あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

此処は現実か、悪夢か。映画「FEAR X フィアー・エックス」の謎を解く

2018-03-17 09:51:31 | 映画

ニコラス・ウィンディング・レフン監督の2003年の映画「FEAR X フィアー・エックス」を観た。

 

 

 

 

レフン監督は「ドライヴ」で有名な監督ですが、この映画はわたしは「ドライヴ」以上に、とてもエキサイティングな感動を深く覚えました。

主演はジョン・タトゥーロという俳優で、わたしは初めて観たのですが、作品自体は淡々としているのですが彼の演技は観ているこっちが目に異様な力が入って抜けないほどのリアルな緊張感を最初から最後まで持続させる演技力ですごく良かったです。

以下は、この謎多き映画を独自に考察して、解釈したレビューで、かなりスピリチュアルな世界観ですが、御興味ありましたら御読みください。

でもネタバレになるので、是非映画を先に御覧になっていただきたいです。

わたしのなかでは本物の傑作ですね。

 

 

 

 

まずですね。この映画のワンシーンの写真を観てみてください。

 

 

 

 

これ、何度と出てくる謎の映像なのですが、これが何を表しているか。

謎を解きました。

まるでこのシーンは薄い膜の中に閉じ込められた人間が、外へ出ようと叫び、苦しみもがいているかのような映像なのです。

そして、その色彩は黒々とした赤と、黒、です。

何か想いだしませんか?

そうです。これって、まるで卵の中を外からライトで照らした卵の中の様子のようにも見えますよね。

人間で言えば、卵の中と言えば、胎内(子宮内)になると想います。

さらにこの映画には、子宮の中のように赤い空間や、胎児が子宮から胎内の外へ出てゆくための通路であるかのような赤くて細い通路が何度と出てきます。

また、床に溢れた水の描写も出てきます。これはまるで羊水のようではないか。

そうなんです。この映画の主人公ハリー・ケインは、まるで胎児が胎内から見ているかのような妄想世界に入り込んでしまったような不思議で奇妙な世界を観ているのです。

それは主人公のこの男が、実は”胎児”のままであるからです。

この映画では、主人公の愛する妻が身篭って、子を宿したまま何者かに殺されてしまい、その犯人と会って、何故、自分の妻が殺されたのかを知りたいという執念から主人公は犯人を捜します。

でも主人公が観る妄想(幻覚)世界では、何故か自分の妻がまるで産まれて来れずに悲鳴を上げている胎児のような薄く赤い膜の中で苦しんでいる様子が見えるのです。

これは自分の妻が、自分の胎内の子供と共に殺されてしまったその無念さから、自分の夫に幻覚を見せていると考えるよりは、主人公自体が、実は殺された女性のお腹の中にいた胎児であり、その胎児が愛する自分の母親の無念さと自分の無念さを合わせてこの世に深い未練を残して彷徨い続ける魂であるのだと考えるほうが面白いなと想ったのです。

または胎児だけ(主人公だけ)が実は死んでいるという考察で進めます。

原作者のヒューバート・セルビー・ジュニアもレフン監督も、「そこまで考えてへんけどな」と何故か関西弁で突っ込んでくるかもしれませんが(実際はもっと深いかもしれませんが…)、わたし独自の映画と人間深層心理の解析を繰り広げたいと想います。

この主人公が警備するデパートと、エスカレーターっていうこの構造と空間も、どことなく体内の内部構造って感じがしますよね。

なんか上がったり下がったり、絶えず循環しているのが体内と言えますし、胎内でもあると想います。

だが主人公のこの男は、自分が胎内にいる妄想をしているとは気付いていません。

自分はちゃんとこの地上に産まれて、自分の愛する妻(クレア)と結婚したんだという妄想世界を今まで生きてきたから、その妄想を現実世界だと想い込んでいるからです。

そして主人公は窓辺から外の世界を覗いてはそこに妻の幻影を見たり、または画面内を見詰めてその画面の中に自分の妻が殺される映像を観ますが、この”外部”から”内部”、または”内部”から”外部”を監視、覗き見るような行為は、妊娠した女性のお腹の中を映す超音波の映像を眺めているようにも見えますし、胎児が逆に胎内から外の世界を覗いているようにも見えますし、また”外界”というあの世から、この世という”内界”を覗いているかのようにも見えてきます。

 

 

 

 

愛する妻の幻影に会って、妻と抱き合う前に、妻のお腹を抱きしめるってのは、ちょっとおかしいように感じたのです。(これは幻影でなくただの記憶を追憶しているとも取れますが)

このシーンも主人公が、自分はクレアの胎内に居る(居た)胎児であるという暗喩であるように想える。

 

主人公の向かいの”家”が比喩しているのは、一つの”死体”じゃないかと考えました。

近くにいた或る一つの”死体”の中に主人公の魂が入り込んで、その死体の内部に記憶されていた記憶の断片が、クレアを殺した人間の記憶であると主人公は想い込んだ。

しかしその”死体”とは、実は警察に殺された汚職警官の死体であり、重要人物の死体である為に、何年後までも”団体契約”されている。つまり国家権力によって、死体のままで保存されているってことじゃないか。

かつてクレアと泊まったことのあるホテルに、主人公は一週間の宿泊をしたいとホテルのベルマンに言いますが、このホテルも、実は”誰かの体内”であり、そこに主人公の魂が入り込んでいるのではないか?

