摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

鍬山神社(くわやまじんじゃ:京都府亀岡市上矢田町)~゛矢田の紅葉゛の名所に潜む、出雲神と八幡神の不和伝説

2021年11月06日 | 丹後・丹波

 

゛矢田の紅葉゛と呼ばれて、その真っ赤に燃えるような紅葉で知られる神社です。本年度から11月の紅葉期には駐車料金を頂きます、との神社公式HPの案内が有った事から、その直前の時期に参拝させていただきました・・・境内をじっくり拝見したいこともありますので。色づき情報では「青葉」でしたが、色づきが始まった時期で紅葉の雰囲気はある程度味わう事が出来ました。さすがに名所という事で、カメラを片手に撮影に訪れる方が何人もおられました。

 

・枚方亀岡線沿いの大鳥居。境内と駐車場はこの少し奥です

 

【ご祭神・ご由緒】

鍬山宮に祀られるのは大巳貴神こと大国主神。そして、一応境内社の八幡宮に応神天皇がお祭りされています。

社伝では創建は709年とされる、桑田郡所属の式内社です。太古、亀岡盆地は沼胡で大蛇のひそむところだったのを、出雲大神が八神と黒柄山で話合い、鍬で浮田の峡(保津峡)を掘り開き、水を山城国に流して今のような平地にしました。そして、人々は出雲大神を天岡山(面降山)の麓に祭って、「鍬山大明神」として崇めました。以来、この神は神無月の出雲大社での神の集まりには参加せず、郡内の八社がこの神社に集まったとの伝えもあるようです。

神社の名前の由来としては、先の社伝にある゛鍬゛が山を成したから、と言う所伝があり、また近くの大堰川の右岸にも大山咋神を鋤に象徴して祀るという桑田神社があります。明治以前には請田(うけた:浮田)大明神と呼ばれ、黒柄山に集まった八神の一神だったとのこと。対岸にも大山咋命を祀る請田神社があります。「日本の神々 丹波」で植木行宣氏は、同じ伝説にもとづく作為の説ともとれなくはないが、開拓神にふさわしい興味ある伝承だと考えられていました。

八幡神については、1165年天岡山に天降られたので鍬山宮の傍らに祀られましたが、夜ごと雷雨があり社辺に殺伐の声があって翌朝には鳩と莵が多く死んでいたので、莵(出雲神)と鳩(八幡神)の争闘を不和の現れとみた村人が、八幡宮を杉谷に移し祀ったという伝説が残っています。

 

・生い茂る木々の奥に拝殿が見えます

・拝殿の奥に鍬山宮(左)と八幡宮が並び建ちます

 

【中世以降歴史】

中世に、丹波に本拠を置いた丹波猿楽が知られていましたが、綾部市の梅若猿楽、日吉猿楽とともにこの地の矢田猿楽が中心でした。猿楽とは、奈良時代に中国から渡来した散楽の芸系を受け、室町時代の初め、観阿弥・世阿弥らによって、今日の能楽に近い姿に整えられたものです。江戸時代までは猿楽と呼ばれていて、能楽と呼ばれたのは明治以降です。サルの呼称は、物まね上手な猿を連想してサンからサルに変わったとか、元々散楽に猿に扮した芸があったから、などの説が有ります。

1576年に明智光秀が亀山城主になった時に、当社の猿楽等の神事を復活させており、岡部長盛も同じく猿楽を再興しています。矢田猿楽はその後もこの地で流れがうけ継がれますが、賀茂社の御土代祭、住吉社の御田植神事などに摂津の榎並座や法成寺座とともに参勤しており、それはほかならぬ当鍬山神社との深いつながりによると、植木氏は推測されます。つまり、その頃専業の猿楽者を活動させるほどの財力と勢いが当社に有ったといえるようです。

 

・鍬山宮

 

