摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

目原坐高御魂神社(天満神社;橿原市太田市町)~竹田神社とともに対馬卜部が関わる「外宮」と仲臣(ナカツオミ)

2023年07月01日 | 奈良・大和

[ めはらにますたかみむすびじんじゃ/たけだじんじゃ ]

 

現在の神社名は天満神社ですが、下記しますように式内社目原坐高御魂神社とする考えが有力です。そうなると、今となっては大和の一地域の小さな神社という風ですが、その創建が「日本書紀」で京都葛野の月読神社と一緒に語られていることになり、さらにそもそもはあの多神社に対する「外宮」だったという歴史に惹かれた事から、「日本の神々 大和」で大和岩雄氏がセットで取り上げていた竹田神社とともに参拝させていただきました。

 

(天満神社)境内。見出し写真は天満神社入口鳥居

 

【ご祭神・ご由緒】

「日本の神々 大和」での大和岩雄氏によると、当社天満神社の氏子さんは祭神を天神と子安の二座としていて、明治12年の「堺県明細帳」にも゛祭神高御魂神、神産日命、菅原道真゛となっていたと書かれます。大和氏は、氏子さんらが゛天神゛と言うのを菅原道真の天満宮に重ねただろうが、「多神宮注進状」(1149年)のご祭神の記述から、天神は天神高皇産霊尊のことであり、そして子安を𣑥幡千々媛だとされています。

 

(天満神社)拝殿

 

当社鎮座の経緯は、「日本書紀」顕宗天皇三年に、京都葛野の月読神社の創祇譚に続いて記載されている件というのが通説になっています。つまり、阿閉臣事代が命を受けて任那に使いした時、月の神が人に憑いて、゛わが祖高皇産霊は、天地を御造りになった功がある。田地をわが月の神に奉れ゛などといわれた事から、山城国葛野郡の歌荒樔田(月読神社の旧鎮座地)を奉られました。そして、二か月後に今度は日の神が阿閉臣事代に、゛倭の磐余の田を以て、我が祖高皇産霊に献れ゛といわれ、四十四町を献じ、対馬の下県直が祀ったのが目原神社である、というものです。

 

(天満神社)本殿

 

上記の月読神社と当社の創祇譚は、任那に使いした時がきっかけとなっています。祭祀の中央集権化は、上田正明氏らの考えでは欽明・敏達帝の頃ですが、これは任那が滅亡し、朝鮮半島に対する対馬・壱岐の重要度が増した為です。大和氏は、亀卜に優れた壱岐、対馬の卜部氏が中央祭祀に関わったのはこの頃であると思われるので、月読神社の創祇は6世紀中頃か後半だろうと考えられていました。となると、当社も同様に考えて良さそうだとの理解になります。

 

(天満神社)本殿。朱塗りが奇麗でした

 

 

【「多神宮注進状」が語る「外宮」と仲津臣】

多神社の禰宜多朝臣常麻呂らが久安五年に国司に提出したという「多神宮注進状」では、当社目原神社を多神社の「外宮」とします。そして、多神社が「内宮」という関係です。同書によると、綏靖天皇二年に神八井耳命が春日県に神籬磐境をたてて皇祖天神を祀り、さらに崇神天皇七年に武恵賀前命が改めて神祠をつくり祀ったのが多神社で、成務天皇五年に武恵賀前命の孫仲津臣が「外戚天神皇妃両神」を祀ったのが当社目原神社です。

 

(天満神社)金毘羅大権現

 

この仲津臣は、「新撰姓氏録」右京皇別に島田臣の条に見えます。つまり、゛多朝臣と同じき祖、神八井耳の後なり。五世の孫、武恵賀前命の孫、仲臣子上(ナカツオミノコカミ)、稚足彦天皇(成務帝)の御代に、尾張国の島田上下の二県に悪神あり、子上を遣わして平服けて、復命まをす日、号を島田臣と賜ひき゛とある、仲臣子上の事とされます。そして大和氏によれば、「新撰姓氏録」には多氏と和邇(春日)氏が「仲臣」と称していたと記され、意味は神と人の仲をとりもつ者の事です。そしてそれと似た名を氏族名としたのが、卜部出身の「中臣(ナカトミ)」氏ということです。

 

(天満神社)稲荷神社

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

大和氏は、当社創祇譚に見えるような、大和と対馬を繋ぐ記事が、「大同類聚方」にも載るとされます。一つは、゛太計太(タケタ)薬、大和国十市郡竹田神社乃祝、竹田川辺連秀雄之家之方也゛とあり、もう一つは゛太計多(タケタ)薬、対間国下県郡阿麻氐留神社之宮人箘田連重宗之家ニ伝流所方、元者少彦名命神方゛とあるものです。橿原市東竹田町の竹田神社は、「多神宮注進状」では、多神社の若宮で川辺連が祝だと書かれており、また竹田川辺連は、「新撰姓氏録」によれば、火明命の五世孫建刀米命の後の武田折命が景行天皇から賜った姓の箘田連に続く氏族です。

