摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

元伊勢 籠神社(宮津市大垣)~「海部氏勘注系図」が引用する「丹後国風土記残欠」への議論

2023年12月30日 | 丹後・丹波

[ もといせ このじんじゃ ]

 

古代史ロマンにひたるうえで大変重要だと感じて来た当社へはさすがに遠いのでなかなか足が向かなかったのですが、良いタイミングを見つけて参拝に訪れました。通常の土曜日でしたが、そこは観光地、団体客ふくめ多くの参拝者がおられました。ただ、残念ながら籠神社と奥宮の真名井神社ともに、境内での撮影禁止である旨の掲示がされていたので、いつものように社殿・境内の様子をここに載せることはせず、周囲の写真を付けております。NHKの「ブラタモリ」や「新日本風土記」で当社が出てこないのは、このような神聖さを固く守るスタンスによるのかしら、と思いました。当日は天気が不安定で、丹後へ向かう途中の山中では小雨が降っていたのですが、幸い参拝時は雨があがり落ち着いて参拝できました。

 

神社裏から、股覗きの傘松公園に登るケーブルカーの駅に行けます

 

【ご祭神】

現在のご祭神は、海部氏・尾張氏の始祖神と一般に語られることの多い、彦火明命。そして、相殿として豊受大神、天照大神、海神(わたつみのかみ)、天水分神が祀られています。

「日本の神々 山陰」で山路興造氏は、当時(80年代)のご祭神が、天照大神、豊受大神、天水分神であり、海部氏の祖・火明命と氏神の住吉神を併せ祀っている、と書かれていましたから、近年に主祭神を変えられたようです。山路氏はご祭神には諸説あり、一定しないとも書かれています。

 

境内前

 

【海部氏と「海部氏系図」】

言うまでもなく、当社は丹後海部氏の中心的神社です。先の山路氏は、当時まだ国宝になって時期も経ってなかったろう「海部氏系図」に触れられています。貞観十三(871)年から元慶元(877)年の間に記されたとされるその社蔵の「海部氏系図」~~平安時代に書写された「祝部系図(本系図)」と江戸時代初期に書写された「勘注系図(丹波国造本記)」。共に国宝~~によれば、始祖は彦火明命で、「日本の神々」執筆当時の宮司海部穀定(よしさだ)氏が始祖から八十一代目にあたると山路氏は書かれています。系図の正式名称は、「丹後国与謝郡従四位下籠名神従元于今所斎祝部奉仕海部直等之氏」の標記をもち、彦火明命から海部直田雄祝までの歴代を縦系図として記載しているものです。山路氏は、たんに海部氏の推移だけでなく古代における氏族変遷のあり方を知る史料として第一級ものもとされている、と当時注目されている様を書かれています。

ただ、現在においては、以前住吉大社摂社・大海神社の記事で触れさせていただいた通り、海部氏を尾張氏や皇統系譜とつなげる為の架上(健振熊宿禰から上)が施された「仮冒系譜」であるという系図学者・鈴木正信先生のようなご見解も存在する事も事実です。個人的には納得したくない内容ですが・・・

 

二の鳥居

 

「海部氏系図」は江戸時代にも知れらていたようで、水戸藩主徳川光圀が「大日本史」を編纂する時、「系図」の拝観を要請したそうですが、当時七十代海部直永基(ながもと)は、御神体であるからとその要請を断ったそうです。この話は上記の穀定宮司から金久与市氏が聞いたと、「古代海部氏の系図」に書かれていました。なお、永基宮司が「勘注系図」を書写した勝千代で、「籠大明神縁起秘伝」の撰定(1670年)も行った御方です。

 

門は社殿同様の神明造風

 

佐伯有清氏編「日本古代氏族事典」による海部氏の説明では、海、海人部とも書き、海産物を献納したり航海に従事した海部の部民名や、その伴造氏族だったことにもとづく、となります。姓は直が多く、連、臣、首、公姓もみられます。「日本書紀」では、応神天皇三年に阿曇連の祖である大浜宿禰が海人の宰になったとあり、五年に゛令諸国、定海人及山守部゛とみえる一方、「古事記」では応神天皇段に海部、山部、伊勢部を定めたと記されます。「日本書紀」では、雄略天皇や敏達天皇の時代にも外交関係で活躍した吉備国の海部直がみられます。あとは、奈良時代以降に遠江国、尾張国、越前国、因幡国、出雲国、紀伊国などなど各地の海部氏が見え、そのうちの丹後国の海直押立の一族が、「海部氏系図」の海部直だと説明されています。

