【内宮 月読宮】
内宮別宮の「月読宮」は、内宮の北方2kmにあります。804年の「皇大神宮儀式帳」には月読宮一院として、古くは神像らしきものがあったようです。「延喜式」になると荒御魂神も祀られていました。神像は中世の火事で焼けてしまったと思われます。現在は、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮を含め4つの社が並んでいます。
・内宮 月読宮 一の鳥居
【外宮 月夜見】
一方、外宮別宮の「月夜見宮」は外宮の北御門の北300mにあります。「止由気宮儀式帳」には月読神社と記されますが、「延喜式」で月夜見神社になります。ご神体は鏡だそうです。
・外宮 月夜見宮 一の鳥居
【記紀の月神】
ツキヨミ命は、天照大神の弟にあたる存在ながら、記紀にあまり事績が語られませんが、日本書紀の一書に若干記載があります。それは、ツキヨミ命が保食神を訪れて接待を受けましたが、保食神が口から飯や大小の海魚類を出して調理していたので、ツキヨミ命が怒って切り殺してしまったというもの。これで天照大神に「お前は悪神だから見たくない」と言われ、昼と夜とに分かれて住むようになった、という顛末です。月と農耕との結びつきの信仰から出た説話という事ですが、難しいですね。
・外宮 月夜見宮
月神をまつる式内社は多数あり、伊勢でも別宮二社以外に、摂社の川原神社と魚見神社があります。特に魚見神社はツキヨミと海神の豊玉彦、豊玉姫を祀るとされています。松前氏はこれらはどう見ても海人との関係を示すもので、天照大神の兄弟神だから祀られた、とは単純に割り切れないと考えられています。
・内宮 月読宮の参拝案内
同書で大和岩雄氏は、顕宗記にも出てくる月神(松尾大社の摂社)について、記紀の語る アマテラス大神・ツキヨミの神話体系とは無関係のようだと述べています。そしておそらく、この記事こそ本来の月神神話ではないかと考えられていました。その月神は荒々しい男神で、月読宮にあったという 上記の神像だけはその本来のイメージを伝えていたと見られます。これが自然神の日・月神が人文神になる過程で、日神が皇祖神となったため、荒々しい男神は素戔嗚命に移されてしまい、ツキヨミは活躍の場を失っ たのではないかと考えられます。なお、顕宗記に記載の月神は、九州方面出身の壱岐県主が京都府西京区の月読神社に祀りました。(同じく京都府の京田辺市にも月読神社が有りますが、そちらは7世紀に九州の大隅地方より移住した隼人族により祀られたとされています)
【宇佐家の語るツキヨミ】
以前の住吉大社2の住吉神兎の紹介で、大分県宇佐八幡宮の元宮司、宇佐公彦氏「古伝が語る古代史」に記載の月読伝承を紹介しましたが、その説明を再び記載します。
ウサ神はウサギ神であるが、古代日本人は、氏族の名称を動物や土地の呼び名になぞらえて、氏族の由緒や職業を表示していたから、菟狹族の天職とするアマツコヨミ(天津暦)、すなわち、月の満ち欠けや、昼夜の別を目安として、月日を数えたりするツキヨミ(月読)や、ヒジリ(日知、聖)、または天候や季節の移り変わりを見定めるコヨミ(暦)の知能によって、肉眼で見える満月面の模様が、あたかもウサギに見立てられる事から、月をウサギ神(月神)として崇拝し、そのツキヨミ(月読)の天職をもって菟狹族と称するようになった、とのこと。
さらに、ツキヨミとは毎晩、月齢を数える事。ところが、その語源がツクヨミに転訛し、ツクヨミはツクヨ(月夜)に連想されて、ツクヨミ(月夜見)という形が成立し、「万葉集」でもツクヨはほとんど月そのもの意味になっています。
ウサ神はウサギ神であるが、古代日本人は、氏族の名称を動物や土地の呼び名になぞらえて、氏族の由緒や職業を表示していたから、菟狹族の天職とするアマツコヨミ(天津暦)、すなわち、月の満ち欠けや、昼夜の別を目安として、月日を数えたりするツキヨミ(月読)や、ヒジリ(日知、聖)、または天候や季節の移り変わりを見定めるコヨミ(暦)の知能によって、肉眼で見える満月面の模様が、あたかもウサギに見立てられる事から、月をウサギ神(月神)として崇拝し、そのツキヨミ(月読)の天職をもって菟狹族と称するようになった、とのこと。
さらに、ツキヨミとは毎晩、月齢を数える事。ところが、その語源がツクヨミに転訛し、ツクヨミはツクヨ(月夜)に連想されて、ツクヨミ(月夜見)という形が成立し、「万葉集」でもツクヨはほとんど月そのもの意味になっています。
・内宮 月読宮
【伝承の月神】
つまり、ツキヨミ神は宇佐の神、そして九州の神と言えそうですが、それで はどうやって伊勢に来たか。。。東出雲王国伝承によると、九州日向 勢力の東征の際に、連合する豊国軍の月神を祭祀する姫巫女が同行して来たと云うのです。三輪山から太陽神が去った後、一時、この"月神"が、笠縫邑に祀られたらしいですが、このあたりの経緯は記紀では上手く調整して書かれたとのこと。
ただ、その後も大和の争乱は続き、その月神も九州東征勢力が戦いを続 けていた丹波・丹後に逃れたそうです。その「豊」から来た姫は、その地の奈具社や宇良社で月神 を祀った後、最後は伊勢の椿大神社に移り、そこで亡くなったといいます。その姫巫女が丹後に行った事で、月神とその地の アマ氏~海部氏が繋がりを持ち、一般に理解されているように、後の雄略天皇の時代に豊受大神として伊勢に遷されました。
・内宮 月読荒御魂宮
・内宮 伊佐奈弥宮、伊佐奈岐宮