あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

死に様を記憶せよ

2016-06-23 00:26:24 | コラム

面白いなあ、森公美子のお父さんが息を引き取る間際の話。

森  うちの父が死ぬときは心筋梗塞だったんですけど、母が言うには死を全部言ってたんですって。
「あっ、右足が冷たくなってきた」
「それがジワジワ上がってくる」
「神経が動かなくなってきた」
「左側にきた」
「ジワジワ上がってくる」
「上がってくる、上がってくる」
「手にきた、手にきた」
「お父さん、いいから黙って」 
「ドキドキする!」
「初めて死ぬからドキドキする!」と言ったんですって。

(一同爆笑)

森  それで、パッと目を開いて、「これが死ってやつか」と言って死んでいったんですって。

 タモリ 見事ですね。


かなり爆笑してしまった。
心筋梗塞で死ぬ前だから相当苦しかったんじゃないかと思うが、実況できる元気はあったんだなと思うと人々の一つの理想の死にざまかもしれない。


さっき改めて意識したことだけれど、自分というのは「生き様」よりも「死に様」に興味があるようだ。
「生きざま」と「死にざま」とリンクがあれば迷わず「死にざま」のリンクをクリックしていた。
特に変わったことではないかもしれないが、何故生き様よりも死に様に関心があるのだろうか。

死に様とはつまり、生き様の最期である。
生物とは未完成なものだが死ぬと完成されるからであろうか。
死に様というのはその完成されたる瞬間の有り様であろう。
一つの芸術作品が完成される瞬間にドキドキワクワクとする。これは何もおかしいことではない。
人間すべてとその他の生き物の大体も作品だと思う。この世で一つしかない作品。
同じ生き様と死に様がほかにない。そう思うほどそれが大きな価値に思えるのではないか。
例えば大きな爆破事故などで何十人と瞬間的に死ぬようなものでも一人一人状況や感覚のようなものが違うのではないか。
一人は走馬灯のような記憶の中一種の心地良さの中で死んでいくかもしれないし、
一人は「ああ、嫌だ」という感覚の中死んでいくかもしれない。

自分がどういった死に様をするのだろう?それに関心を持たない人はあまりいないんじゃないか。
自分の死に様にだけ関心があって他者の死に様には関心がない、このほうがちょっとおかしいように思える。
死に様というのはほとんどが苦しいものであるというのはほとんどの人はわかっているだろう。
人が死んだというニュースが入るたび、私はどんな死に様であっただろうかと想像する。
想像するうえでできるだけの資料はあったほうがいい。
どんなトラウマになる写真や動画があっても、それを見たいと思う人がいるならそれは見せたほうがいいと思うように
私は変わってきた。
かつては、反対派だった。「興味本位でそのようなものは見るものではない」と言う人間だった。
しかしどうやってそれを見る者が興味本位かそうでないかを知ることができるのだろう。
人間の心理とはそう区別できるような単純なものでもない。

「メメント・モリ(死を想え)」
これが何故大事であるのか。「生を想え」ではなく、何故「死を想え」であるのか。
死というのは他者の死を通してでしか自分の死を想像しようもないだろう。
他者の「生」を通して人は大事なことを学んでいけるが、その完成された状態である他者の「死」からは
「生」以上に学ぶことがあるはずだ。

「死」とは、ほとんどにおいて生きてきた中での苦しみや悲しみの頂点に位置する最も大きな苦しみであると思う。
自分の母親は42歳で乳がんを発病し、約二年後に癌が脳にまで転移してモルヒネなどで朦朧とした中に息を引き取ったらしい。
自分はまだ4歳で母の記憶は何一つなく、母がどのような苦しみの中死んでいったかは聞いた話から想像するしかない。
父は若い時に罹った結核で少しダメージを負っていた肺に黴が生える肺炎で、緊急で病院に行けば「入院するほどではないが、入院しますか?」と言われ入院してから約一か月後くらいに症状が急変し、息もまともにできないくらいになったので麻酔を打たれて、そのまま昏睡状態で一週間後の人工の輸血をした次の日に息を引き取った。
享年62歳。私が22歳の時、今から12年半前である。
麻酔で眠っている間も一日に何度も肺に溜まった淡を取るために口の中にチューブを入れられ、そのたびに目を覚ましたかのようにすごく苦しんでいた。
姉と交代で無機質な窓のない集中治療室に父の隣で眠る日々。
父がすべてだった私にとって、その時間は地獄そのものだった。
父の死に様は本当にあっけなかった。死ぬ病気ではないと言われていた病気で簡単に死んでしまった。
父が死ぬ瞬間、私は涙一滴も出ず、ただ心臓が異常にバクバクしていたのを覚えている。
最愛の父にもう二度と会えなくなる瞬間、今までにないストレスの頂点だったのだろう。
父が死んだ時間を若い女医が非常に頭の悪そうな読み方をしたので、消えてほしい、と思った。
すべてが馬鹿げていると感じた。
自分たち家族だけが絶望の中にいて、それ以外の人間は間抜けでしかなく、それが滑稽でならなかった。
死に様を前にするというのは、感動的なものは一切なく、当人たちの周りに対する憎悪や殺意に塗り手繰られた空間であり、周りもそれを感知して居心地の悪さ、ばつの悪さを滲ませているのだということを知った。
死に何か理想を抱いた覚えはないけれど、直面する死というのは、一番の現実的なこと(不快なこと)であると知った。


