あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

異文化同類交流♡

2016-06-19 23:54:10 | 日記
今日もお風呂に入る気力もないからブログ廃人日和ということで
お酒を入れながら一日で三つ目を書こうと思います。

自分は前にTwitterをやっていて、そこで知り合った女子高生の可愛い女の子のTweetを
Twitterやめたあともちょっと気になってチェックしているのですが
その子のTweetを読み返すと結構な頻度でグロ画像やグロ動画に当たるんですよね。
悲惨な事故映像もそれで見たんですが、それでその女の子はお菓子や甘いものばかり食べているというのが
気になってたんですが、そういう自分も食欲がないときに何故かお菓子だとパクパク食べれるよなあと
思いまして、ああその上グロ画像やグロ動画なんかを見た後にはやっぱりお菓子しか食べたくないんですよね。

なんでなのかわかりませんがお菓子、スナック系とか、甘いものなら食べられるんです。
気持ち悪いことなく……。
でもそれ以外が妙に食べるのが苦痛になる。
どういう作用かわからないけれど、受け付けなくなるんです、普通の食べ物が。
自分は普段菜食中心なんですが、ざるそばとかも食べづらくなる。
まだ野菜だけなら食べやすいかもしれない。

だから彼女はグロ画像やグロ動画が大好きで見ては貼り付けてるんですが
普段の食生活を見ていると、やっぱりそこは大きく関係してるのかな、と思いました。

自分は女でヘテロなんですが、自分が男だったら貢いじゃってるかもしれないなと
思うほど何か彼女には特別な感情を感じてしまうのです。
というか女でもお金があればいろいろ買ってあげたいなとさえ思ってしまいます。
あんまり女性に対してそういった気持になるのも滅多にないので
これも何かの縁なのかなと思いますが、私は繋がってくれていたみんなを切ってTwitterをやめた人間なんで
また繋がってほしいとも言えず、こうして最近ストーカーの如くに陰からチェックしてしまっています。

自分は中卒でリアルタイムでも女子高生と関わったこともない人間で
女子高生とか、自分とはかなり違う次元に生きているのかなぁと思ってたんですが
Twitterでリアル女子高生の子と関わってみると、それほど違いって見つけられなかったというか
彼女とは特別似てるところが多いのか、すごく親近感も湧くし
こんなに純粋で可愛らしい女子高生がいるのだなあと感激してしまいました。

自分の似てる部分以外は今どきの女子高生という感じで私の人生にはない
友達とはしゃいでキャピキャピっ♡とした世界が広がっていて、そのギャップがすごくいいなぁと思うんですね。

普通に女子高生をやっている生活の裏でTwitterでものすごいグロ画像を貼り付けているという。
すごく魅力的で、切実さを感じられるから心配にもなる。
いわゆるメンヘラっ子では全然ないんですが、何か起きたらどうしようという
心配を私のような17年くらい上の世代の人間は感じるわけです。

17歳くらいなんだけれど、本当に子供みたいに無邪気で素直な子で思ったことズバっと返してくれるし
すごく微笑ましい。「隣に座ってるおっさん禿げててキモっ」みたいなこととかTweetしてても
それが微笑ましい。
女子高生に対してそんな気持ちになるのも初めてのことだから
ああどうして切っちゃったんだろうとちょっと後悔もしています。

なんかまたTwitterやり始めても、また切っちゃったらと思うと
申し訳なくって、戻れない。

悲しくて、ごめんねって思うけど、こうして更新を見れることが
すごく嬉しくてホッとする。

彼女が今日も明日も生きているんだと思うとそれだけで本当に嬉しい。

どういうことが人間を護るということかは、それは様々ですが
「どうか御護りください」と神にお祈りしたほどです。

あんまりこういうことも滅多にないから自分で驚いている。

そんな可愛い彼女は「人肉を食べたい」と頻繁にTweetしていますが
私も鶏や豚や牛の肉食べるくらいなら、人肉食べたいかも、とか言って(笑)

まあ本気ではないですが、そういう彼女が「動物にはひどいことはしないでほしい」
と言ってるのが、本当に、泣ける……。

すごく、女子高生とは思えないほどの人情深さを感じる。
そして彼女はすごく賢い。
きゃぴきゃぴ💛は演じてるだけなのかなと思える。

そんな異文化交流か異文化同類交流か、それができるネット社会は素晴らしいと思います。

でも今は……ほぼこのブログで独り言を呟く毎日なのです。
ブログ廃人、目指します。(人肉が食べたい笑)







