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★こちらの磐手杜神社の記事で、安満宮山古墳の被葬者について、さらに思いをめぐらせてみました★
摂津三島の古代史や数ある史跡の中で、3世紀半ばの築造とされ、一番”邪馬台国”に近いと考えられている、三島古墳群の中でも最も古い安満(アマ)宮山古墳。特にその注目の原動力となっている副葬鏡について取り上げます。青龍三年鏡と三角縁神獣鏡が有名ですね。
【邪馬台国大和説からの説明】
現代の高槻で、この古墳と副葬鏡はどのように捉えられてるのでしょうか。それを、今城塚古代歴史館の特別館長、森田克行氏が、2006年に出版された「日本の遺跡7 今城塚と三島古墳群」に詳説されていますので、まずそのごく要点をピックアップしておきたいと思います。なお、この本は安満宮山古墳のみならず太田茶臼山古墳や今城塚古墳を始めとする三島古墳群全般について、長年の発掘成果がまとめられていますので、この地の古代史にご興味ある方はお薦めです。
・高槻市公園墓地内にあります
森田氏は、邪馬台国畿内説に基づき、安満宮山古墳で副葬されていた5枚の銅鏡を、中国から何らかの形で入手した舶載鏡と考えられていて、このベースで論考されています。
まず安満宮山古墳の位置づけですが、方形周溝墓の伝統をひく長方形という墳形と一辺20mに満たない古墳の規模は、この後に続く三島の前方後円墳等と比べても、短絡に三島の王墓と言えない、とされています。そんな小方墳で、5面もの舶載鏡を副葬している例は他になく特筆すべき事です。以下にそれぞれの鏡の概要や日本に輸入された経緯の推定をまとめます。順番は輸入されたと思われる順です。
(4号鏡)斜縁二神二獣鏡
後漢終末期の製品とみられ、その時期に朝鮮半島の楽浪郡域から公孫氏政権末期に倭国との外交関係の中で舶載された。
(2号鏡)青龍三年方格規矩四神鏡
”岡本編年”の漢鏡五期の方格規矩鏡をモデルにした魏代の復古鏡。青龍三年の段階で、魏が東北部の公孫氏政権打倒計画の実行にあたって、その背後の倭国に服属を期してもたらされた資料との説も可能性の一つとして、魏との正式通交の前に入手したと考える。
(5号鏡)陳是作同向式神獣鏡
画文帯同向式神獣鏡の内区に乳を配置しない系列下に製作された物。景初三年画文帯神獣鏡、広峰15号墳の景初四年盤龍鏡、出雲神原神社の景初三年三角縁神獣鏡、そして正始元年三角縁神獣鏡など、三角縁化を意図した試作鏡群や最古相の三角縁神獣鏡のなかに包含されるもの。外縁形状が定型化していない。倭国の朝献時に洛陽で製作され、下賜された「銅鏡百枚」に含まれる。形状の各要素から製作順序を考定するのが困難で、慌ただしく製作されたと考える。
(1号鏡)三角縁環状乳神獣鏡
後漢後半から顕在化してくる四神四獣形式の環状乳神獣鏡をモデルに鏡径を大きくしたもの。外縁の断面が定型化してない、最古相の三角縁神獣鏡群の一点。下賜の「銅鏡百枚」に含まれる。
(3号鏡)三角縁獣文帯神獣鏡
「銅鏡百枚」の後、倭国向けに大量調達するため、定型化した三角縁神獣鏡。外縁断面は屹立した三角形となり、笠松型文様も有る。製造地は洛陽から、倭国専用に徐州付近へ移された。それは、定型鏡のみに「同(銅)出徐州」「至海東」の銘文が見られ、一方で「三国志」魏書明帝記の景初二年八月に゛司馬宣が公孫淵を滅ぼし、海東の諸郡を平定した゛との記事が有り、諸郡とは帯方、楽浪、遼東の三郡と山東半島の東菜郡方面の事である事から、「海東」は山東半島周辺が有力と思われるから。
なぜこれら5鏡が、王ではなく安満ムラの首長クラスに渡されたかについてですが、淀川水運の近傍に拠点を構え、物流を統括管理するという個人的能力や実績を評して与えられたと想像するしかないようです。
・5鏡のレプリカは鋳造品
【出雲伝承での説明】
続いて、我らが高槻の古代史の大家の論考に対して誠に恐縮ですが、通例通り両論併記という形で、大元出版本での出雲伝承による三角縁神獣鏡に関する主な説明だけまとめます。
まず、一般的にも知られた事だと思いますが、1984年に日本で行われたシンポジウムで、中国の当時の社会科学院考古研究所長、王仲殊が主張した説「中国には三角縁神獣鏡は1枚もなく、笠松型の幡模様もない事から、三角縁神獣鏡は日本製である」に触れて、重視しています。それでは日本で誰が作ったのでしょうか?
