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摂津三島からの古代史探訪

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和爾下神社(天理市櫟本町) 和爾下神社古墳の墳丘上に鎮座する有力豪族・和珥氏の社

2025年03月15日 | 奈良・大和

[ わにしたじんじゃ ]

 

和邇下神社の名を持つ神社は、こちらの天理市櫟本と大和郡山市横田の二社あり、別称として前者が上治道天王、後者が下治道天王とよばれています。今回は、前方後円墳の後円部の上に鎮座するという上治道社の方を参拝させていただきました。「駐車場」と案内表示が整備された駐車場がありますが、神社の社叢の北側をまわって神社に向かう途中、゛車両の通行は禁止゛との旨の表示があり、不安になりましたが、問題なく停めれました。駐車場は区画表示の整備中で、念のため停めていいか尋ねましたが、お咎めはなかったです。

 

駐車場からすぐにこんもりした境内に入っていきます

 

【ご祭神・ご由緒】

上治道社、下治道社ともに、現在のご祭神は大己貴命、素盞鳴命、稲田姫命が祀られていますが、゛治道天王゛の呼称からも分かる通り、明治時代までは牛頭天王社でした。そして、さらにそれ以前の本来の姿としては、櫟本の当社は古代豪族・柿本氏の始祖を、そして横田社は同じく櫟比氏の祖を祀っていたとみるのが妥当だと、「日本の神々 大和」で土井実氏が書かれています。明治7年の櫟本の祠官の報告書には、本社に天足彦押人命、彦姥津命、彦国葦命を、そして若宮には難波根子武振熊命を祭神とすると書かれ、また栗田寛氏「新撰姓氏録考証」には、゛(横田の)和爾下神社の神官は櫟井氏で、祭神は天帯彦国押人命、日本帯国押人命の二座゛とあることも、土井氏は付記されます。

 

見出し写真の鳥居の先には厳島神社(左)と十二社

 

「日本書紀」には、第5代孝昭天皇の皇子として天足彦国押人命、日本帯彦国押人命を載せ、前者が和珥臣らの先祖、後者が考安天皇となったと書きます。彦姥津命、彦国葦命、武振熊命も和珥氏の先祖とされ、それぞれ開化天皇条、崇神天皇条、神功皇后条に登場します。また、「古事記」にもほぼ同様な場面で登場(彦姥津命は日子国意祁都命の名で)しています。ということで、古代の重要豪族・和珥氏に関係する神社であると理解できます。

 

左手に曲がった突き当りに稲荷神社。そこから右方向に後円部を登ります

 

【祭祀氏族】

「古事記」の孝昭天皇段には、天押帯日子命の表記で子孫氏族を詳細に記しています。つまり、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋(櫟井)臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢の飯高君、壱師君、近江の国造の先祖とされています。そしてこれらの和珥氏系氏族から、開化、応神、反正、雄略、仁賢、継体、欽明、敏達帝に后妃を送り出したとされているのです。

和珥氏は雄略帝の頃から春日和珥氏を称するようになり、これが春日地方への本拠の移動なのか、春日の支族と勢力交代したのか判然としないと、「日本古代氏族事典」は言います。やがて氏名は春日となる一方で、大宅、小野、粟田、柿本の各氏が分出していきました。

 

後円部の境内への登りの角には琴平神社(左)と熊野神社

 

柿本氏は和珥氏の後裔氏族。姓は臣で、天武天皇13年に朝臣姓を賜っています。氏名は和珥氏の本拠地であった当地の柿本寺村の地名に基づきます。「新撰姓氏録」には、大春日朝臣同祖であり、天足彦国押人命の後であり、敏達天皇の時代に家の門に柿の樹が有った事により柿本と為ったと見えます。この所伝は他では見えないようですが、同族の小野氏、大宅氏、粟田氏については敏達期に和珥氏から分化したと考えられていると、「日本古代氏族事典」にはあります。

有名な御方としては、やはり「万葉集」の代表的歌人である柿本朝臣人麻呂です。ただ、経歴は不明なところが多く、位はせいぜい六位以下の下級官人だったとされています。当社の境内には柿本寺跡地が残されていて、神社境内となっている和邇下古墳の石棺か石槨に関わると推定される石材が置かれています。調査により奈良時代の古瓦が出土したことから、創建は奈良時代と考えられます。

 

拝殿

 