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Eyes died I

2016-06-19 18:37:11 | コラム
ストレスとは何か。知って頂きたいストレスの本当の意味

なるほどな、ストレスというのは不快な刺激によって起こる症状であり
ストレスの原因となる物事はストレスとは言わないんだな。

例えばうちの部屋は一日中窓を開け放ってるとテレビの音がかなりの音量で一日中聞こえてくるが
「まったくストレスなおっさんだぜ、おっさんの騒音がストレスだ」っていうのは間違ってるんだな。
「まったくどこのおっさんか知らんがおっさんのおかげでひっじょおに私はストレスだ」と言わなくてはならないわけだな。

そしてこのストレスという症状は不快な刺激と闘うために起こる準備であって
不快な刺激に立ち向かうため血糖、血圧、脈拍を上げ瞳孔を開いて呼吸を早める。

その興奮状態、緊張状態によっていつもより脳に血液、糖分が届き頭は冴えて痛みを抑え
高い集中力を発揮してくれる。
なのでストレスは悪いものではないがこれが度を超すと常に血圧、血糖値が高まって
様々な病気を引き起こし、コルチゾールというストレスホルモンがどばどば出すぎてしまって
脳の神経細胞を傷つけ精神の病にかかるリスクが高まる。

だから過度なストレスは危険だと、なるほど。
これを読んでなるほど、それでか、と思ったのは
よく目が死んでる人っているじゃないですか。
かく言う自分も目が死んでいる人間なんですが
よく死んだ魚みたいな目だと死んだ目の人間は例えられる。
または光を失った目。

これがよく犯罪者の写真を見ても思うんですが
多くが死んだ目、またギョロついた眼をしている。
なんでかというと、これは過度なストレスによって瞳孔が普通以上に開いているために
黒い部分が大きいと人形のような目に近づいてくるから、それがまるで
瞳孔が開ききっている死んだ人の目のように感じられるからではないか。

で、なんで犯罪者にギョロついたギロギロした目が多いかというとこれも
緊張を常にしていて呼吸も早く脈拍も上がっている非常に苦しい状態で
生き続けているためにその瞳孔の開きかけた目がさらにギョロっとするのではないかと。
どういう目?っていうと、まあ犯罪者じゃないんですが、こういう目のことです。









パンクロッカーで作家の我が師匠の町田康の町蔵時代の時の写真です。
生涯の師匠をここで出すなよ、出すなら自分の写真出せよ、と師匠に思われるかも知れませんが、まあここはひとつ許してもらって、この目、この目はまさに瞳孔も開きかけていてぎょっろぎょろとしています。
師匠の苦労度が伺える目です。

で、こういうギョッロギョロしてる目をよく殺人者の写真を見ても見つけるのです。
だからその目を見ただけで私はその人がどれだけ緊張しているかを見分けることができます。
でも死んだ目にもいろいろありまして、自分の写真撮ってもいつもこんな風なギョロッとした目ではないんですね。
でその時の目も死んだ目に見える。

死んだ目には種類があって、一つはこういったギョロ目なんですが、もう一つに多いのが
虚無的な目です。
そのとき虚無期なんでしょうね、その人の目は。ギョロ目のピークを越して虚無目になるのか
それとも虚無目を超えたらギョロ目になるのか、それはわかりませんが
自分としてはギョロ目の時は明らかに自分でもああ今苦しんでるなと思える苦しみにあるときで、虚無目の時は別段特別な苦しみがいま襲ってないが、苦しみが例えるなら大波のようにやっては来ていないが静かで波もたたない海面全面に薄っすらと広がり続けているという状態の苦しみの時、これが虚無目期なわけです。

虚無目期(きょむめき)ってちょっと言いにくいですが、ちょむめき、のほうが言いやすいですけれども、虚無目期と、ギョロ目期、これを私は行ったり来たりしている。
ギョロ目期は死んだ目じゃないんじゃないかと思う人がいられるかもしれませんが
私としては、結構死んでるんじゃないかなと、思うというか、思いたいというか
その、目は死んでるけれど、心はこんなにも生きている、というギャップがあるほど
いいんじゃないかなと思いますんで、そういうことにしておけばいいんじゃないかな。
ま、とりあえず、人間っていいよね、って話なんです。

兎に角、私は人の目を見たらばその人の悲しみの度合い、孤独度の度合いがわかります。
目に出るんですね、んびんげんはね、んびんげんって何?
人間はね。突如妖怪について話してるみたいなことになっちゃいましたね。
レプティリアンみたいな人間の皮をかぶった異星人「んびんげん」について私はずっと話してたわけじゃありません。