境内には、亀に乗った倭宿禰命(珍彦、椎根津彦、神知津彦)像があり、その説明板には記紀での神武天皇と関わる話と共に、゛亀に乗ったお姿は、応神朝の海部の賜姓以前、海人族の始原の一面を語り、又海氏(あまうじ)と天系(あめけい)との同一出自をも示唆するようである゛という、第八十二代宮司海部光彦氏の言葉が記され、海部以前にはアマ氏だった事を示唆されます。これは、先代穀定宮司が「籠大明神縁起秘伝」で主張されていた、「日本書紀」本文が彦火明命を瓊瓊杵尊の子としたのは作成当時の撰者による作為であり、天孫を「九州降臨」系に統一して「丹後降臨」系を削除したとするお考えを引き続き訴えられていると理解されます。なお、亀に乗った倭宿禰命像は神戸市の保久良神社にもあります。

 

門の前から拝殿を撮影しました

 

【神階等】

平安時代の当社の神階としては、「続日本後紀」によれば849年に従五位下を授けられ、「三大実録」864年で正五位下、871年に従四位下、そして、877年には従四位上が、授けられています。正式名称から、従四位下の時期に「系図」が作成されたと考えられているということです。「延喜式」神名帳では、与謝郡の筆頭に「籠神社 名神大月次新嘗」と記されています。

 

恵比須神社はこちら側の奥。だたし、ご祭神は彦火火出見命と倭宿祢命。

 

【゛元伊勢゛の伝え」】

当社を伊勢神宮外宮の旧地だとする説は早くからあり、当社背後に現在もある成合寺にまつわる「成合寺旧記」所引の、1335年7月日付の「大谷寺衆徒勅願寺訴状」に゛所謂豊受大神宮之本宮籠宮大明神゛と書かれています。また、上記した「籠大明神縁起秘伝」(1681~84年写し)にも゛夫当社籠大明神ハ即豊受大神也゛とし、さらに゛人王十代崇神天皇ノ御宇天照大神幸干与謝宮、与謝宮ハ則是籠大明神也゛ともかかれているようです。

 

こちらの奥に、猿田彦社、春日社、天照大神和魂社、眞名井稲荷社が鎮座

 

このように、外宮の旧鎮座地が丹後国に分かれる前の丹波国である事は昔から言われていたのですが、その比定地については諸説あります。古い記述としては、「止由気太神宮儀式帳」に、雄略天皇のとき天照大神の託宣により゛丹波国比治乃真奈井坐我御饌都神゛を伊勢の山田原に遷宮し、天照大神の朝夕の御饌の神としたとあり、また鎌倉時代成立の「神道五部書」以来の伊勢神道は、伊勢外宮の旧地を丹波与佐宮としています。特に前者の古文書から比定されるのが、京丹後市の比沼麻奈為神社です。

一方当社では、境外摂社の真名井神社と奥宮として、その古称を匏宮(よさのみや、与謝宮)、別称豊受大神宮だとして、この地こそが「止由気太神宮儀式帳」の記す゛比治乃真奈井゛であると説明されます。大化改新のあと与謝宮を籠宮と改称し、一時彦火々出見を祀っていましたが、719年に現在地に遷し、旧地を奥宮とした、ということです。この説にもつづき、社名を「丹後一宮 元伊勢籠神社」と呼称しているのです。なお、「日本の神々」の執筆当時は、「元伊勢宮丹後之国一宮 総社籠神社」が正式名称だったと、山路氏は書かれています。

 

境内東側の駐車場より窺えた本殿。棟持柱と10本の鰹木をもつ立派な高欄付き神明造。千木は内削ぎ

 

【所蔵神宝】

上記しました国宝の「海部氏系図」と並んで特筆されるのが、神宝の2枚の伝世鏡です。出土したものではなく、神社に代々伝わてきた鏡というとても珍しいもので、昭和62年10月31日に公開されました。これら2枚の鏡については、「勘注系図」のはじめに、゛天祖が二璽神宝(ふたつのみしるしかんだから)すなわち息津鏡と邊津鏡を天鹿児弓(かごゆみ)と天羽々矢(はばや)をそえて火明命に授けた゛と記されています。

