あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

映画「メメント」 あなたにとっての本当に正しい記憶とは何か

2017-09-20 15:35:37 | 映画
昨晩、気になっていたクリストファー・ノーラン監督の「メメント」という2000年公開の映画を観て、記憶というものは、どれだけ”自分”という存在を”自分”たらしめているものであるのか、ということについて考えさせられています。









あらすじ

ある日、自宅に押し入った何者かに妻を強姦され、殺害された主人公・レナードは現場にいた犯人の1人を射殺するが、犯人の仲間に突き飛ばされ、その外傷で記憶が10分間しか保たない前向性健忘になってしまう。
復讐のために犯人探しを始めたレナードは、自身のハンデをメモをすることによって克服し、目的を果たそうとする。
出会った人物や訪れた場所はポラロイドカメラで撮影し、写真にはメモを書き添え、重要なことは自身に刺青として彫り込む。
しかし、それでもなお目まぐるしく変化する周囲の環境には対応し切れず、困惑して疑心暗鬼にかられていく。

果たして本当に信用できる人物は誰なのか。真実は一体何なのか。










レナードが劇中で言ったように記憶というものは確かに正確なものでは決してない。
わたしがそれを感じたのは、ちょっと前の話ですが、わたしがこのマンションに引っ越してきた2009年の10月か11月頃の日のことを姉と話していたときのこと。

姉と兄二人が集まってくれまして、みんなでまだ何も無い部屋の中で持ち帰りした弁当を食べたのです。
みんな同じ弁当ですよ。その弁当がなんであったのか、という話を姉としたときに、全く違うものを姉は挙げたんですよね。
わたしの記憶は酷くはっきりと鮮明な記憶としてあるんですよ。
だから自信を持って、あれは「○○だった。絶対に!」と言うんですが、姉も自信ありげに「違う違う、あれは○○やったて」みたいに反論してくるんですよ。
ゆうても、6,7年前とかのことですよ?
そんなすこし前のことの記憶ですら、ここまで食い違うものなのか、とわたしは驚きました。









記憶というもんがどれほど曖昧で不正確なものであるか。
これを思い知らされると人間はショックを受けるのではないでしょうか。
なんでショックを受けるのかというと、やはりその”記憶”というものは、”自分”という存在を構成するにあたって、大変に重要な必要不可欠なものであると感じているからではないでしょうか。

でも果たして、本当にそうであるのだろうか?とわたしは疑問を持ったのです。







レナードという男は、記憶がもう昔のだろうと最近のだろうとものすごく複雑にこんがらがって、何が正しいのかそうでないのかがまるでわからない状態になっている。
でも彼は不安そうでありながらもとても自信を持って生きているのを感じたのです。
彼はどこかで、記憶というものが自分という存在を作りあげているわけではないと言っているようにわたしには想えました。

そして記憶というものが、果たして正確であれば価値があり、不正確であるなら価値はないのか?ということも考えました。
もし、不正確であっても同じく価値のあるものだとするならば、それは一体、なんと呼ぶものであるのだろうか?

いわばその記憶は”フィクション”の記憶として記憶された記憶です。
”ノンフィクションの記憶”と、自動的か故意に、作られた”フィクションの記憶”。
本物の記憶と、偽物の記憶。
人が本当に、必要とする記憶がもし、偽物の記憶であった場合、その偽物の記憶は本物の記憶より価値が勝るのだろうか。









少なくとも、レナードが生きてゆく為に必要としたのは、偽物の記憶だったことが映画を観ると理解できます。
彼が自分を自分たらしめる記憶として選んだのが、偽物の記憶だったということです。
彼は本物の記憶よりも偽物の記憶に価値を置いた。
それは言うなれば、彼は本物の自分よりも偽物の自分、フィクションの自分に価値を置いた、ということになるのではないだろうか。

そんな彼の眼は、悲しくも、美しくいつもキラキラと輝いているのは何故なのでしょうか?
復讐に燃えているから、というよりも、彼は偽の記憶を持ったこと、その記憶を全身で受容したことによって、彼はまるで生まれ変わったように生き生きと生きられているかのようにわたしには見えたのです。

そんな彼を、最初は哀れに感じる自分がいたのですが、時間が経って、彼の存在はものすごく素晴らしい存在のように想えてくるような、彼が選び取った正しい記憶は、フィクションだったことと、自分が現実よりもずっと創作世界に重きを置いて生きていることの共通した生き方があることにやっと気づけたのです。

彼は決してふわふわした世界を生きているわけではないのではないか、彼はむしろ、本物の記憶をしか信じない人たちよりもずっと確かな世界を生きているかもしれないのです。