その肉体とは、きっと女性であるだろう。

かつて、クレアと双子の魂として共に入り込んだことのある肉体(子宮内)、前前世の自分の母親の胎内であるのかもしれない。

最も、その体内(肉体)自体、この世には無いものであって、現実世界には存在しない空間となる為、このホテル空間も、完全に主人公の観ている妄想(夢の)世界になる。

その”母親”とは、主人公とクレアのかつての”母親”であって、その女性がこの映画ではクレアを殺した警官の妻であるのではないか。

そうすると、主人公とクレアの母親であった女性の夫である警官とは、主人公とクレアの父親ということになる。

その父親は、前世か前前世かで、自分の妻の胎内に宿った自分の子どもたち、双子の胎児を堕ろすようにと妻に言った。

妻は泣く泣く、双子の胎児を堕胎した。

その為に、主人公がホテル内のエレベーターの中で見る妄想は、自分とクレア(クレアと想える人物)がまるで子宮内から外へ出ようと苦しそうにもがくかのような妄想を何度と見ている。

つまり、主人公とクレアが殺された瞬間とは、”堕胎”であるのかもしれない。

国家権力によって、その殺害が犯罪にはされていない。これは法律によって堕胎という殺人行為が赦されていることを比喩しているように想える。

主人公の宿泊するホテルの部屋に遣って来て、「寂しくない?」と誘う赤い服の女は、これは主人公の彷徨っている魂を我が子として自分の胎内に宿そうと考える女性の魂であって、その魂は主人公の魂を誘うが、主人公はその誘いを断る。

女は白い電話線を意味ありげに跨ぐ。この白い電話線は主人公とクレアの魂を未だに繋いでいると想っている主人公の願望が見せる臍の緒を表しているのかも知れまい。

国家権力にとっての”汚職警官”を比喩しているものとは、社会不適応者と見做される胎児たちとも言える。

今では産む前に、その胎児が健康であるかどうか、障害を持っていないかどうかを知って、堕胎する自由があるからだ。

国家にとって、まともに成果を上げないどころか国の悪いイメージを作る”汚職警官(社会不適応者)”たちは、問題が起こる前に消す(中絶させる)ほうが国家にとっては望ましいのである。

ホテルのラウンジ内も、壁や床や椅子や柱や電話や従業員の服、ほぼ赤で統一されている。それもどこか生肉のような質感の黒味がかった赤である。

ここも主人公が入り込んだ胎内であるか、主人公が見ている胎内記憶の空間が作り出している夢(妄想)であるからだ。

ホテルの赤い壁の通路を主人公は歩く。これが胎児の通る道、”産道”を表しています。

 

 

 

 

 

赤い通路からエレベーターのドアが開いて、そこにクレアの幻影を見ます。

左へ行けば「EXIT(出口)」。このエレベーターの中は子宮を表していて、主人公はクレアの乗るエレベーターに迷い無く乗り込みます。

これは前前世で、クレアの魂が先に母親の子宮内に宿ったことを暗喩しているように想えます。

そして愛するクレアの魂を追って、主人公の魂も母親の子宮内に宿ります。

そしてエレベーターは下の階へ下りますが、クレアが先に真っ暗な通路へ向ってエレベーターを降ります。

そしてクレアを追うようにして主人公もエレベーターを降ります。

これは前前世で堕胎されてしまったときに、クレアが先に中絶手術によって外へ出されたことを暗喩しているように想えます。

主人公が泊まった部屋っていうのは、主人公が宿っていたときのクレアの胎内を現しているのかもしれない。

なのでここも子宮内ではあるんですが、先ほどの堕ろされる前の中絶手術をする病院の個室のように無機質で冷たい空間とは違い、とても心地の良さそうな空間を表現しているかのようです。