「邊津鏡」は、径が小さい方で9.5センチのもの。紀元前1世紀後半(約2100年前)の前漢時代の後期につくられたものです。名称としては、連孤文昭明鏡あるいは連孤文明光鏡と呼ばれるものだと、公開当初に樋口隆康氏が説明しておられました。一方、「息津鏡」の方は、もう少し大きな鏡で、径17.5センチ。銘文は真ん中の四葉座の葉間に゛長宜子孫゛という四つの文字が配置される内行花文鏡です。こちらは後漢鏡で約1950年前のものと考えられています。この゛長宜子孫゛内行花文鏡の類品は九州から近畿、東海にかけて出土していますが、とくにホケノ山古墳から出土し、大神神社が所蔵しているものが有名です。

 

重要文化財の狛犬。こちらが阿形で奥の前足が割れています

 

上記以外にも、木製扁額や、境内から出土したという銅経筒二口、菊花双雀鏡一面、線刻如来鏡像一面がいずれも重要文化財に指定されているなど、多数の宝物を誇ります。その中でもユニークなのが、こちらも重要文化財となっている社前の狛犬一対。鎌倉時代末の作とされていて、阿形の狛犬は右前足が割れています。昔、この犬が夜になると天橋立に飛び出して通行人に悪戯をしたので、岩見重太郎が斬りつけた跡だとの伝えがあるようです。

 

境内から出て、駐車場を通って奥宮に向かいます

 

【鎮座地、発掘遺跡】

宮津湾に連なる有名な天橋立の北側、成相山の麓に鎮座します。宮津からは渡し船で渡り、歩いてすぐのところです。社地の西側は丹後国国府の所在地で、古代・中世を通じて丹後地方の中心地でした。国府跡付近の中野遺跡からは、縄文時代の土器、弥生後期の土器や、奈良時代から平安時代の瓦など数多くの出土遺物が発掘されています。

中世の当社の景観は、かつて「ブラタモリ」の丹後の回でも取り上げられていた、雪舟による「天橋立図」に刻銘に描かれています。神領としては、「丹後国田数帳」に、籠宮田として四十六町二百十歩(訳46万平方メートル)ほかが記され、丹後国一の宮としてかなりの規模と勢力をもっていたようだと、山路氏は見られています。しかし、近世は社領を失い、わずか八斗四升四合(10斗が1石)となりました。1845年に社殿を再建、昭和初年に改築されています。奥宮の真名井神社の社殿は、1832年に再建されたものでしたが、2020年に最新の改修がされたところです。

 

天橋立も見える一般道を歩くと、鳥居が見えてきます

 

【祭祀・神事】

当社の例祭は、現在は4月24日に行われますが、古くは四月の二の午の日とされていました。「丹後州宮津府志」に゛四月中の午の日、葵の祭とて近郷の土民数多出て、太刀振りと云う事を成す・・゛と見えるように葵祭と呼ばれてきました。社伝では、籠明神が中野の鉾立山大乗寺に天降ったとき、神社にむけて鉾を振り悪魔を払ったのに始まるとも、丹後国府に立つ六斎市に竜神が現われ市を妨げる悪魔疫神を払ったのに始まるともいわれます。

 

真名井神社の一の鳥居。正面に民家があるので、撮影時は気遣いが必要です。もう少し歩きます

 

葵祭というと、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭と同じ名前ですが、実はこの賀茂神社の葵祭は江戸時代まで、同じ四月の二の午の日に行われていました(明治維新後に5月15日に)。また、籠神社の葵祭りの中心になるのが「御生れ(みあれ)神事」ですが、賀茂別雷神社でも大祭の前の12日の夜に「御阿礼(みあれ)神事」が行われます。実は、海部家の極秘伝によれば、彦火明命は賀茂別雷神社のご祭神別雷命と異名同神であるというのです。

 

真名井神社入口

 

【「丹後国風土記残欠」に関する近年の議論】

鈴木正信先生の「古代氏族の系図を読む」で、上記の「勘注系図」に、中世から近世にかけて述作された「丹後風土記残欠」の文章が引用されているという説明がありました。「丹後風土記残欠」というと、「出雲と大和のあけぼの」や「出雲王国とヤマト政権」で付録として引用されるほど出雲伝承では重視された文献でもある事から大変興味深く思い、鈴木氏が引用された福岡猛志先生の「「丹後国風土記残欠」の基礎的検討」を読んでみました。その中では、上記した海部穀定宮司の文章(「原初の最高神と大和朝廷の元始」1984年)も批判的にですが検討されています。

 

鎮座する藤岡山は、またの名「天香語山」とも呼ばれます

 

