摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

高槻市奈佐原丘陵の弁天山古墳群 ~三島古墳群を代表する5基の前方後円墳~

2019年02月09日 | 高槻近郊・東摂津

(2023.5.21三角縁神獣鏡の写真追加)

 

★今年2022年、今城塚古代歴史館の春季企画展として、「王家の丘-弁天山古墳群の系譜」が開催されています(3月12日から6月12日)。これまで十分な公開の機会がなかったようです。弁天山C1号墳の三角縁三神三獣鏡などが展示され、無料で見学できます。また、綺麗な写真が掲載された図録も販売されていて、建設中の名神高速道路の様子が写った発掘現場のカラー写真なども掲載されて、昔のこのあたりの様子がうかがい知れました★


摂津三島は、以前にご紹介したように、縄文時代末から弥生時代全期にかけての画期が歴代の遺跡発掘で確認されていますが、その弥生時代の終わり、後期後半に安満ムラが衰退するのと裏腹に発展していったのが、郡家川西ムラでした。郡家川西は古墳時代を通じて三島最大の集落として継続し、この地域の人たちが後の三島県主に繋がっていくと考えられています。

その郡家川西の勢力を母胎として造営された、奈佐原丘陵からその麓に展開する弁天山古墳群。超特大の太田茶臼山古墳や今城塚古墳は別格として、この弁天山古墳群こそが三島古墳群を代表する古墳になります。森田克行氏の「今城塚と三島古墳群」を参考に、発掘成果を部分的にピックアップさせていただきます。


●岡本山古墳

名神高速道路の直ぐ隣に位置する、古墳群で最古の古墳、3世紀末の造営とされています。弁天山古墳と共に丘陵の上に築かれていますが、現在は住宅街に囲まれて全貌を伺う事が出来ません。



岡本山の形状は、箸墓古墳と同じく前方部がバチ状に開く形状。残念ながら、これも弁天山同様、本格的な調査はされたことがないそうです。若干、1960年の名神高速の建設時に前方部の一部が調査された程度。全長120m、3段築成で葺石をほどこすものの、埴輪は無い事が分かっています。名神の工事中には複数の板石が見つかり、前方部にも竪穴式石槨の存在は確実と判断されています。


このくらい高い場所にあります


●弁天山古墳

1965年に島上高校地歴部が測量したことがあり、全長は100m、前方部が短かく左右が不揃いであることが判明しました。墳丘斜面は葺石で覆われ、こちらも埴輪は無かったそうです。





●弁天山C1号墳

1963年、わが国で初めて全面調査された前方後円墳です。

3段築成の墳丘に葺石をほどこしていました。埴輪は後円部墳頂、前方部側斜面、前方部墳頂などに、円筒、長楕円筒、特大円筒、朝顔形を配置。長楕円筒埴輪は、埴輪祭祀場を区画するように据えられており、柵形埴輪の生成にかかわる形式では、と予見されています。埋葬施設は竪穴式石槨1基、粘土槨2基。割竹形木棺を埋置していました。

 

東京国立博物館に展示されていた高槻市阿武野の三角縁神獣鏡。ココのものでしょう



代表的な副葬品を挙げますと、伝世鏡とみられる斜縁神獣鏡1枚、波文帯三神三獣鏡に属する三角縁神獣鏡が1枚、四獣鏡1枚が見つかっています。その他は、勾玉、管玉、石製腕飾り、碧玉製合子、筒形石製品、銅鏃、鉄鋸、鉄鎌、鉄斧、鉄鉇、鉄刀子、鉄刀等、多数。

築造時期は、墳丘形状、銅鏡の状況や、三島最古の埴輪の存在から、4世紀中頃とみられています。残念ながら古墳は残ってなく、住宅地の中の公園になっています。





●郡家車塚古墳(タイトル写真も)

丘陵から麓に降りたところに位置する、住宅に囲まれつつも、田んぼ側から奇麗な前方後円墳の形状が確認できる古墳です。

 


後円部から。左側がくびれ部 

 

墳丘は2段築成で葺石は有りました。埴輪は後円部墳頂の中心付近で1点の入母屋式の家、周縁に円筒を密に配置し、その他若干の壺形、朝顔型が出土。また、上段裾部のテラス面には鰭付円筒を疎らにめぐらせていました。復元した鰭付埴輪は高さ112.5cmになります。河内津堂山古墳の出土品と類似し、河内からの搬入品とみられています。器財埴輪は検出されなかったようです。

埋葬施設は2基の粘土槨。第一主体は割竹形木棺が検出されました。第2主体では、四獣鏡1枚の他、勾玉、管玉、棗玉等々が出土しています。


前方部側から

 

●前塚古墳

一見、円墳に見えるのですが、1988年の発掘調査で削平された前方部が露わとなり、三島で最古の周濠を持つ帆立貝式前方後円墳である事が判明しています。濠を含む全長は120m。築造時期は5世紀前半に前倒し修正されました。




段築は不明ながら、葺石はくびれ部と前方部の裾で確認されました。埴輪は後円部で円筒列、墳頂で家形を検出。その他、朝顔形、蓋形、そして三島では最古となる獣の脚部が見つかってます。いずれも野焼き製です。周濠外側に円筒埴輪を並べた痕跡はありません。

主体部は、長持形石棺の直葬と考えられています。長らく茨木高校の中庭(!?)に置かれていたようですが、1994年以降は、近つ飛鳥博物館で展示・保管されています。副葬品は、倭鏡、鉄刀、鉄鉾程度です。



元々”弁天山古墳群とは、丘陵上の最初の3古墳を指していましたが、前塚古墳の築造時期修正により、岡本山から前塚までの5古墳が単一の系譜として追えるようになり、これらを弁天山古墳群と呼ぶのが適切かもしれない、と考えられています。




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