【鎮座地、発掘遺跡】

社伝では、創建時の鎮座地は医王谷。当社の西北800mの所で、平安時代中期の医家丹波康頼が住んでいた事が語られます。現在地へ遷座した時期や理由は定かでないようです。1610年の亀山城主岡部長盛による社殿造営にあたり、上記の八幡神の伝説におもんばかって、両社の間に池を設けた事が伝わっていますが、一説に、鍬山神社の遷座はこのときだといわれ、この時の姿が現在も保たれているのです。

当社鎮座地の一帯は、さまざまな遺跡、特に古墳が多いのが特徴で、三ツ塚、桝塚、浄法寺古墳や、法貴、犬養古墳群、君塚があります。氏子地区内の旧三宅村は、「屯倉」つまり朝廷の直轄地の名残といわれ、国衛ないし、郡衛の有った所と考えられています。

 

・八幡宮

 

【社殿】

鍬山宮、八幡宮共に、千鳥破風と長い唐破風の庇を持つ檜皮葺の一間社流造を基本とし、瓦も使う独特の形態で、神社では権現造と呼んでいます。いずれも文化十一年(1814年)の官営で、京都府登録文化財になっています。

 

・八幡宮。細やかな装飾が目を引きます

・二柱の本殿の間にある池

 

【所蔵神宝】

当社には1560年寄進の「王ノ鼻面」という天狗面があります。「杉原家文書」という古文書に、十一月のお火焚神事の所用面で、この面をかぶり薪を荷った姿で鍬山大明神の由来を唱えたと書いてあるそうです。先の植木氏はこれを、若狭湾一帯を中心に各地に分布する民族芸能である王の舞とみるべきものだといいます。通常の王の舞は、舞手は顔に鼻高面、頭には鳥兜、鳳凰の冠などの被り物をつけ、鉾を持って、身を反らしたり膝を曲げたりしながら舞うようです。伎楽の治道がその祖といわれ、猿田彦、天狗はその変化といわれる、と辞典に有ります。室町中期の当社の祭礼はかなりの規模で行われていたとみて良いそうです。

さらに社宝として、上記した矢田猿楽の存在を思わせる、神面一対(翁と嫗)があります。

 

・左から、金山神社、樫船神社、高樹神社、日吉神社、熊野神社、稲荷神社

・左が愛宕神社。右が天満宮

 

【祭祀・神事】

当社の例祭である亀岡祭は、京都の祇園祭のような山鉾が亀岡の街中を巡航するほどのイベントとして有名ですが、今年令和3年はコロナ禍にかんがみ、残念ながら中止となっています。祭としては1681年に復活したもので、城下町の発展とともに京都の祇園祭の影響を受けて宝暦年間(1751-64年)から山鉾が登場しています。現在は11基が保存継承されているそうです。

 

・池の中に鎮座する弁財天社

 

【伝承】

東出雲王国伝承に馴染んだ身には、よりによってこの亀岡の地で出雲神と八幡神を安易に近づけたら、それはいくら何でもマズいだろう、と思ってしまいます。伝承によれば、この二つの勢力~ただし、出雲神側にあたるのはその分家が関わる初期大和政権(葛城~磯城王朝)は、3世紀中頃にこのあたりで最後に対峙し、ついに九州勢力が勝ったと説明しているのです。亀岡市には、その時の大和側の王が祀った小幡神社も現存すると云います。なので、上記のような歴史時代以降の八幡神鎮座時の不和の伝説が明確に残っている事が興味深いです。実際は何が起こったのでしょうか・・・

この亀岡の地が古代から出雲ゆかりの地であるとの出雲伝承の主張からすると、上記した猿楽のサルは、そもそもが出雲由来の「サルタ彦神」から付けた名称だったのではないのか、との思いが募ってきます。

 

・見頃になれば、もっと燃えるような赤になるのでしょう

 

(参考文献:鍬山公式HP、亀岡祭山鉾行事HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 山陰」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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