 

(竹田神社)入口。堂々「式内竹田神社」の石標が玉垣の内側で拝見しにくかったです

 

「多神宮注進状」によれば、当社の禰宜は、肥国造の後進である肥直です。702年の筑前国嶋郡川辺里戸籍に大領肥君猪手の名が載ります。嶋(志摩)郡には「倭名類聚抄」によれば川辺郷があり、この地にいた肥君が志摩郡の大領です。大和氏は、その位置関係から、川辺郷での肥君と対馬下県氏との交流を推察されます。目原神社、竹田神社共に川辺郷であり、これらから対馬の竹(箘)田連と大和の竹田川辺連を結ぶものとして、火(肥)氏の存在を考えておられました。

 

(竹田神社)入口鳥居

 

730年の「大倭国正税帳」に゛目原神戸、稲二六五束、祖六束、合二七一束゛などの記録が載り、「新抄格勅符抄」の806年の牒に神戸二戸とあり、「三大実録」859年には従五位下より従五位上の昇叙した事が記載されています。「延喜式」神名帳の大和国十市郡に゛目原坐高御魂神社二座゛と載る式内社です。

 

(竹田神社)地蔵堂が隣接

 

【鎮座地、比定】

目原坐高御魂神社の比定候補としては、「和州五郡神社神名帳大略注解」の耳成村木原とする説もあります。「大和志料」は、木と目の音が通じる事を理由に木原と考え、耳成山口神社に合祀されたとしています。しかし大和氏は、地名の転訛を安易に推定した上に成り立ち、他に確たる論拠がないので無理だと考えられました。

 

(竹田神社)拝殿

 

当社天満神社説は、明治時代の「古寺社沿革概略」「神祇志料」「大日本地名辞典・上方」が採用した説で、大正4年の「奈良県磯城郡誌」では、゛当社より子安神社にかけて南東北に三方に流るる川は、皆目原川と称し其根本地とも称すべき地方人の尊重せる小丘は、真目原と称し、西方へ沿える七段歩の地はこれを宮の坪と称する等、目原は此地に誤りなく、其社頭及社領等の広大なりしをも、併せ称するに足るべきものなり゛と書かれ、当時天満神社の境内は650坪もあったことが分かります。

 

(竹田神社)本殿

 

【神功皇后新羅遠征の中臣鳥賊津連と対馬】

河村哲夫氏は「神功皇后の謎を解く」で、神功皇后の新羅遠征に大夫として同行した中臣鳥賊津(伊賀都、イカツ)連について、雷大臣と同一人物とする説があり、有名な中臣氏の先祖だと説明されています。もともとは仲ツ臣と呼ばれ、その意味として゛神と人の仲をとりもつ゛という、上記した大和氏と同じ説明をされていました。そして、「津島亀卜伝記」という書物によれば、雷大臣が対馬にとどまって県直となり、亀卜の術を伝えたというのです。雷大臣は中臣鳥賊津連のことであり、その子孫が卜部となって数十家に分かれ、その卜部の本流の橘氏が対馬市厳原町にある阿連の神主だったようです。

 

(竹田神社)本殿の垣内には祠が二つ。主祭神は天香久山命らしいです

 

【伝承のナカツオミ】

斎木雲州氏による「飛鳥文化と宗教争乱」では、中臣氏についての伝承が紹介されています。元々常陸国の鹿島神宮の元神官・卜部家の分家でしたが、豊後国に移住し、常陸国の中部出身であることから中津臣の意味で、初めはナカツオミと自称しました。それで豊後国に中津という町が出来ました。中津彦大王の側近になり、神功皇后の時代から宮中祭祀の職業となったらしいです。

 

(竹田神社)境内

 

中臣氏の具体的な人物として出雲伝承で最初に登場するのは、後に舒明大王となる田村王に仕えた中臣御食子です。大王の座を狙う田村王に対して御食子は新たな婚姻(つまり、離婚し再婚せよ云々)などのアドバイスをして、そのおかげもあって舒明大王として即位したと云います。そして中臣氏も表舞台に姿を現し、後の鎌子(鎌足)の活躍へとつながっていったと説明されています。

 

(竹田神社)おそらく三輪山(その先は同体の伊勢神宮)の遥拝所と、大伴坂上郎女の万葉歌碑

 

「多神宮注進状」が当社を祀ったとする「仲津臣」と、河村氏の「中臣鳥賊津連」、そして、いわゆる「中臣氏」の出雲伝承を並べてみましたが、これらはつながっているのでしょうか。京都葛野の月読神社が中臣氏が強く関わる神社なのだったら、対となる日神を祀ったとする目原神社も同様に、中臣氏が政界の表舞台に登場するきっかけとなった神社だったと考えてみたくなります。

 

東の三輪山

 

(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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