ま、目に出るということにしとけばいいんじゃないかと、ってそんないい加減な結論で終わろうとしてないので、続きを今考えているところです。
目が死んでることで傷ついて落ち込んでいる方がいらっしゃいましたら、その人に
大丈夫だよ、と、死んでなんか、いないよ?それはね、過度なストレスが関係してるんだよー
と言っておけばいいんじゃないかと、って言ってます。
そう、胸を張って生きていこう、目が死んでても、いいじゃないか。
苦しみに耐え続けてきた証じゃないか、君の目が死んでいるのは。
そう、僕に向かって「んびんげん」はいろんなジェスチャーを加えながら言ってくれた。


「んびんげん」完







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人間と車

2016-06-19 16:21:19 | コラム
夜が明けて降り出した雨が起きてもまだ降っている。
1日に平均11人が事故で死んで、1日に平均70人が自殺しているこの国で今日もみんな頑張って生きている。
外に出れば、合法的な殺害兵器である鉄の塊がブンブン走っており、2時間置きに1人事故で死んでゆく。
20分置きに1人ずつ自らこの世を離れる。

昨夜見た二つの事故の映像、あれは二つとも自殺なのではないかと思い始めている。
認知症や飲酒やドラッグの可能性も考えられるが、大型トラックと大型トラックの間、
大型トラックの車輪の間に自ら入り込んでいくというのは、あれは計算尽くなんじゃないかと。
あれがもし乗用車だった場合、相手側も被害は大きくなる。
しかし車高のかなり高い大型トラックならあんなものは屁でもないんじゃないか。

相手に出来うる限り被害は与えたくないが、事故で死にたい人は
大型トラックの間か大型トラックに突っ込んでいくのが一番だろう。
事故で死ねたら保険金も降りるかも知れない。残していく家族のことを思ってどうしても事故死に見せたい人は多いのではないか。

そう考えると悲惨な事故の映像も感動的に思えてくる。
あんな悲惨な死に方を選んでまで家族のことを想ってたのかもしれないと思うと。
乗用車に突っ込んで行くより大型トラックに突っ込んでいくほうが何十倍と死ねる確率は高い。
もし失敗すれば半身付随などになって最悪なことになる。
どうしても成功させなければならない。
そうすると一番成功させやすいのが、昨日見た映像の事故の起き方、普通では考えられないような事故になる。

一つ目の映像は広い道路だから多分日本じゃないと思うが、
ものすごく大きな車輪の並ぶタンク型ではない平ボディの大型トラックのその車輪部分に
少し離れたところからおっちゃんみたいな人が乗った小さなバイクが横から
普通に走ってって車輪の下に入って動いた車輪に巻き込まれるという事故の映像。
見るからにまるで車輪部分に吸い込まれるような形で突っ込んでいってる。

正常な感覚を持った人間が起こすような事故ではない。
正常な脳の感覚を失っていないと起こりようがないと思えるような事故。
ただ認知症のような症状だったのかもしれない、アルコールやドラッグで脳がおかしくなっていたのかもしれない。でもなんであんな遠くの場所から車輪部分目掛けて突進していくのだろう?

北野武が94年にバイクで事故って顔面がえらいことになったあの事故はもしかしたら自殺をしようとしたのかもしれないと言っていた。

たけし、「バイク事故は自殺だったかもしれない」と語る。(26)「北野武 神出鬼没」北野武×蓮見重彦


もう一回同じ状態にいくんじゃないかとたけしは心配しているようだ。

酔っ払った頭でバイク乗りながら一瞬自殺念慮が起こってその瞬間かその一瞬のあとに事故が起こることってあるだろうなと思う。
酔っ払ってバイク乗っててふと自殺したいという思いが沸き起こった瞬間に
ちょうど目の前に大きな車輪が並ぶ光景が目に入るか、それとも酔っ払って
バイク乗ってて目の前に大きな車輪が並ぶ光景が視界に入った瞬間にふと、
あ、自殺したいな、という気持ちが沸き起こるのか、どっちもあり得ると思うが、
そうなってしまうと脳が正常な感覚ではないのでまるで吸い寄せられるかのように
車輪部分に突っ込んでいってしまう。というのは至極納得が行く。

恐ろしい話だが人間の脳とは脳内成分の働きによっていとも簡単に操作されるかのような行動をとってしまう。
普段死にたいとは思わない人であっても無意識に潜在意識の中に
潜んでいた自殺念慮がアルコールや薬やなんらかの脳内物質の異常によって意識下するか、
もしくは無意識下であっても行動に移ることがあるのではないか。
だからアルコールや精神系の薬を摂ったあとに自殺する人はかなり多い。