主人公とクレアは、前前世では双子だったし、前世では母と子でしたから、本当に愛し合っている魂同士なんですね。

それが前世でも離れ離れになってしまったのです。クレアが生きていて、主人公は死んでしまっているからこそ、会えなくなってしまったとも考えられます。

主人公は前前世で堕ろされてしまった記憶のほうが強く、妄想(幻覚世界)でこの産道を下りていって、その一つの赤い部屋で自分の前前世の父親(警官)と会います。

主人公はそこで、例の探している女(警官の妻)に会いたいと言います。

前前世の自分の母親であるので、ものすごく会いたいわけなんです。

そして主人公が探しているのは、父親(自分とクレアを殺した男)です。

主人公は、実はこの部屋でこの男に会って、気付いています。

この男が、自分と、クレアを殺した(堕胎させた)存在であるということを。

このホテルの部屋は、父親(警官)の見ている夢の世界であるのかもしれません。

そこに自分(主人公の魂)が入り込んで、話をつけようとしているのかもしれまい。

それなので、主人公はどことなく、目の前の男に対して、他人を見る冷ややかな目ではなく、親しみも感じているかのような深い想いの篭った愛憎の目で見詰めています。

同僚に、「会えば(犯人を)殺したくなるだろう」と言われても、主人公は物悲しい顔をして、「殺さないさ」と答えます。

相手は自分の前前世の父親であるとわかっているからです。

あまりにややこしい話ですが、男(警官)が主人公とクレアを中絶させたのは、前前世の世界であり、前世では、主人公はクレアと共になんらかの理由で死んでしまったか、自分だけがまた産まれてくる前にクレアの胎内で死んでしまった為に、主人公の魂の無念は、前前世の記憶の苦痛とごっちゃになってしまっているのかもしれないと考えます。

何故なら主人公にとっては、前前世の記憶も、つい最近の記憶であるかもしれないからです。

父親(警官の男)にとっては、何を今更…という話の記憶である為、もう頼むから成仏してくれよという気持ちが強く、主人公に対して、もう一度「殺してしまいたい」という想いがあるのだと、これは主人公が勝手に妄想しているのではないか。

なのでその妄想の中で、主人公は自分の父親にまたも、殺されかけます。

このときも、見知らぬ人間にするようなものとは想えない主人公は男の顔を愛しさも混じったような両手で顔を包み込むということをします。

そして父親は、主人公を狭いエレベーターの中に突き飛ばします。

このエレベーターの空間が比喩しているものとは、新たにこの世に誕生するための或る空間であると想いました。

この空間は、新たなる母親の胎内へ通じる空間を比喩しているのかもしれません。

なので地上(あの世からこの世)に降りていくんですが、主人公はここで自分の血を見て、自分が殺された(堕ろされた)瞬間の苦痛を、生々しく想いだしてしまうのです。

だからここで、血と水と肉みたいなものが入り混じったような子宮が収縮するのを子宮内部から見ているかのような主人公の見たであろう子宮内部世界映像が映し出され、主人公の味わった(今でも味わい続けている)拷問的な苦痛を表現しています。

 

クレアは実は現実世界では生きているのだが、主人公が現実世界では死んでしまったので、主人公の見ている世界では、クレアが死んで、自分が生きている世界として観ているのかもしれません。

クレアの生きている現実世界では、前前世の父親と母親も生きているのですが、その世界は、主人公には見えていません。

主人公が観ている父親(警官)は、あくまで主人公だけが見ている世界か、父親も同時に見ている繋がった夢の世界であると考えます。

例え夢の世界という別次元で経験していても、苦しみが無いわけではなく、その世界では父親も母親も現実的な生々しい苦痛として経験しているのだと想います。

 

そして目が覚めると、白い部屋で、国家権力者(あの世で魂を導く指導霊たちを比喩しているかもしれない)たちに囲まれ、諭されます。

あなたの観た全ては、実は夢なのです。だから受け容れましょう。と言わんばかりに、主人公を諭します。

映画では主人公ハリーの妻は、妊娠していたことくらい、周りも知っているはずであるだろうに、この映画で「あなたの奥さんとお子さんは残念でした」という台詞が何故か出てきません。

その理由も、この主人公自体が、その妻の胎内にいた胎児であることを示唆していると想いました。

主人公がここで泣き崩れるのは、主人公はそれでもまだ、現世の感覚が強く、見ている世界も現世的であって、前前世も地上世界に産まれて来れなかったし、前世でも産まれて来れずに、最愛の魂の存在クレアと人生を共に生きられなかった悲しみと苦しみがあんまりにも深いためです。

そしてラスト、だだっ広い道路に警官(指導霊)に連れられ一人車から主人公は降ります。

新たなる誕生へ向けての出発、無言の応援を受けて主人公は新たなる出発を決断し、過去の記憶(集めた写真たち)を棄て去るのです。

そしてたった独りで、車(子宮に辿り着く受精卵という乗り物)に乗って、新たなる(道)産道へ向い、走って行きます。

最後に不気味にも、主人公の観たクレアが殺される防犯ビデオの映像でこの映画が終るのは、その映像の全て(人類の罪の全て)を、神(絶対権力監視者)はいつでも観ているぜ?っていうレフン監督の秘かなる主張であるかもしれまい…?