一方の櫟井氏の方も同様の始祖系譜をもつ和珥氏の同族ですが、「和邇系図」には春日朝臣氏の祖である人華臣の孫津幡臣(小野朝臣の祖野依臣の弟)の尻付に「櫟井臣祖」とあるとのことで、小野氏から分かれたという事が書かれているようです。「姓氏録」では、゛櫟井臣。和安部同祖。彦姥津命五世孫、米餅舂大使主命之後゛とあります。

当地からさらに北方の春日地域には、春日氏、大宅氏が拠点としたと考えられていて、和珥氏全体としては当地から奈良市の佐紀古墳群のある地域までが勢力範囲であると考えられています。

 

本殿は境内からは屋根しか見えません

 

【鎮座地】

「和邇下」と称するのは、上下治道社の両社が和爾坐赤坂比古神社に対して低地に鎮座するからであろう、と先の土井氏は述べられます。二社は高瀬川に沿うように東西に走る横田道(斑鳩方面から伊賀へ通づる古代の道路で、これが治道ともいう)の北に接して鎮座しますが、櫟本の社地は上ツ道と横田道の交点で、しかも東には山の辺の道も通るという古代の交通の要衝でありました。櫟本の当社はこんもりとした社叢に覆われた、3400坪の境内を今も保持しており、その中にある前方後円墳・和爾下神社古墳の後円部に社殿が築造されている形で鎮座しています。

 

垣の間から重要文化財の本殿を拝見。

 

【社殿、境内】

本殿は三間社流造で、向拝付きの檜皮葺屋根の構造です。記念碑によると、桃山時代の風韻を遺した彫刻色彩に優美な手法が見られるとのことです。昭和13年に当時の国宝建築物に指定され、現在は重要文化財となっています。昭和46年に国庫の補助も受けて、本殿の屋根葺き替えや拝殿などの改築などの社頭の修復を行ったことが記念碑に刻まれています。

 

垣内の若宮社。本殿向かって左。事代主命を祀ります

 

【和邇下古墳】

全長105mの前方後円墳で、後円部が社殿を伴う境内となり、前方部が北方に向いています。墳丘の裾では埴輪円筒棺が検出されていますが、埋葬施設は明らかではないようです。築造時期は、東に位置する東大寺山古墳、赤土山古墳に続く、古墳時代前期末から中期初頭(4世紀末~5世紀初頭)と考えられます。上記したように柿本寺跡地に、寺の礎石と共に、もと付近の石橋に用いられていた播磨竜山石製の石材が置いてあり、存在感を放っています。「大和の古墳を歩く」で森本惠介氏は、石棺側石か石槨天井石と見られると書かれていて、この古墳のものである可能性も考えられる、といことで和邇下古墳のものかは確定していないようです。なお、東大寺山古墳、赤土山古墳などの古墳時代前期の古墳が和珥氏と関わるかどうかについては、様々な議論が有ると天理市は述べています。

 

後円部上境内への登り石段。向こう側が前方部になります

後円部上の境内

 

【伝承と近隣の発掘状況】

東出雲伝承では、3世紀の中ごろに九州からの(2回目の)東征勢力が、生駒山からこの和珥の地を目指して最終的に勝利を収め、元々居た勢力は丹波~山陰方面に逃れていった旨の話がされます。そして、この地域に残る史跡として当社和爾下神社に触れています。また、和爾氏とは要するに、そもそも東征勢力の前にこの地で王統系譜を繋いでいた王族を、万世一系の大王系譜の分家のごとく説明したものだと主張しています。つまり王朝交代があったという説明です。

 

和邇下古墳のものとも考えられている石材

 

ただ、現在に残る遺跡を見る限り、この地には古墳があるのでそれより古い時代の痕跡は見えず、またこの地の北側にほぼ隣接する和爾丘陵では、弥生時代後期に起こり古墳時代中期には四面庇付き大型掘立柱建物も確認される巨大集落である和爾遺跡が広がっているなど、弥生後期から古墳時代にかけて継続してお盛んな感じがします。さらに、その和爾丘陵の低地の方には、森本窪之庄遺跡や和爾森本遺跡において弥生時代中期からの人の居住も確かめられています。そして、これら低地の遺跡でも、弥生時代後期から古墳時代前期に遺構、遺跡が特に増加し、その後も活発な状況が続いたことが伺えると、天理市は説明しています。

となると九州勢力は、和爾下神社のある地域の南側に入ってきた程度のことだったのかしら、とも感じられてきます。移住者がやってきたら、確かに何らかのイザコザは付き物なのかもしれませんが。

 

和爾下神社社叢。この中に古墳があります

 

(参考文献:天理市公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、森下惠介「大和の古墳を歩く、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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