詩人の中原中也は弟の死を前にして「死ぬが死ぬまで、死ぬだらうと思ひながらも死ぬのだとは思つてゐなかつたので、いよいよ死んでしまつた時には、悲しみよりもまづ、ホーラ、ホラ死んだと、ギヨツとして顔を見合せるといつた気持が湧起つたのだつた。」という心情を綴った。(何故か青空文庫の”死んだ”の箇所は文字化けしているようだが、確か自分の記憶ではその個所は”死んだ”である)

実際死に様を目にすると、この中也の表現がものすごく共感できた。
「ホーラ、ホラ死んだ」という気持ちになるのである。
あまりの悲しみに非現実的な感覚になるのかというとそうではなく、ほうけた感覚にはなるもののあれほど現実を実感する感覚は私はない。

「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と言ったのは酒鬼薔薇聖斗であるが
人の死が見たい人間は、現実を実感したいのかもしれない。
生きた感覚にない人間ほど、人の死に様を見て感覚を呼び起こしたいと思うのは自然な生理的反応で作用だろう。
自分は父が死んでからもうずっと生きた実感をほぼ感じられていないと感じる。
でもそれからも失恋などで薬に頼らねばきついくらいの苦しみにある時とかは生きているという感覚が
あった気がする。

生きている感覚を失った人間にとって、死に様を見るということは切実な欲求なのだと思う。
ネットなどで死体写真やグロ動画などを見てはネットに貼り付け共感を求め、人々を不快にさせる人の切実さは
相当なものだと感じて、規制されていくことに危惧を感じる。

死に様は確かに不快で苦しいものがほとんどだが、だからといって見たがらない、見せない、見ることを非難することは
人間が成長していくうえで大きな問題をはらんでいるように感じる。
そこには現実がある。不快の頂点を想像するものがある。
見ることに問題があって、見ないことに問題はないのだろうか。
毎日何十万と、悲惨なことが起きている。全世界で一日の死者は10万人~15万人ほどと言われているようだが
牛は一日に全世界で約26万頭と殺(屠畜)されていると言われている。
1秒間に、牛3頭、豚5頭、鶏1,100羽分ほどと殺(屠畜)されていると言われ
日本では一日にと殺(屠畜)される牛は約4,700頭で豚は一日に44,000頭くらいらしい。

世界中に溢れる地獄的な現状を日々目にしていたなら、自分が逃げようのない苦しみに立たされた時に「なぜ自分がこのような目に」という気持ちになることはあまりないように思う。
それはどこにでも起きている苦しみだからである。

自分は16,7歳の頃、いくつかマニアックな雑誌に載っていた死体写真を好奇心で目にしていたことがあったが
30歳で家畜の生々しいと殺(屠畜)映像を見てからは
だんだんと赤い色に拒絶反応を示すようにまでなってきた。
目にするすべての赤い色が恐ろしいのである。
できるなら目にしたくない。
赤=地獄的な苦しみの色 として目に焼き付いてしまったのだろう。
だからこそ自分は思う、耐性がある間に多くの現実を目にしておかねばならないのではないかと。
うっかりと見てしまった、というのでもいい、それがものすごく大事な経験ではないのかと。
一瞬しか見なかった死体写真を十年近く引きずってもいた。

自分にとって不快なもの、苦しいものを知ることで人が他者の痛みに対する共感を高めていけるのだとしたら
それらを避けていくことで、どのようなことが起きていくか。

「自分は生き様よりも死に様に興味があるんだ」と言えば一見人間の苦しみを快楽とするサディスト、または他者の痛みを自分の痛みとして想像するマゾヒストで異常性欲者かと思われるかもしれないが、自分は何よりも悲しみ、苦しみに価値を置いている人間で、その一方で苦しみや痛みに敏感なあまりにニュースを目にするたびに鬱になっているような人間なので単純に快楽に傾いているとも言えない。

しかし生きた実感のない自分にとって他者の苦しみであれ自己の苦しみであれ苦しいものであるほど
それが「生」であることは確かなのだろう。
生を求むため、死を求む、ゆえに生物は必ず死ぬのではないか。
すべての死がすべての生を育てている。
どんなに不快で苦しい死であっても、その死なくしては育たない生が我々であるのではないだろうか。






にほんブログ村 ポエムブログ ことばへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへにほんブログ村 哲学・思想ブログへ


最新の画像もっと見る