あまりにスピリチュアルで強引で勝手な考察でしたが、推敲合わせて書くのに朝の4時半から朝の10時前まで掛かりました。

しかしこれでもまだ、まだ、謎が深いっていう映画です……(ギャフン、いや、レフン…)

 御読みくださった方、どうもありがとうございましたレフン。

 


 

 追記:寝て起きて、このレビューを何度も観ながら今朝書いたんですが、改めてもう一度最初からじっくりと観て、新たなるおかしいと感じる箇所について考察しました。

主人公の妻クレアは、何故か汚職警官と間違われて警官に射殺されてしまうわけですが、これはどう考えてもおかしいと想ったのです。

何故なら、警官は汚職警官が、男性であるか、女性であるかくらいは解っていたはずなのに、市民(せめて性別を確認した上)であるかどうかを確認することもなく射殺するっていうのは、明らかに短絡的過ぎて変じゃないですか。

だからこの汚職警官を警官が射殺し、クレアが巻き添えを食らって射殺されるという事件自体も、警官が見ている夢の脚本である可能性が高いと感じました。

警官が上司に向って、クレア(主人公の妻)は、巻き添えを食らったんだと嘆き悲しんでいるシーンがありますが、これは現実では、この警官(クレアと主人公の元の父親なる魂)が、実際にクレアであった胎児を、巻き添えの形によって殺してしまったことを暗示していると考えました。

中絶手術で巻き添えと考えれば、医者に胎児が双子の二人とも障害を負っているか病気があるとこの父親は言われ、仕方なく二人とも中絶するように妻に強制的な感じで中絶手術をさせたのですが、手術を終えた後に、その医師の診断が実は間違っていて、本当は障害か病気を負っていたのは主人公のハリーの魂の胎児だけだったのだと知った。

その為に父親は大変後悔し、自分の勘違いによってクレアである胎児(自分の娘)を殺してしまったのだと苦しみ続けます。

その後悔の念が、次の人生でもこの男の消し難き苦痛となって、夢に幾度と出てきては男を苦しめ続けているのだと考えました。

警察と同じく病院(医師)っていうのも、世界で莫大な利益を上げていて国家権力と繋がっていそうですし、すごくリアリティの或る話じゃないかなと想います。

日本でも中絶手術は一日に換算すると470回ほど行なわれていますし、ものすごい莫大な利益となっているのです。

そう考えますと、本当に現実的な闇の現実を映しだしている深刻な映画であるんだと感じて、観終わって心が一段と震える想いです。

 

 

 


 

追記:3月20日

今レフン監督の2013年の「オンリー・ゴッド」を観終わりました。

この映画にも同じような真っ赤な通路というものが幾度と出てきました。

そして何より女性のあの部分に手を入れるシーン(妄想的である)

母親のあの部分にも、手を入れるシーンが出てきて、ああこれは決定的だなと感じました。

何がと言うと、レフン監督は「胎内回帰」願望が(意識的にか潜在意識的にか)ものすごい強くある人なんだと想います。

ライアン・ゴズリング演じる主人公も、他の人物も、手や腕を切り落とされるというシーン(妄想であれども)が何度も出てきます。

これは、自分の母親とまた一つになり、胎内へと戻りたいというような願望を、自ら切り落としてしまいたいという願望が表現されているように感じました。

自分自身、父親に育てられ、父が母代わりであり、父親と父と娘以上の繋がりを感じ、一つとなりたい願望がずっと強く在る人間で、前に胎内へと通じる赤い生肉で出来た産道のような通路を歩いていき、胎内世界のような不思議な夢の世界を生きているレフン監督の映画世界のような奇妙な夢を見たことがあり、その夢を基に小説も書いていました。(残念ながら未完成のままです)

もしかしたらレフン監督も、そのような夢を観たことがあるのかもしれませんし、そうでなくとも胎内記憶が強く監督の奥深くに重要なものとして残されているように感じました。

だから胎内のようなグロテスクでもあり、どこか懐かしみを感じるようなシーンの出てくる映画を撮っているのではないか。

映画「オンリー・ゴッド」も妄想的で血みどろの残虐な映画であるのに、何か懐かしくもなるような映像でもあるように感じました。

 母親への胎内回帰願望と母への愛が基となっているならば、懐かしさを感じるのも頷けるものであります。

 あとは、映画「オンリー・ゴッド」の中には主人公に向けて母親がおまえを「堕ろせと言われたが、産んだ」という台詞が出てきますね。(監督を育てた義理の母親はかなりな毒親であったようです)

レフン監督の胎内に対する強い想いっていうのは、「中絶(堕胎)」という行為と深く関係しているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 



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