平安時代のご祭神などについてまとめた、多神社1の記事からの続きです。伊勢神宮と多神社の関係の話の途中でした。今回の写真は、゛大社゛多神社の周囲に鎮座する御子神社を中心に載せます。いずれも堂々の式内社です。あと、周囲三方の見事な絶景も。
【伊勢神宮と多神社】
敏達天皇が、他田宮に日祀部を設置し日神を祭るようになった時期に、多の地から伊勢へ人的な移動が有り、伊勢と多神社の関係が成立しただろうと思われますが、皇祖神天照(アマテラス神)大神はこの時期の日神(アマテル御魂神)と同一ではなく、後の天武・持統朝以降に成立したものだと考えるべきだといいます(大和岩雄氏、筑紫申真氏、今谷文雄氏)。その壬申の乱のとき、最初に挙兵した多臣品治や、神八井耳命を祖とする大分君惠尺、雅臣の活躍の記述を見ていると、天武・持統天皇の時期の伊勢神宮重視と、多氏・多神社との連携強化の関係は無視できない、と大和氏は云われているのです。つまりこの時期に、多氏の協力によりアマテラス神を中心とした信仰体系が現われたという見方です。谷川健一編「日本の神々」が出版された80年代にそう言われてたという事です。
・本殿前を塀の間から・・・
【鹿島神宮と多神社】
一方、この多神社は、茨城県の鹿島神宮との関りも強いのです。鹿島神宮の大禰宜羽入氏の「書留由緒」や禰宜東氏の「ものいみ書留」、そして「当禰宜家譜」などに、鹿島神宮は大同二年(大和岩雄氏は「日本の神々 大和」で、信用できないと云います)に大生神社から鹿島の地に遷座したと有ります。その大生神社は、「ものいみ書留」には大明神が大和の春日社から大生村に遷幸したとあり、「当禰宜家譜」には”春日大明神”を祭祀したが、この神は”南都大生邑の大生大明神”であり、つまりこの多神社の事なのです。これにはそう書かざるを得ない根拠があっての記述だろう、との事です(この辺の詳細について、鹿島神宮の記事で取り上げました)。
・本殿を後ろから
【春日県主の春日宮】
「多神宮注進状」には、神八井耳命が春日県に神籬磐境をたてて皇祖天神を祀り、春日県主の遠祖大日諸命(鴨主命亦天日方命の御子)が祝になったとあります。そして、崇神天皇のときに武恵賀前命(神八井耳命の五世孫彦恵賀別命の子)が太郷に社地を設けたので、旧名春日宮を多神社に改称した、と書かれているのです。さらに成務天皇の時期には、武恵賀前命の孫仲津臣が外宮の目原神社を祀ったともあります。仲津臣、です。
・多神社から道を隔てて小社神命神社が鎮座。立派な石標。右奥に南面で鎮座するのが見えます
春日社というと今は藤原・中臣氏の春日大社が思い浮かびますが、本来の春日社は日神を祭る神社の事で、天照御魂社と違って、日の御子とその母を祀ったものが春日大明神です。大和氏は元々はワニ氏系興世氏の祭神を祀っていたと考えます。そして、有名な”春日大社”は、春日に関わるオホ氏、ワニ氏に、さらに中臣(藤原)氏が加わって成立したもので、すなわち、ワニ氏が祀る春日社の地にオホ氏の鹿島の神を遷したもの、と考えられるのです。
・皇子神命神社。東面してます
・振り返るとこの絶景。東の三輪山です
【鎮座地】
多神社の位置は、"1"で書いたように、東に三輪山、反対の西に二上山、南に畝傍山を見る絶妙な立地にあり、三輪山の朝日や二上山の夕日を拝むのには大和で最も良い場所と言われます。この地は昭和47年の飛鳥川の築堤工事をきっかけに発掘調査が進み、縄文時代から古墳時代に至る遺物が大量に出土しました。特に弥生時代前期から古墳時代中期末の出土品は祭祀的な性格が強く、近くの田原本町遺跡に優るとも劣らない大遺跡だと認知されています。記紀やその他の古代伝承が考古学的にも確認されたのです。
