々はあなたがどこに住んでいるか知っている


自分の中にいる魔女がどこにいるか俺たちは知っているんだ。という意味があるんじゃないか。
お前も本当は知っているんだろう、と。いいのか、このままじゃ火炙りだ。
自分の中に住んでいる魔女を火炙りにするのはお前自身だぞ。と言ってるんじゃないか。

お前という人型の檻の中にお前を閉じ込め、火炙りにするのはお前だ。



Stay in the shadows
Cheer at the gallows
This is a round up

影にとどまり
絞首台で喜びの声
これは家畜の駆り集めです


自分の影が、自分を絞首台へ上らせ自ら歓声を上げる、なに、なんでもないこれは生贄や食肉のための家畜の駆り集めなんだ。





検査官(うおっ血が垂れてるぞ?)
村の案内人「どうです、美味しそうなビーフウェリントン(牛のヒレ肉にフォアグラのパテを塗りパイ皮で包んで焼きあげた料理)でしょう。後でみんなで食べましょう」

ビーフウェリントンという料理は初めて知りましたが、ふつうはこんな牛の形をかたどったりはしていないようです。
半生焼きみたいな料理で、フォアグラの作られ方も残酷であるので、残酷性を象徴する料理なのもあってコリン以外は全員ベジタリアンというレディオヘッドのなんらかの主張がここに隠されているのかもしれまい。

トマトのための有機肥料を作る会社への可能な接続を指摘しています

このサイトを日本語翻訳して読んだのですが、いまいち意味がよく分からない。
あのPVの豊作なトマトは農薬まみれで作られたもので、それらはあの最後の人型の檻を点灯(燃やすという意味か?)するために貢献しているようで、可能な限り野菜は有機の会社で買えという指摘が隠れている、と書いているのだろうか?

もしそうだとしたら具体的な指摘が隠れていてこれは面白い。
環境問題にも敏感なレディオヘッドだから有り得る話ではある。


皮肉な表現というのは確かに気になる表現方法であって、リスナーはそこに隠されたアーティストからの警告が気になって仕方なくなってくる。
自分がそれに気づかずに日々を送ることが怖くなってくる。

「魔女を火炙りにしろ」そんな題名の曲から始まるRadioheadの新作を多くの人が傑作だと言っているが
Radioheadの深刻な警告はどれくらいの人々に届くのだろうか。






世界の終わり

2016-06-06 05:14:05 | 音楽
布団の中でふと思ったんですが、Radioheadの「A Moon Shaped Pool」は「Daydreaming」を除いては、パブロ・ハニーの空気感とよく似てるのではないかと。
カタルシスを感じられない未完成な儚さを持ち、それでいて寂しく、未完成ゆえの美しさがある。
創作、表現の世界というのはカタルシスに向かっていることが多いと思うのですが
完成されて完結していることが作品において良いこととは決まらないのだな、と改めて感じています。
夭折する人間が美しいように、作品もまた未完成であることでしか表せない美しさがある。

原点に戻ったというより、単純にクオリティが下がったんじゃないかと思うのですが、でもそれが全体的に下がってるというかそこに入ってるすべてが下がったのではなくて、曲のクオリティは下がったが、作り手の感性が上がって感情は今まで一番深く最高のものであり、よって最高傑作とする人が多いのではないかと。

なんか色々考えてたけど忘れてもうた。パブロ・ハニーの音楽が邪魔して忘れてもうた。
似てるといってもパブロ・ハニーと明らかに違うところは勿論あります。
クオリティがパブロ・ハニーと同列だと言ってるわけではありません。
明らかに違うところの一つに、聞き手の安易な共感を避けたがっているような閉じこもったものを「ア・ムーン・シェイプト・プール」には感じる。
自分が「ア・ムーン・シェイプト・プール」を受け入れがたいと感じているのは、そこにある孤独と悲しみの深さに自分が耐えられないからだと思ったんです。
クオリティが下がったから受け入れがたいのではなく、クオリティも素晴らしいと感じる「Daydreaming」も受け入れがたいので、自分が「ア・ムーン・シェイプト・プール」に感じる孤独と悲しみがあまりに大きいがために、それを無意識にも受け入れることを拒んでいるのではないかと思ったんです。
悲しすぎて、受け入れ難い。それはカタルシスを感じられないからなんです。
カタルシスとは、それの受け手がそこにある重苦しいものを自分の力によって、超えさせること、という意味があります。
自分がそれを観たり聴いたり読んだりして、苦しみ悲しみを超えられた何かを得たという実感があるなら、そこにはカタルシスが起きています。
でも今のところ、私は「Daydreaming」を聴くたびに悲しみ打ちのめされ、深い喪失を感じ、また「終わり」の感覚さえも感じている。
「A Moon Shaped Pool」を聴き終わるたんびに目の前が真っ白になっている。

