
[ わにしたじんじゃ ]
和邇下神社の名を持つ神社は、こちらの天理市櫟本と大和郡山市横田の二社あり、別称として前者が上治道天王、後者が下治道天王とよばれています。今回は、前方後円墳の後円部の上に鎮座するという上治道社の方を参拝させていただきました。「駐車場」と案内表示が整備された駐車場があります。
【ご祭神・ご由緒】
上治道社、下治道社ともに、現在のご祭神は大己貴命、素盞鳴命、稲田姫命が祀られていますが、゛治道天王゛の呼称からも分かる通り、明治時代までは牛頭天王社でした。そして、さらにそれ以前の本来の姿としては、櫟本の当社は古代豪族・柿本氏の始祖を、そして横田社は同じく櫟比氏の祖を祀っていたとみるのが妥当だと、「日本の神々 大和」で土井実氏が書かれています。明治7年の櫟本の祠官の報告書には・・・・・・
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【祭祀氏族】
「古事記」の孝昭天皇段には、天押帯日子命の表記で子孫氏族を詳細に記しています。つまり、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋(櫟井)臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢の飯高君、壱師君、近江の国造の先祖とされています。そしてこれらの和珥氏系氏族から・・・・・・
後円部の境内への登りの角には琴平神社(左)と熊野神社
・・・・・・
一方の櫟井氏の方も同様の始祖系譜をもつ和珥氏の同族ですが、「和邇系図」には春日朝臣氏の祖である人華臣の孫津幡臣(小野朝臣の祖野依臣の弟)の尻付に・・・・・・
【鎮座地】
「和邇下」と称するのは、上下治道社の両社が・・・・・・
【社殿、境内】
【和邇下古墳】
【伝承と近隣の発掘状況】
出雲伝承・口伝では、・・・・・・和爾氏とは要するに、そもそも東征勢力の前にこの地で王統系譜を繋いでいた王族を、万世一系の大王系譜の分家のごとく説明したものだと主張しています。つまり王朝交代があったという説明です。
ただ、現在に残る遺跡を見る限り、この地には古墳があるのでそれより古い時代の痕跡は見えず、またこの地の北側にほぼ隣接する和爾丘陵では、弥生時代後期に起こり・・・・・・
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