摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

和泉国一之宮 大鳥大社(堺市西区)~日本武尊が最後に留まった「千種の森」と「根上りの大楠」

2020年12月05日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

 

JR阪和線で鳳駅あたりに差し掛かるたびに見える、鬱蒼とした社叢「千種の森」がとにかく印象的で、参拝してみたいと思っていた神社です。谷川健一編「日本の神々 和泉」では゛大鳥神社゛の表記になってましたが、今は大社表記になってます。地名の鳳は、当社の神宮寺で聖武天皇の勅願で行基が開基した神鳳寺に由来すると思われる、と上記の本で林利喜雄氏が述べられています。

 

・入口の一の鳥居と長い参道。神殿へは右に折れてコの字に行きます

 

【修復された社殿】

平成30年に大阪を襲った台風で社殿や境内に相当な被害があったそうで、神社は令和3年までの段階的な復興事業を増祀六十周年記念事業と併せて計画、進行中のようです。その甲斐あって、本殿と神門は昨年に完了、そして拝殿とその前の鳥居については今年10月に修復の奉告祭が執り行われました。元々、「大鳥造」と呼ばれる古式で堂々たる社殿でしたが、それがさらに真新しく若々しくなったお姿で拝見する事ができました。

 

・「千種の森」に囲まれ広々とした境内。新たに建造された神明鳥居が鮮やかです。柱は八角形、気になります。

・祭神日本武尊御神像

 

【神階・奉幣等】

「延喜式」神名帳の名神大社で、和泉国の式内62座の中でも唯一の大社として歴代天皇の尊崇きわめて篤く、殊に国家的災難時に神祇官から指定された防災雨祈の御祈願社85社の一つであり、途切れることなく臨時の奉幣に預かった、と神社は言います。「三代実録」によれば、859年に正五位下勲八等から従四位下に昇格、さらに861年に従三位に叙せられました。その後も、「大鳥神社流記録」には正一位勲八等、「国内神名帳」には正一位大鳥大社と記されます。

 

・拝殿

 

【ご祭神、ご由緒】

御由緒は「泉州志」の大鳥神社縁起によります。「古事記」では倭建命が伊勢国の能褒野で亡くなったと書きますが、神社縁起によると30歳で亡くなったそうです。また「古事記」は、白い千鳥になった倭建命が河内国志紀に止まった後、天高く飛翔したと書きますが、神社縁起では、大和の琴弾原(現在の御所市)、河内の古市(白鳥神社があります)そして最後に留まったのが河内の大野里、つまり現在の大鳥大社の地だと云います。この白鳥伝説により当社では久しく日本建尊をご祭神としてきましたが、この地が中臣氏系統の大鳥連の居住地と考えられる事から、その祖先である天児屋根命が本来の祭神と考えるのが自然だと、林氏は云われます。神社ではこの御方を大鳥連祖神として、日本建尊と共にお祀りしています。

 

・神門

 

【中世以降歴史】

当社は武家の尊崇も集めたようで、平清盛と嫡男重盛の参拝が有名です。1159年に清盛一行が熊野参詣のため紀州路を進んでいましたが、源義朝と藤原信頼が挙兵するという平治の乱の知らせがありました。重盛の進言により清盛は都に引き返すことになり、泉州路を戻る途中で当社に立ち寄り、平家の武運長久を祈願したそうです。清盛はその時歌を詠んで奉納し、重盛は飛鹿毛という愛馬を神馬として奉納しました。

 

・本殿

・右側の社叢越しに本殿を望む

 

【本殿】

大鳥造は、形式上は出雲大社神魂神社の大社造が発展したもで、さらに住吉造への発展途上にあると見られます。大社造は口が二間の右側に入口が偏っていたり、神座が横を向くなど古住宅建築の色彩が強いですが、大鳥造は内部の心柱がなくなり、前後に内陣・外陣が分かれ、外陣正面の扉は壁の中央にあります。このため、平面は側・背面とも二間ですが、正面は三間になっています。千木、鰹木が有るのは大社造と同様ですが、廻縁がないので、かえって出雲大社より古風を残している、と林氏は書かれいました。

 

・摂社、大鳥美波比神社。ご祭神天照大神、相殿菅原道真公。主神の外七柱を合祀

 

 

【伝承】

倭建命の物語は、各地を平定していった多数の戦士たちの活躍と苦闘を一人の英雄に結集させたものだろうと、一般には理解されています。東出雲王国伝承を語る「お伽話とモデル」で斉木雲州氏は、゛ヤマトタケルの事蹟はワカタラシとナカツ彦両大王の事蹟と酷似している、と伝承者は言う゛と書かれます。また、オシロワケ大王の事蹟も含んでいるともその本で云っています。

 

・ご神木、根上りの大楠。確かに根が独特な盛り上がりをしています。値上がる~価値が上がるで商売繁盛の大楠とされます

 

また、「事代主の伊豆建国」で谷日佐彦氏は、伝承によれば、倭建命こと小碓王は忍代別大王と共に東方征服に向かわれたと書きます。茨城県稲敷郡で忍代別大王が亡くなって以降は小碓王が代理として活躍され常陸国を征服、大和へ帰ったそうです(※)。この為、「常陸国風土記」で、大和武スメラミコトの名称が使われた可能性が述べられています。<(※)「仁徳と若タケル大君」で、富士林雅樹氏が異説を出されている事を付記しておきます>

 

「秀真伝(ホツマツタエ)」に関する本に、忍代別大王の頃の日本地図として東海・関東にまたがりヤマト国があったとする地図があるようです(前田豊「徐福と日本神話の神々」)。これは上記の大王と小碓王の東方遠征を表現したものなのでしょうかね。近畿中心部はナカクニ国となってますが、出雲伝承からすると加茂"代理"王家(元は磯城登美氏)がいたところのような気がします。さらには、この地に出雲の大社造の発展形で、住吉造より古い形式の社殿があるというのは、そういう時期に和泉の地域に出雲族が来ていた事を暗示しているのでは、と感じています。

 

・根上りの大楠全景

 

 

(参考文献:神社ご由緒、谷川健一編「日本の神々 和泉」、山本明「地図と写真から見える!古事記・日本書紀」、前田豊「徐福と日本神話の神々」斉木雲州「お伽話とモデル」、谷日佐彦「事代主の伊豆建国」等出版本


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