来ました、パブロ・ハニーの11曲目の「Lurgee(ラーギー)」という曲です。好きな曲です。
この曲の感じが空気感が特に「ア・ムーン・シェイプト・プール」に通じているような気がする。
寂しく美しいが未完成で、何が残るかというと何も残らないような感じでふわつきながら消えていくような曲。
これが今聴いてみると結構激しくなってくる展開になってたんだなと思うんですが自分の脳髄内で回しているこの曲はもっと静かで寂しげな感じだったんですよね。
「 Lurgeeはイギリス英語で病気のこと。多分若者がよく使う「病む」とか「鬱っぽい」くらいのニュアンス」という意味があるんですね。
載ってる歌詞を読んでみても、ああやっぱり別れと喪失の曲なんですね。
この曲にも何か終わりを感じさせるものがあります。

でもこの曲のほうがまだ救いというか余裕のようなものがずっとある感じだな。

Ful Stopは最初聴いたとき妙に陳腐さを感じたが、聴くほどこれはすごく良くなってくる、ダークな曲だな。
聴いてみるとあんまりパブロ・ハニーの全体的な空気感と今作は似てへんかった。というか全然違うな。やっぱりラーギーだけが少し似てるのかな。
受け入れたくないために、無理に未完成であると思いたがってるのだろうか。
これで完結はしてほしくないと、そう思いたいんだろうか。


Daydreamingを聴き終るたび、世界の終わりを感じる。









新月の夜

2016-06-05 21:16:00 | 音楽
Radioheadが出るサマソニの大阪一日目だけのチケットを買おうとしたら後払いができなかった。
買えないではないか。高いパソコンを買ってしまったばっかりに。
手遅れなのか、それとも来月までチケットは余ってるのか。
っつって来月は来月で金欠やし、銀行強盗でもするしかないのか。
スリか、スリをするしかないのか、どうしたらええんだ、レディオヘッドだけ観て、もう即帰ってくるつもりだが、体力が絶対持たないからね。というか、1㎞以上歩くと足が動かなくなりそうだが、なんなんだ一体、トムはうちに来てライヴやってくれはしないのか、なんだっていつもサマソニなのか、サマソニというと体力勝負な感じで体力のない人間にはつらいことこの上ない。
つうか、熱射病で倒れて死ぬやも知れまい。

「この2016年の夏、〈サマーソニック〉で
レディオヘッドを観ておかないと絶対に
後悔する10の理由 part1-総論編」とかを読んで
確かに今年にレディオヘッドを観ないとひっじょおに後悔するような気がする。
一番焦る理由はトムはもう47歳という若くはない年であるということだ。
次の作品がもしかするとまた5年後とかかもしれないわけだ。
というか最後かもしれないわけだ。自分だっていつ何が起こるかわからない。

こんなに愛しているのに。
トムの姿を間近で見たことがないなんて。
モニターに映し出されるトムを見て、または双眼鏡越しにしかトムの姿を捉えるのが難しかった2000年夏のKID Aのライヴ。
顔が、見えなかったんだ。遠すぎて。
一度でいいから、トムを間近で見たい。
前にいる人間全員のどたまを殴りつけてでも、一番前でトムを見たい。
でもそんなことしたらトムも自分も相手もつらいからやらない。
そんなことするなら家で静かにアルバムを聴いて屁ェこいてるほうがいい。

ああわかってるさ。見に行けないことの悲しみを噛み締めながら生きる。これも一つの大事な経験で試練だ。わたしは、トムがはっきりとした意識をもって生きてくれてさえいたらそれでいいんだ。満足なんだ十分なんだそれ以上を望まない。
やっぱ「Present Tense」っていい曲だな。

月がだんだんと欠けていって、新月には見えなくなる。
新しく生まれたその姿を見ることができない。
もし、真っ暗闇の水たまりが見えたなら、それは新しく生まれてこようとする月が反射しているのかもしれない。