あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

Burn The Witch(魔女を火炙りにしろ)

2016-06-06 17:11:14 | 音楽
今日も落ち込んでいる。

Radiohead - Burn The Witch


この「Burn The Witch」のPVと歌詞について考察してみようと思い調べ上げたが
もう落ち込んで嫌になってしまった。

やはりあんまり自分はこういった皮肉めいた表現が好きではないようだ。
こうゆうの作るくらいならもうスミスの「ミート・イズ・マーダー(肉食うな)」みたいな直截的な曲を作ってくれたらいいのにと思ってしまう。

あんまり謎が深いと曲中で指摘されている人物本人がこの曲から問題を指摘されていることにも気づかずに曲を称賛するといった皮肉的な事態が起こりそうで嫌になる。

しかしトム・ヨークは自分の問題は棚に上げて他人の問題について歌うような人間ではないと思うが。
どの曲についても自分自身の問題を世界の問題と繋げて歌っているように思う。

そうするとこの曲は火炙りにされているのはトムであり、火炙りにしているのもトムということになる。
もっとも皮肉な曲である。


Burn the witch
Burn the witch
We know where you live


魔女を火あぶりにします
魔女を火あぶりにします
我々はあなたがどこに住んでいるか知っている


自分の中にいる魔女がどこにいるか俺たちは知っているんだ。という意味があるんじゃないか。
お前も本当は知っているんだろう、と。いいのか、このままじゃ火炙りだ。
自分の中に住んでいる魔女を火炙りにするのはお前自身だぞ。と言ってるんじゃないか。

お前という人型の檻の中にお前を閉じ込め、火炙りにするのはお前だ。



Stay in the shadows
Cheer at the gallows
This is a round up

影にとどまり
絞首台で喜びの声
これは家畜の駆り集めです


自分の影が、自分を絞首台へ上らせ自ら歓声を上げる、なに、なんでもないこれは生贄や食肉のための家畜の駆り集めなんだ。





検査官(うおっ血が垂れてるぞ?)
村の案内人「どうです、美味しそうなビーフウェリントン(牛のヒレ肉にフォアグラのパテを塗りパイ皮で包んで焼きあげた料理)でしょう。後でみんなで食べましょう」

ビーフウェリントンという料理は初めて知りましたが、ふつうはこんな牛の形をかたどったりはしていないようです。
半生焼きみたいな料理で、フォアグラの作られ方も残酷であるので、残酷性を象徴する料理なのもあってコリン以外は全員ベジタリアンというレディオヘッドのなんらかの主張がここに隠されているのかもしれまい。

トマトのための有機肥料を作る会社への可能な接続を指摘しています

このサイトを日本語翻訳して読んだのですが、いまいち意味がよく分からない。
あのPVの豊作なトマトは農薬まみれで作られたもので、それらはあの最後の人型の檻を点灯(燃やすという意味か?)するために貢献しているようで、可能な限り野菜は有機の会社で買えという指摘が隠れている、と書いているのだろうか?

もしそうだとしたら具体的な指摘が隠れていてこれは面白い。
環境問題にも敏感なレディオヘッドだから有り得る話ではある。


皮肉な表現というのは確かに気になる表現方法であって、リスナーはそこに隠されたアーティストからの警告が気になって仕方なくなってくる。
自分がそれに気づかずに日々を送ることが怖くなってくる。

「魔女を火炙りにしろ」そんな題名の曲から始まるRadioheadの新作を多くの人が傑作だと言っているが
Radioheadの深刻な警告はどれくらいの人々に届くのだろうか。






世界の終わり

2016-06-06 05:14:05 | 音楽
布団の中でふと思ったんですが、Radioheadの「A Moon Shaped Pool」は「Daydreaming」を除いては、パブロ・ハニーの空気感とよく似てるのではないかと。
カタルシスを感じられない未完成な儚さを持ち、それでいて寂しく、未完成ゆえの美しさがある。
創作、表現の世界というのはカタルシスに向かっていることが多いと思うのですが
完成されて完結していることが作品において良いこととは決まらないのだな、と改めて感じています。
夭折する人間が美しいように、作品もまた未完成であることでしか表せない美しさがある。

原点に戻ったというより、単純にクオリティが下がったんじゃないかと思うのですが、でもそれが全体的に下がってるというかそこに入ってるすべてが下がったのではなくて、曲のクオリティは下がったが、作り手の感性が上がって感情は今まで一番深く最高のものであり、よって最高傑作とする人が多いのではないかと。

なんか色々考えてたけど忘れてもうた。パブロ・ハニーの音楽が邪魔して忘れてもうた。
似てるといってもパブロ・ハニーと明らかに違うところは勿論あります。
クオリティがパブロ・ハニーと同列だと言ってるわけではありません。
明らかに違うところの一つに、聞き手の安易な共感を避けたがっているような閉じこもったものを「ア・ムーン・シェイプト・プール」には感じる。
自分が「ア・ムーン・シェイプト・プール」を受け入れがたいと感じているのは、そこにある孤独と悲しみの深さに自分が耐えられないからだと思ったんです。
クオリティが下がったから受け入れがたいのではなく、クオリティも素晴らしいと感じる「Daydreaming」も受け入れがたいので、自分が「ア・ムーン・シェイプト・プール」に感じる孤独と悲しみがあまりに大きいがために、それを無意識にも受け入れることを拒んでいるのではないかと思ったんです。
悲しすぎて、受け入れ難い。それはカタルシスを感じられないからなんです。
カタルシスとは、それの受け手がそこにある重苦しいものを自分の力によって、超えさせること、という意味があります。
自分がそれを観たり聴いたり読んだりして、苦しみ悲しみを超えられた何かを得たという実感があるなら、そこにはカタルシスが起きています。
でも今のところ、私は「Daydreaming」を聴くたびに悲しみ打ちのめされ、深い喪失を感じ、また「終わり」の感覚さえも感じている。
「A Moon Shaped Pool」を聴き終わるたんびに目の前が真っ白になっている。

来ました、パブロ・ハニーの11曲目の「Lurgee(ラーギー)」という曲です。好きな曲です。
この曲の感じが空気感が特に「ア・ムーン・シェイプト・プール」に通じているような気がする。
寂しく美しいが未完成で、何が残るかというと何も残らないような感じでふわつきながら消えていくような曲。
これが今聴いてみると結構激しくなってくる展開になってたんだなと思うんですが自分の脳髄内で回しているこの曲はもっと静かで寂しげな感じだったんですよね。
「 Lurgeeはイギリス英語で病気のこと。多分若者がよく使う「病む」とか「鬱っぽい」くらいのニュアンス」という意味があるんですね。
載ってる歌詞を読んでみても、ああやっぱり別れと喪失の曲なんですね。
この曲にも何か終わりを感じさせるものがあります。

でもこの曲のほうがまだ救いというか余裕のようなものがずっとある感じだな。

Ful Stopは最初聴いたとき妙に陳腐さを感じたが、聴くほどこれはすごく良くなってくる、ダークな曲だな。
聴いてみるとあんまりパブロ・ハニーの全体的な空気感と今作は似てへんかった。というか全然違うな。やっぱりラーギーだけが少し似てるのかな。
受け入れたくないために、無理に未完成であると思いたがってるのだろうか。
これで完結はしてほしくないと、そう思いたいんだろうか。


Daydreamingを聴き終るたび、世界の終わりを感じる。