・ガラスはめ込みシェルターで墓抗をカバー
三国志の中で、遼東の公孫淵が、魏に対抗する為、呉の孫権と協調しようとするものの、突如裏切って呉からの使者を切り、その首を魏に送る話があります。232年でしょうか。実はこの時、孫権は遼東に大船団を派遣しており、その中には財宝と共に銅鏡作りの工人もいたそうです。そして先の急変により慌てて逃亡した呉の船が、途中で難破し、最終的に倭国に亡命して来たと言うのです。
このブログでも断片的に邪馬台国の時代の伝承を入れてきましたが、東出雲伝承の話は、いわゆる”邪馬台国東征論”になるのだと思います。ただし、”邪馬台国”は日本の各地に、九州にもあったし大和にもありました。そして何より、出雲王国もその当時まで、なんとか存続していたらしいのです。
亡命してきた呉の銅鏡の工人達は、まず九州に辿り着きますが、九州勢力が、魏志倭人伝にある通り、魏と国交を開こうとしていた事を知り、魏と関りのない大和へ向かったのです。彼らが、呉の年号の神獣鏡のみならず、青龍三年鏡も作った、としています。
・発掘状況を再現。フィルムが剥がれ気味になってました
大和では、さらに日本人好みの大きい銅鏡が作られました。強度を確保する為に、周囲を三角にしたのが三角縁神獣鏡でした。笠松模様は、九州勢力が魏からもらった黄幢を真似た笠松幢を模したものと言います。それらを、九州の日向王国勢力が魏から銅鏡100枚下賜された事に対抗して、近畿の連携する豪族達~アマ氏(のち、尾張氏・海部氏)、高鴨氏、登美氏等~に配布したそうです。
後漢の時代、184年に黄巾の乱が起こっています。これは道教を信奉する集団による乱で、これにより後漢は滅びます。魏の時代はその記憶が残っており、道教は”鬼道”であり国家転覆の邪教と考えられていたといいます。だから、日本の為にわざわざ道教神の彫られた三角縁神獣鏡を作る事はあり得ない、と主張しています(ウィキペディアにも、”曹操が五斗米道信者を強制的に北方へ連行した事から(中略)、五斗米道そのものは一時中絶の危機に陥る”と書かれていますね)。
・ヨシトミヤスオ氏によるマンガ説明
現代でもまれに、中国で三角縁神獣鏡が見つかった、と報道される事があります。対して雑誌邪馬台国で安本美典氏が丁寧な論考で、ねつ造鏡であると一蹴されています。それらはいずれも発掘で出土したものではありませんし。また、安本氏は三角縁神獣鏡の青銅が、西晋鏡と同じ、中国南方の呉系の銅なので、年代が確実な西晋鏡の後、4世紀の物だと主張されています。
伝承によれば、日向王国から帯方郡に派遣されたある著名な人物が、ひそかに大和勢力から青銅の地金を調達するように頼まれており、追加の呉の工人とともに持ち帰って、大和勢力に寝返ったそうです。大和勢力と密約はその人物が日向勢力側から寝返る直前の話で理解しにくいですが、心が揺れていた時期だったということでしょうか。。。この地金が南方系の物なら、安本氏が4世紀とする青銅は、3世紀に持ち込まれていたと取れます。呉からの鏡作工人が住んだという場所、奈良県の磯城郡田原本町八尾に鏡作神社が鎮座しています。
・やせ尾根で土留に難儀したそう
【三角縁神獣鏡の銘文】
さらに出雲伝承は、大阪府柏原市の松岳山古墳に隣接する茶臼塚古墳(「親魏倭王の都」では茶臼山古墳と記載)で、江戸時代に見つかっていた三角縁神獣鏡の銘文を、金剛輪寺の阿闍梨覚峰が日本語に訳したという内容を紹介しています。
”大空の下の・・・四海を船で渡り、東の海東に至り青銅を使って作った”(浮由天下敖四海 用青同至海東)
ここでは、「海東」は和国の別名だった、との説明です。しかし、上記した森田氏による有名な「三国志」の解釈がおかしいとは思えず、江戸時代の訳が正しいとは即断定しにくいです。
また、これは三角縁四神二獣鏡の銘文の事ですが、同古墳からのもう一枚、三角縁四神四獣鏡が出土しています。ここにも銘文があり、「銅出徐州 師出洛陽」とあります。この文面の解説も併せてしてほしかったです。
個人的には、中国で三角縁神獣鏡が、失敗品も含めて発掘出土した実績がない、という事実は確かに重いのでは、とは考えています。
★こちらの磐手杜神社の記事で、安満宮山古墳の被葬者について、さらに思いをめぐらせてみました★
・左方向に淀川も望める絶景です
それでも安満宮山古墳が、古代史を考える上で重要な古墳であることには変わりないとおもいます。
こちらにも頂き有難うございます。
高槻市は邪馬台国近畿説派で、安満宮山古墳の
説明パネルや今城塚古代歴史館の説明もそれが
基本になってます。なかなか確たる証拠が出に
くい中で、一般的にはまだまだ論争が続くので
しょうね。