摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

小幡神社(おばたじんじゃ:京都府亀岡市曾我部町)~出雲神と八幡神の不和の歴史を秘める地を偲ぶ古社

2022年01月09日 | 丹後・丹波

 

当社へは車で訪れたのですが、ナビでは到着してるはずなのに神社の案内板も何もなく、たどり着くのに難儀しました。小幡川北側の「金剛寺」の小さな案内標識に従って小道を進めば、結構な広さの神社の駐車場に辿り着けるのですが。境内は道に面していますが、規模的には地域の氏神社っぽい小規模な神社で、知らなかったら見過ごしてしまいます。ただ、ご祭神に開化天皇をお祀りするというとても珍しい神社で、どうも重大な古代史を秘めているらしいので、参拝させていただいて感慨もひとしおでした。

 

・二の鳥居

 

【ご祭神】

「南桑田郡誌」や「亀山市史」では社伝に従って、開化天皇、彦坐(日子坐)王命、小俣王命の三神がご祭神としています。「亀山市史」では、社名がご祭神の一柱、小俣王命にちなむ可能性を述べて重要視しているようですが、「特選神名帳」の方はこの神が「神名帳考証」によるものであり、本来のご祭神かどうか疑わしいとしているそうです。

 

・境内。社殿は豊かな社叢に囲まれこんもりしています。

 

【ご由緒、祭祀氏族】

社伝により、「日本書紀」崇神天皇十年に四道将軍の一人、道主命が丹波に来て開化天皇を祀ったのが始まりとされます。さらに、和銅元年(708年)に大神狛磨が社伝を造営しました。「延喜式」内閣文庫本(明治17年太政官に創設された官庁図書館の資料。当初は政府各省の中央図書館だった)では゛ヲハタノ゛、吉田家本では゛ヲハタ゛の読みが付けられています。小幡大明神とも呼ばれます。

 

・拝殿

 

【中世以降歴史】

宝暦11年(1761年)の「神主代々記録」によると、室町時代に守護による社領押収がありましたが、永正6年(1509年)に将軍足利義植がそれを停止する為に御教書を下しています。

 

・幣殿の奥に本殿があります

 

【鎮座地、発掘遺跡】

旧南桑田郡穴太村を北流する犬飼川の西岸に鎮座します。その東岸には、西国三十三観音巡りの第十一番札所穴太寺も存在します。神社は犬飼川西岸に突き出た山の端に有りますが、その尾根上には穴太古墳群が存在します。方墳三基、円墳及び円墳と推定されるもの十三基からなりその内の五基からは葺石も確認されています。また、十六号墳は古式の竪穴式石室を持ち、勾玉、臼玉、刀子、直刀、剣、槍、須恵器などが出土しました。

犬飼川、東の曾我谷川、北の山内川流域の平野は、亀岡盆地内でもとりわけ典型的な条理型地割の分布するところです。つまり小幡神社は古くから開発の進んだ地に鎮座している事になります。和名抄に記載のある郷のうち、「大日本地名辞典」によれば、佐伯郷が山内川流域の旧佐伯村、漢部郷が曽我谷川下流域の旧餘部村、そして宗我部郷が犬飼川、曽我部川上流域の旧曽我部村にあたることなどから、付近一帯は古代的な緒要素と結びつけて考える事の出来る地名の分布がとりわけ著しい、と「式内社調査報告」で金田章裕氏が書かれています。

 

・本殿

・二重虹梁の構造

 

【社殿、境内】

本殿の擬宝珠銘に、゛丹州桑田郡西穴太村 正一位小幡大明神御宝前 天和三癸亥歳(1683年) 五月吉日」と見えるそうです。同年の棟札も現存していて、現在の社殿はこの年に築造されたもの。本殿は、一間社流造・檜皮葺の様式で、亀岡で妻に二重虹梁大瓶束を用いた早い事例と神社は言います。「南桑田郡誌」によれば、文和、明応、永正の棟札の写しも有る事から、室町時代に造営が有った事がわかります。このうち、最古の記録は1357年です。

さらに「南桑田郡誌」によれば、慶長年間の境内範囲について、東は小幡川・幸神、南は小幡川・城山、西は愛宕山峰・濾水溝、北は濾水溝・御船池・明神裏條通、としている事から、東を犬飼川、北を山内川、南と西を山で仕切られた広大な範囲で小幡神社が成立していたと考えて良いだろう、と先の金田氏が述べられています。

 

・本殿横で、反対を向く大原社

 

【社宝】

当地出身で、現代の京都画壇にまでその系統が続くという「円山派」の祖である円山応挙が描いたという絵馬を所蔵し、本殿横に設置した展示棚で展示されています。応挙は父藤左衛門の命により描きましたが途中で死亡したので、子の応端が装飾し享和三年(1803年)に完成したものです。

 

・一間社流造の本殿。長押と鴨居の間の龍の透かし彫りが良く見えます

 

【伝承】

東出雲王国伝承は、記紀のいわゆる四道将軍の説明に関して、確かに人物はそのように移動したが意味が違うと再三主張しています。そして彦坐王命やその御子道主命(美知能宇斯王のこと)は実際はオオヒビ王の後を継いだ王であり、九州東征勢力の大和侵入の時に道主命が大和からこの亀岡の地まで逃れ(遷都したとする話も)、ついにこの地で降伏したと一貫して主張しています(「事代主の伊豆建国」「仁徳や若タケル大君」等)。この話は、同じく亀岡市の鍬山神社でご祭神大己貴命こと大国主命の傍らに八幡神を祀った時、夜ごと雷雨があり社辺に争いの殺伐の声があって翌朝には鳩と莵が多く死んでいたという、莵(出雲神、その分家だった初期大和勢力を現すと推定)と鳩(八幡神、日向勢力と連合した豊国宇佐勢力を現すと推定)の争闘の伝説につながるように見えます。その道主命が祖父を祀ったのが小幡神社であり、命はその後も名前を変えて因幡国造に任命されたと出雲伝承は説明しています。

そうすると、初期大和政権(葛城王国~磯城王朝)と関わる王宮があったかもしれない小幡神社の敷地が広大で、条里制など早くから発展していたという調査結果は、意外な事ではない気がします。いわゆる「国譲り」は出雲の稲佐の浜での出来事とする神話が有名ですが、その元となる重要な出来事は、摂津三島の北方この亀岡の地で起ったらしいというのは、近隣の高槻の人間にはなんとも魅力的な話です。

 

・犬飼川。右が小幡神社の社叢

 

(参考文献:小幡神社境内掲示板、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「角川日本地名大辞典」、「式内社調査報告」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 山陰」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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