「残欠」に対しては、1901年に邨岡良粥氏によって、19世紀中頃の鈴木連胤と六人部是香による偽造であるとの説が出されていて、そのまま議論は止まっていたようです。主な根拠は、地名由来説明のなかの、高橋郷と田造郷は、流布本の「和名抄」の誤記をそのまま鵜呑みにしており、善本「和名抄」や他の関係資料状況から、それぞれ椋橋郷、田辺郷が正しい事が明らかだからです。これに対し福岡氏は、奥書の書写者の記述から写本の段階を3つに分類され、21種の写本の識語を俯瞰された上で、一番古い分類の識語に載る3人の書写者、智海、素然、菅原長近に、元々「残欠」を所有していた白川柏王家との繋がりや、書写をする動機が十分にある事を示されます。そして、鈴木連胤と六人部是香らが、そのような書写者の手の込んだ繋がりまで造った上で偽造したとは考えられないと結論づけられます。さらに、榎村寛之氏によると「和名抄」の誤記は近世の流布本以前から存在し、室町期まで遡るようです。

 

御神水をいただく眞名井水神社

 

それでも、高橋郷と田造郷が誤記である事には変わりなく、「残欠」が奈良時代当初に作成された「古風土記逸文」でない事は決定的であり、それを根拠に古代史を論ずるならば、誤りとなる、と福岡氏は考えます。この事は、凡海郷で大宝元年に起こったという、土地が陥没するほどの大地震が、実際はマグネチュード6.5程度だっただろうという最近の調査からも裏付けられます。701年だと古風土記からすれば゛現代史゛であり、実在しなかった大規模な天変地異が同時代に記述されるはずはないからです。福岡氏は、「残欠」は長亨年間(1487-1489年)に世に出たものであり、「中世風土記」の一種とも言うべものと結論付けられていました。そして、「残欠」に一致する文章が「勘注系図」にも見られることは、その江戸時代初期だとされている書写年代への疑念は解消されたものの、成立年代は再検討が必要となり、次稿の課題だと締められていました。

 

三の鳥居から。神々しい雰囲気

 

【高橋郷と田造郷】

「勘注系図」の内容が古代に成立していない可能性が有る事は理解できましたが、古代の成立でなくとも、律令制の時代に表立って書けなかったことが、律令制がすっかり崩れて言えるようになった時代に成立、或いは表に出た文章だったとしても、それほど問題になるのでしょうか。こういう感覚は、福岡氏の論文の中で問題視された海部穀定氏のお考えと通じるのでしょうか。福岡氏は注記で、゛(「残欠」を)中世における地域伝承をまとめたものとして見れば、別の意味を持つかもしれない(海部氏が言われたのはそういうことであろう)゛とも書かれていました。福岡氏は、海部氏の文章を邨岡氏への反論として見られていましたが、゛全くかみあっていない゛と表現されていたのが面白かったです。そもそも、宗教家と学者の文章を直接対比するのが良くないような感じを受けました。

 

磐座主坐ご祭神は豊受大神。奥に塩土翁が住吉神として祀られます。こちらも巫女さんおられます・・・

 

「残欠」の高橋郷と田造郷の誤記が大きな問題で、正しくは椋橋郷、田辺郷だったということですが、正しい地名で見ても、「残欠」の説明内容は成り立つように思います。「椋」はオグシオの小椋(オグラ)のクラで、高橋郷の話は神庫や天蔵の話なので、「椋」の方が合いそうです。一方の田造郷も、田が出来る話ですが、田は変わらないし、泥(ヒジ)の真名井や霊泉の話で、水辺の話ということではおかしくない感じです。話の内容は古代からあったもので、室町時代に地名だけが間違えられた可能性はないのでしょうか。ということで、学説でそうそう簡単にひっくり返せない、力強い信仰が秘められているようにしつこく感じています。

 

海部穀定・光彦宮司による、海部氏が天孫系と関わるとするお考えは、出雲伝承の説明と合わせると、「先代旧事本紀」に記載された火明命のお名前と重なるようで、やはり゛アナジ゛に吹かれてやってきた御方に集約されるということなのかしら、というロマンが湧きます。さらに珍彦ともつながるというのは、この氏族が紀伊の方面にも通じている事をほのめかしているようにも感じます。そして、出雲伝承ではハタ氏・アマ氏の定義・区分けがはっきりしてないことから、その一族は全て血筋でつながっていたというより、大勢で徒党を組んで゛アナジ゛に吹かれてやって来た一体感で結束していたのかしらと、勝手に想像を膨らませています。

 

天橋立

 

(参考文献:籠神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、福岡猛志「「丹後国風土記残欠」の基礎的検討」、谷川健一編「日本の神々 山陰」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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