ストレスが休みなく続くようなこの国では特に、ふと脳が緩んだ瞬間に楽になりたいと思う人は多いんじゃないか。
ここで脳内物質の異常と言えば現代病の鬱があることも忘れてはならんだろう。
鬱は脳内物質が異常になる。
なんかおでんみたいな匂いが流れ込んできてお腹がすいてしまったが続けよう。
まだ起き上がってないので布団の上でずっとスマホで打ち込んでいる。

脳内物質が異常になっているのは確かなので、鬱状態にある人は正常な脳の状態にあるとは言えない。
私自身が鬱とははや15年以上は付き合っているので、鬱と事故の危険性について言いたいと思う。
鬱になると、感覚が普通とは変わって、ボーッとする。
脳がまともには働いてくれてないので何かを理解するにも普通の何十倍ほどの時間と労力を必要とする。

これは言葉だけでなく、空間にある物事の存在の理解にも同じように労力がかかる。
例えば鬱の状態で外を歩くと、道路の向こうから車が走ってくるのは見てわかる。
ああ車がだいぶ先のほうにいるからここで渡れば大丈夫だ、というのはわかる。
しかし終始ボーッとした感覚があるので、そのボーッとしたのは行動に勿論反映して、
自分では普通に早く歩いてるはずが実はものすごくゆっくりと歩いていたということが起きてしまう。

だから鬱が酷い時は歩道を渡っては行けない。
自分も何度か車が走ってくるスピード感覚を捉えられず渡ろうとしてぶつかりそうになったことがある。
実際のろのろと曲がってきた車に軽く当たったこともあった。
自分はその危険性を十分わかっているので外だけではなく家の中でもものすごく慎重にいちいち行動している。
無意識で行動することのないように一日中ほぼ意識的に生きている。

例えばお湯を沸かしてお茶パックを鍋に入れる時も自分は今からこのお湯にお茶パックを入れるのだ。
熱湯に気をつけねばなるまいぞ。と神経を張り巡らせながら沸いた湯にお茶パックを入れる。
そうしないとついボーッとしながら行動してしまい様々な危険が起こり得る。
しかしこれもあんまり鬱が酷いと通用しない。
そういう時はお酒をくっと飲んで料理したりするがこれはこれで危ない。

アルコールも精神医薬も脳内物質の異常を脳内物質の異常で誤魔化しているに過ぎないので、
それを続けることは脳内物質の異常をさらに引き起こすことになるとわかってはいるのだが、
これが苦しいものだからやめることができなくなるというわけである。

ちなみに私は薬の類いはもう一切飲んでいない。
よっぽど苦しくて寝れない時期は漢方薬の抑肝散を飲むことがあるくらいである。
自分は副作用もなくスッーと心地良く眠れる。
自殺念慮の起こる時も脳内物質の異常が起きている。
これも平常感覚とは違うボーッとした感覚にある。
現実感覚の欠如、夢の中を生きているような感覚、そんな状態の中、
車やバイクなんぞに乗ったら一体何が起こるか?

二つ目に見た事故の映像、これは轢かれて血飛沫が飛ぶとかいったグロテスクなものは何もなかったが、
精神を病むような悲惨な事故の有り様だった。
乗用車の後ろからカメラを撮っていて、乗用車の前には大型トラックが止まっている。
乗用車は一体何を考えたのか後ろから車がそこまで来ているにも関わらず右へ
車線変更の為に右側の道路へ移動しようと乗りかける。
そしてまず右側の道路の後ろからやってきた乗用車とぶつかる。
そしてすぐ後に続いた大型トラックにもぶつかって、乗用車は自分の元いた車線の前に止まっていた大型トラックと後ろから突っ込まれた大型トラックに挟まれながら突っ込んできた大型トラックと一緒に前へ運ばれるにつれて車の幅が4分の1くらいになってしまう社会死状態は決定的な映像だった。

瞬間的な事故だから即死だと思うが、これは一つ目のグロテスクな映像よりも精神に来るものがあった。
私はその映像を何度目かに一時停止しながら見てみたが、ああこの時はまだこの車の中の人は生きてるんだなと思うと悲しくてならなかった。
一瞬の後にあんな悲惨なことになってしまうんだと思うとこの世の不条理に虚無を感じもした。
どんな子供時代を過ごしてどんな人生を歩んできたんだろうと思った。

なんで後ろから車来てるのに車線変更しようとしたんだろう?
大型トラックが前にいる、そして後ろの後ろに大型トラックが来た、
よし、今右へ車線変更すればこれは確実に死ねるだろう。そう計算して右へ寄ったのだろうか。
ボーッとした感覚状態の中に前に止まっている大型トラックとバックミラーに大型トラックを捉えた瞬間、死のうと思って右へハンドルを動かすのはおかしいことではない。
ただドン!と当たって頭を打って死ぬという事故ではなく、あんな原型を留めないような凄惨な死に方を何故しないといけないんだろう。
どうしてあんな凄惨な死に方をするかもしれないのに車は売れ続けているんだろう。

