あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

ヴィーガン(Vegan)って一体、何?第二章

2019-05-28 14:48:19 | 随筆(小説)
最近ね、ずっと考えていることが在る。
それは、「ヴィーガン(Vegan)って、一体、何なのやろかなぁ。」ということだ。
ヴィーガンが増えてくるに従って、アンチヴィーガンなる存在も、急増してきているように感じるんだね。
そしてそのアンチヴィーガン的な存在たちが、ヴィーガンとは何であるのかということを、てんで解っていない。
何故なら、ヴィーガンって、全く定義でき得るものじゃないからなんだ。
何かの団体に所属している者含め、ヴィーガンとは、人の数だけの種類があると感じている。
これは、ヴィーガンとは、思想でもなくて、主義でもない。
謂わば、”人”なんだ。
人間存在、その人間の実際に感じている感覚、これは思想でも主義でもないよね。
人は、人の感覚は、人の数だけある。当然だよね。
俺たちは量産されている人工知能ロボットではない。(はずだ。)
本能と呼ばれるプログラミングされたものを除くなら、人は、人の数だけ種類がある。
だから人間は素晴らしく面白い存在だ。
俺は2015年9月からVEGANだけれども、俺と全く同じ感覚、主張を続けるVEGANにまだ一度もお目にかかったことがない。
特に俺はヴィーガンとして独特な主張を過激に、続けている。
俺はヴィーガン過激派であるけれども、俺と似た主張をしているヴィーガンにも出会ったことがない。
だからヴィーガンをまったく一括りにして批判している人間たちを可笑しく想う。
ヴィーガンとは、実際に定義しようがないんだ。
これがヴィーガン、これこそヴィーガン、そう言える確かなものが存在していない。
ただただ植物性の食べ物だけを食べ、動物性のものや動物実験されたもの、動物を苦しめているもの(競馬やサーカスなどの娯楽など)を極力生活から避ける。これがヴィーガンであるわけじゃないんだね。
ヴィーガンとは、生活様式、ライフスタイル(Lifestyle)じゃないんだ。
もっともっと、繊細なものであり、複雑極まりないものである。
 
「へえ、君はレディオヘッドのアルバムのなかで、”ヘイル・トゥ・ザ・シープ”が一番好きなんだね。」
「いや、”ヘイル・トゥ・ザ・シーフ”だけど。」
「まあなんでも良い。ぼくが君に言いたいことはさ。」
「何さ。」
「君って、あれだよね。”ヘイル・トゥ・ザ・シーファー”だよね。」
「ごめん。言ってること、マジで全然、わかんない。」
 
なんとなく、これと大して違わないほどに、もしかしたらヴィーガンは、何かものすごく適当に、定義づけられているような気が最近している。
これはヴィーガンが抱えている問題、切実極まりない訴えなどから、余計にそう感じるのだと想っている。
 
