摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

方違神社(堺市堺区北三国ヶ丘町)~方災除けに御利益がある三国の「境」と田出井山古墳

2023年12月17日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

[ ほうちがいじんじゃ ]

 

訪れたのが日曜日という事もあったかもしれませんが、特に行事が有るわけでもないのに、30台収容できる当社境内の駐車場にすぐに入れず、15分くらいは並んで待つ事になりました。これまで参拝でそんなことは無かったので驚きました。方災除けの神様というなかなか他では見られない(ニッチな?)御利益をお持ちで、住まいの新築・増改築や引越し・旅行という、方角に関わる人の生活上のイベントに対する御祈祷をしていただけるという事で、その分かりやすさで多くの崇敬を集めているからかしら、と感じました。

 

境内

 

【ご祭神・ご由緒】

当社による創祇のご由緒は、崇神天皇5年に疫病が蔓延した時に、天皇は同8年12月(当社は紀元前90年とする)勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原に遣わせ須佐之男神を祀ったところ、疫病は絶え五穀豊穣となったことが起源と説明されます。記紀にはない話です。

時は経って、神功皇后が韓国より帰還されたおり、畝傍山の埴土を採って自ら八十平瓮を造り、天神地祇三千七百五十余座をここに祀って方忌除災を祈り、さらに応神天皇の御代に、素戔嗚命に三筒男命と息長帯姫(神功皇后)を合祀して方違大依羅大神と号しました。三筒男命は、住吉三神ですね。飛鳥時代の孝徳天皇の御代には、奉幣使が派遣されて祈願がなされたといいます。

 

拝殿。社殿は数年前に立て替えられていて綺麗です

 

という事で当社は、主祭神を方違幸六神として、八十天万魂神(天神地祇)・素戔嗚命・三筒男命・息長帯姫をお祀りされています。また、明治時代に合祀した向井大神(仁徳天皇、履中天皇、反勢天皇、菟道稚郎子命、百済王仁)を、合祀御祭神として併記されています。

 

本殿。妻側の入口が見えませんが、桁2間の大鳥造と思われます。住吉造より古い形式

 

【三国の境の「方違」】

当社の鎮座地は、古来、摂津・河内・和泉の三国の国境の地であり、故に「三国ケ丘」といいます。当社は方祟りの災厄が除かれるということで全国からの参詣者が訪れる事で知られます。「カタタガイ」ともよばれるようです。「方違」とは、凶方へ旅行したりするとき神社に参拝して、その穢れを除き災厄から逃れるという信仰で、平安時代には貴族がその都度宿泊地をかえた事に比べると、はるかに手軽な方法とされたと、「日本の神々 和泉」で林利喜雄氏が書かれています。以下、林氏の記述により、その御利益の考え方を説明します。

 

本殿。裏道から妻側が見えました

 

方違神社が摂津・河内・和泉の境界地点にあるという事は、国境は凶方を打ち消すという考え方によるもので、とくにこの地は東西南北の方角を殺しあっており、よって方位のない土地ということになるようです。これは「摂陽落穂集」にも載っている考えです。

 

裏道側の石標。こちらは車の通行は禁止です

 

林氏はたとえとして具体的に説明されています。河内国から和泉国へ行く人は普通は西へ向かって旅をします。もし西が凶方であってなおかつ和泉国に用事がある場合は、方違神社を経由して行けば良いのです。つまり、神社は摂・河・泉の国境にあるから、ココを参拝して一歩西北に境内を踏み出せば摂津国となり、そこから改めて南の和泉国の方角へ向かえば、単純に西に向かう旅は避けられることになります。現在では、方違神社へ行って境内をぶるりと回っておけば、一挙に三国の土地を踏めて自然に方違になるとされています。

 

当社が末社とする神明社

 

【中世以降歴史】

後白河法皇の平治元年(1189年)に従三位に叙せられ、後鳥羽天皇の文治五年(1159年)には社殿を造営、また後醍醐天皇の時代に勅願所に定められ、修理の時は住吉大社と同時に与り、徳川の時代になってもこれにならいました。

 

同じく末社・稲荷社。拝殿向かって左の通路をくぐると境内社が集まる場所があります

 

当社には、743年に聖武天皇の勅願により行基が開創したと伝えられる向泉寺(三国山遍照光院)が存在し、千手観音を本尊として隆盛を極めていたようです。今も榎元町に、向泉寺閼伽井跡が残っています。しかし、永正年間(1504-21年)兵火にかかり、その後は市内の向井領町に移りましたが享保年間に廃寺となりました。市之町東に跡碑があるそうです。

 

末社・八幡社

 

【祭祀・神事】

当社の重要な例祭が、5月31日の「粽祭」です。この祭では、葦の葉に埴土を包んだ粽を受けると方祟りの災を免れることが出来るとされて、当社の神符および葦の粽を受けて家に納め、また持ち歩いて、転居・普請・旅行の際の災厄を除く慣わしでした。今日、祭典のお供えの品として粽と飴(延命飴)を造り、これを食べる(なお神社授与品の粽は、食べる物ではなく御守り)と災厄を免れ長寿を保てるとして、希望者にわける習慣が残っています。

 

楠木姫大神。鳥居や立派な覆屋があります

 

【田出井山古墳(反正天皇陵)】

当社の境内は、宮内庁指定陵墓である田出井山古墳の後円部北側にあたります。この古墳の周囲は住宅地で囲まれていて、「百舌鳥古墳群をあるく」で久世仁人氏は、この古墳の堀と墳丘を見通せるのは当社の境内からのみだという事です。田出井山古墳は反正天皇百舌鳥耳原北陵と指定されていますが、大王陵としては規模が小さいので、反正天皇の陵はニサンザイ古墳との説もあり、宮内庁もその可能性からニサンザイ古墳を陵墓参考地に指定しています。田出井山古墳が耳原北陵ではないとして、北陵が大山古墳、中陵が石津ヶ丘古墳、そして南陵が大塚山古墳(1952年にほぼ破壊。墳丘長168メートル)に充てる説も存在します。

 

境内から望む田出井山古墳の後円部

 

田出井山古墳は、墳丘長148メートル、三段築成の前方後円墳。今は盾形の一重の堀で囲まれますが、発掘調査で二重の堀が有った事が分かっています。1987年の調査で西側の外濠が見つかり、堺市によると13世紀中頃から14世紀後半に埋まったと見られているのです。これまでの調査では、円筒埴輪や朝顔形埴輪、衣蓋、人物形の形象埴輪の他に各種須恵器、メノウ製の勾玉なども出土。築造時期は5世紀中頃と考えられています。東側に二基並ぶ天王古墳(飛地ろ号)と鈴山古墳(飛地い号)は、田出井山古墳の倍塚と考えれれていますが、後円部の北東にも陪塚があったことが分かっていて、方違神社の境内で出土した埴輪はこの陪塚のものかもしれない、と久世氏は考えられています。なお、この古墳と方違神社の関係について語られる事はないようです。

 

境内の背後で存在感のある田出井山古墳

 

(参考文献:方違神社公式HP、堺市「百舌鳥古墳群」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 和泉」、久世仁士「百舌鳥古墳群をあるく」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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