・多神社から屋就神命神社に行く途中。真西の二上山
・同じ場所から、真南の畝傍山
【弥志理津彦とは】
「弥志理津」の「弥」は敬称、「津」も助詞で、「志理」が弟に皇位を譲って退いたという意味の゛退り゛という説がありますが、大和氏はそうではなく、「知る」であり「領る」と同源で、「治める」「統治する」「つかさどる」の意だと云います。「治天下天皇」の「アメノシタシラス」で使われる言葉ですね。
・屋就神命神社
【御子神社】
「延喜式」神名帳には多神社の御子神が四社も入っており、境外摂社として今も鎮座します(一部は論社のよう)。大和氏は、多神社のご祭神との関係を以下のように捉えています。
弥志理津比古 = 皇子神命神社 = 小社神命神社
(スメミコガミ) (コモリ)
瓊瓊杵尊
弥志理津比売 = 姫皇子命神社 = 屋就神命神社
(ヒメミコ) (ヤツキ)
天疎向津少女命
また、御子神を「皇子神」と記す事も異例。「皇(スメラ)」は天皇家にかかわる場合の表記であり、「延喜式」でも他に見当たりません。ただ、ヒメミコという気を引く名前を持つものの、多神社が対馬の阿麻氐留神社を祀る対馬下県直と深く関わる事が想定される事から、内実は対馬のアマテル神と同じだと云えるようです。
(参考文献:谷川健一氏編「日本の神々 大和」)
・姫皇子命神社。拝殿があります
【伝承】
東出雲伝承の新刊「出雲王国とヤマト政権」によると、記紀における神八井耳命の多岐志耳襲撃の話について、神八井耳命はこの御方自身と共に尾張氏、海部氏勢力を象徴し、一方の多岐志耳は多岐津彦の事であり西出雲王国の神門臣氏の分家高鴨氏を象徴していると説明しています。つまり、沼河耳命が2代目大王になり、対抗する尾張氏、海部氏そして高鴨氏が劣勢になったという事です。対して東出雲王国の分家、登美氏は初代に続きこの2代目、そして3代目大王にも立て続けに皇后を嫁がせ、大王家磯城氏になっていったと云います。
・姫皇子命神社の本殿。周囲は暴風対策?
神八井耳命の子孫は、いったん伊予国へ逃れますが、この伊予主の子孫が常陸国に移住し(「事代主の伊豆建国」では、3世紀の九州東遷軍に同行し、その後関東に移ったと書きます)、子孫に仲(那珂)国造武借間(カシマ)が現われます。この御方の後が卜部氏~中臣氏で(那珂国造が中臣とるす出雲伝承の主張については疑問もあり、鹿島神宮の記事で取り上げました)、鹿島神宮を建てて、神八井耳命を祀ったと云います。そして中臣氏から別れた藤原氏が祭神を、登美氏の武甕槌命に変えたらしいです。大王家の血とつながる登美氏を尊敬する気持ちがあり、ここから”ナカトミ”と読ませるようにした、との話もあります(「事代主の伊豆建国」)。
・「日本の神々 大和」の写真では東面する拝殿前に杉の神木が2本有ったのですが、今はないです
「事代主の伊豆建国」には、上総の須恵国造は大布(オウ)日臣だったが、大和の多氏とも親戚で、馬来田国造も同族だった、と書きます。そして、そのオウ氏の娘が鹿島の中臣御食子と結ばれて生まれた息子が鎌足だった、との話を紹介しています。また、高蔵寺の「高蔵観音縁起」では、嫁いだのは(須恵や馬来田辺りの)矢那の長官の娘だとする話も載るそうです。この地域はこれ以外でも、印波国造が太氏、長狭国造が多氏だったとされています。
記紀で神八井耳命が皇位を譲って、天皇の政治を助ける立場になるという説話は、天皇に一番近い位置で要職を担った藤原氏の立場と重なるような気がします。730年の「大倭国正税帳」によれば、当時の経済力を示す蓄積稲が、大神神社で4,019束3把なのに対し、゛太神社゛は10,632束9把を誇っていました。相当に厚遇されていた事がこのデータから明確です。