でも確かに、俺はヴィーガンに、或る種の共有されている(だろう)感覚がある。と、感じていることも確かだ。
その前に、先にこれを示しておこう。
「動物を殺すな。」という訴え、これは多くのヴィーガンの訴えであるが、これは一概に動物愛護精神なるものからの訴えであると取るのが早計である。
実際、俺は動物が昔から好きではあるけれども、俺は決して動物愛護者だとは自分のことをちっとも想えない。
むしろ、動物に対して、俺はひどく冷たいかも知れないと感じることも多い。
人間と動物のどちらを助けるかという極限状況に立たされれば、俺は必ず人間を助ける。
俺のなかで、動物>人間 ではなく、動物<人間 の価値になる。
動物と人間を、同等の価値とも見做してはいない。
その証拠たるものに、俺がヴィーガンになる切っ掛けとなった耐え難き苦しみが在る。
それは、動物を助けたかったからではない。
俺はこのブログで何度か言ってきたが、俺がヴィーガンになったのは、人間を救うためだ。
人類が、地獄の果てに拷問を味わいながら死んでゆき続けるこの世界に、2012年に本当に真剣に救いを求めたことが切っ掛けだった。
人類の地獄とは、例えばどういうものかと言うと、今朝の川崎市多摩区登戸(のぼりと)新町の無差別通り魔殺傷事件。
これが、人類の地獄というものである。
俺の切っ掛けとなった地獄は、最初から詳しく話すと大変長くなるけれども、君は聴きたいだろうか?
もし聴きたいなら、コンタクトを送ってくれ。cloak_ox@yahoo.co.jp
何故か…俺にとって大変骨の折れる作業なんだ。
その切っ掛け自体が、俺を苦しめ続けているからかも知れない。
つまり、それはとても恥ずかしい切っ掛けだった。
人間として、大変不純な切っ掛けだった。
でも、もし聴きたいとコンタクトを匿名でも送ってきてくれる者が一人でもあるなら、俺は改めて、その切っ掛けについて嘘偽りない記事をここに書く。
でも、切っ掛けが例え不順で浅ましいものであったとしても、俺がヴィーガンを続けていられていることって、とんでもなく価値の在ることなんだ。
それを俺自身が、ひしひしと実感している。
だから切っ掛けは、別になんでも良いんじゃないか、そう想っている。
俺が命を懸けてでも全存在を救いたいと切望していることは事実なんだ。
もしそんな願望がないなら、俺はただの破落戸(ならずもの)、畜生以下だ。
永久に、俺は俺を軽蔑し続けたくなるだろう。
俺は必死に生きてきた。
全存在を救う=俺自身を救う この真理を解っていたから。
俺は苦しい分、救いを求めずにはいられなかった。
この世界に。
俺自身に。
未だに、朝に目が冷めた瞬間から、自分の首が切断される感覚を覚え、苦しくてならない。
いくつものTraumaが俺から生きた心地を奪い続けている。
それはいつでも死者の側に、俺がいたいことも関係していると想う。
生きてゆく者より、近々殺される者、近々死にゆく者たちの、俺はいつも側にいたい。
安楽や喜びより、いつでも悲しみと苦しみの側に俺はいたい。
地獄と拷問を、耐え難き苦痛を、俺はいつでも何より見つめている。
見つめずにはおれない。
生命の最も深い悲しみと苦しみ。
俺は何より、それを見つめ続ける。
死ぬまで。
そこにいるのは、俺自身だろう?
俺自身じゃないか。
俺の家族じゃないか。
俺の愛する存在じゃないか。
俺の愛する存在たちが、無数に、今日も拷問の末に殺されゆく。
俺が酒を飲んでいる時間に。
俺が好きな男を妄想している時間に。
俺が安眠している時間に。
俺が笑っている時間に。
俺が玄米チャーハンを喰っている時間に。
俺が人を見下している時間に。
俺が下らない言葉を打っている時間に。
俺が酔って自画像を撮っている時間に。
俺がDAISOでアームウォーマーをレッグウォーマーにできはしないかと真剣に考察している時間に。
俺が脛毛を剃っている時間に。
俺が苦しみから、逃避している時間に。
俺が事故と通り魔と病気を恐れている時間に。
俺が眼科の待合室で腰の痛みを嘆いている時間に。
俺が歯科で神経までイッてる虫歯の治療中に恐怖している時間に。
俺が楽に息をしている時間に。
俺が人の顔色ばかり伺って不安になっている時間に。
俺が人に罵詈雑言を浴びせ掛けている時間に。
俺が、性的快楽に、独りで耽っている時間に。
動物たちは、家畜たちは、毛皮にされる動物たちは、動物実験に利用される動物たちは、殺処分される動物たちは、地獄の拷問を受けているその同じ時間に人間に助けを求めながら、でも誰からも助けられないままに、生きたまま解体され、生きたまま毛皮を剥がされ、生きたまま手術され、生きたまま、約30分間ガスで、ゆっくりと、殺されてゆく。すべてが、殺されてゆく。
すべてが。
俺に、
助けを求めながら、真っ黒な絶望のなかに、殺されてゆく。