あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

苦痛を自ら求めよ

2016-06-25 02:57:06 | コラム
残虐映像に慣れきってしまった我々の課題 ―映画『シリア・モナムール』にみる残虐映像の受け取り方―

素直でとても良い記事だ。
なんでこういう記事をコメント付きにしないでどうでもいい記事をコメント付きにしてるんだ。

これは結局、人間が幸せでいるとどのような深刻な問題が起きてくるかを言っている。
幸せでいる人間は本当のところで、感情の奥底から悲劇を悲劇として感じることができないのではないか。
例えばかつて鬱病だった人間は鬱病の苦しみに心から共感することはできない。
それは過去の苦しみであって、今の苦しみではないからだ。
過去の苦しみを思い出そうとしても今が楽な時ならその苦しみを呼び戻すことさえできない。

今、苦しくない人間は知らない他者の苦しみを自分の苦しみとして感じることが難しい。
それは他者の痛みも自分の鏡でしかないからだ。
いくら過去が苦しみの連続にあったとしても過去の鏡を今見ることはできない。
今幸せにある人間、今楽である人間は他者の悲劇は遠いところの悲劇としてでしか感じ取れないのは無理もないだろう。
遠い場所の悲劇に心の深い部分で共感するには、普段からの消えることのないような苦しみや悲しみや痛みといった感情や感覚がどうしても必要になってくる。

しかし日本は平和な国と言うのはおかしいのではないか。戦争や紛争やテロがなくとも1日に70人自殺している世界でも異様な不幸な国だからだ。
日本といえば真っ先に過労死、自殺大国と言われる国は平和な国では決してない。
日本が平和な国と言えること自体が、日本にある苦しみですら見えていない幸せで楽な生活を送り続けることによって平和ボケしてしまった状態にあると言える。
それも一つの悲劇的な状況だ。

この記者のように他者の苦しみを遠いところに感じてそれに嘆くというのは正常な感覚だと思う。
楽なところにいる苦しみ、幸せでいることの苦しみを感じられたらあとは自分の求めるまま苦しみを求めてそれを人は手にするようになるだろう。
毎日のように逃げ場のない苦しみの中にいたら遠い場所の苦しみも現実的に感じられるようになってくる。
自分の苦しみに間違いなく蓄積されて消えることのない苦しみとして受け入れられるようになってくる。
日本はまだ精神障害や精神病を負のものでしかないと思いたがる人は多いかもしれないが、苦しみの中に居続けることでしか感じ取れない、見えてこない大事な面、また喜びがあるということが解るなら、価値観、人生観というものは大きく変化して苦痛に耐えやすくなる。

幸せ、快さ、楽なものを欲求するのは生物の本能だが、同時に生きていく苦痛に耐えるための苦痛を自ら求めるのも生物の本能ではないかと感じている。
生物がほとんど過酷な状況に生きていることからもよく理解できる。
人間の問題とは苦痛に生き続けることよりもむしろ苦痛から離れ過ぎて生きることにあるように私は思う。

現にこの地球は人間たちの快楽ばかりを貪る考え方から滅びへと今向かっている。
地球を持続させるには、人間が喜びと同じだけの苦痛を自ら求めようとしだすことが必要となってくる。
楽で生き続けたいという考えがあらゆる問題を生み出す。
なんでもバランスが大事で、バランスの取れた世界が平和な世界と言える。
楽ばかりが在り続ける世界、それは平和ではなく、狂った世界である。
一方、耐え切れない苦痛を他者に与え続けている世界もまた狂った世界だ。

その肉を口に入れる前にどのような耐え難い苦痛がその肉の元であった生物に与えられていたか、罪悪感に打ちのめされ肉を口にするのに苦痛でならないほどの自分の苦痛が人間は必要なのである。
自分が何かに耐え難い苦痛を間接的にも与えているのに誰かの苦痛に嘆くことがどれほど滑稽であるか。
どれほど悲劇的な有様であるか。
日本にも悲劇は起こり続けている。
バランスの取れた平和など、まだどこにもない。
どこもかしこも、まだ狂い続けている。










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