想像力の欠如?いや、違う、本当のことを誰も見せないからだ。
本当の恐ろしさを学校でも教えない、車がどれだけ悲惨な事故を生んでいるか、本当の現状を見せて警告する人があまりに少ないからだ。

乗らなくても別段いい人まで車に乗っている。便利だから。楽だからと。
車が多いほど事故は起きやすい。
多くの人がアメリカの銃を規制するべきだという考えを持っているようだが、日本で2時間に1人死んでいる事故の原因である車を規制したほうがいいという声は滅多に聞かない。
まるで交通事故は病気と並ぶような死因だとみんな思っているのだろうか。
病気はあんな血飛沫が飛び散って肉片や脳みそが道路に転がったり、原型を留めない死体などを子供が見てしまったりするようなことは起きない。

どうしたら車を減らしていくことができるんだろう。
この先何度人の手によってグロテスクな遺体を片付けていかなくてはならないのだろう。
ちょっとやそっとの事故が起きても大丈夫な頑丈なボディだと唱って新製品を売る。そんな頑丈な車体にぶつかった為死ぬ人のことは考えないのだろうか。

人間が便利で楽しい車というものの為にあんな悲惨な死に方をしてほしくない。
人間はそんな便利さや楽しさよりずっと大事なものなんだ。

















「キラーカーズ / 人を食べた車」と「Car Is Murder(車は殺人)」

2016-06-19 02:21:47 | コラム
大型トラックの酷い悲惨な事故の動画を見てすごく鬱になっている。吐き気もずっとおさまらない。


一年で4,113人の死亡者。一番多い日で一日に22人の死亡者。これでも減少してきてるらしい。
これこそ異常だと思う。
交通事故だから仕方ないと言えるような死者数ではないと思う。

車は本当に必要なのだろうか。大型トラックは?
大型トラックがあれば助かる企業はそれは多いだろう。
でも人の命より大事であるわけがない。

車は便利だし人々の楽しみになっているだろう。
でも2時間に一人殺してまで要るもののはずがない。
救急車や消防車やパトカー、そういった車だけが走ればいいんじゃないか。

排気ガスの増加で地球もだんだんおかしくなってきている。
車をなくせないのならもっと安全なあり方になってほしい。
歩行者、自転車、バイク、乗用車、トラック、これらを全部専用の道路に分けるとか
そうしたらバイクや乗用車がトラックに巻き込まれる悲惨な事故も防ぐことができる。

便利なものは作るけれど、そういった最適な安全策を考えようとしないのは
これではまるで合法的な殺人兵器を作ってるのとそう変わりがない。

レディオヘッドのトム・ヨークは車で事故ってから車に乗るのをやめたらしい。
私は車は死んでも運転はしないが、助手席に乗ってる時もいつも事故の可能性が頭を離れず
安心しきって車に乗ることができない。
あんな大きな鉄の塊がブンブン走ってるところを平気で走るなど信じられない。
私は事故に合ったことはないけれど想像するだけでものすごく恐ろしい。
車はとんでもなく恐ろしいものなんだということを感じずに車に乗る人は
めちゃな運転をしそうで余計危険に思う。
これは車だけに限らず自転車やバイクでも同じである。
スピードの出る乗り物に乗ってたらこけただけでも大怪我をする可能性がある。

自分は子供のころ父親の一時期仕事で乗ってたものすごくでかい大型トラックに乗せてもらったことがあるが
あの視界はマジでヤバイ。
人の一人や二人轢いてても気づかないんじゃないのかというくらい位置が高い。
あんな視界の悪さで車を運転したらそら事故も多いだろうと思う。
大型トラックと乗用車、バイク、自転車、歩行者の道路は絶対に別の場所に設けなければならない。

自分は運転はしないから後ろまでいちいち確認しないが前か横に大型トラックが付いたら
ドキドキする。
しかも今は兄が運ちゃんをやっているが、平均睡眠時間は4時間とか言ってて
信じられない運送会社のブラック企業が普通にわんさかある。

大型トラックが前か横か後ろに付いた瞬間死を予感するのが正常な感覚ではないか。
たぶん今日見たあの二つの動画を教習所で全員に見せてたら半数近くは免許を取るのをやめるだろうな思う。

車に乗る人が少数である未来であってほしいと切に願う。